九話

 翌朝、僕はいつも通りに支度を終えて、いつも通りに玄関へ向かう。


「いってらっしゃい、エヴァン」


 食卓を拭いていた母さんが笑顔で僕を見送る。


「う、うん。行ってきます」


 意識しないように振る舞いたいけど、やっぱり頭には昨日知ったばかりのことが浮かんでしまう。


「どうしたの? 私の顔に何か付いてる?」


 僕のぎこちない様子に、母さんは小首を傾げた。


「違う。何でもないよ……」


 笑ってごまかして僕はそそくさと玄関に行った。昨日の動揺がまだ残っているらしい。我ながら情けないな。平然とすらできないなんて。変な意識は早く捨てないと……。


「来たか。じゃあ行くか」


 待っていた父さんが扉を引いて開けた。その途端、冷たい強風がどっと吹き込んできて、整えた前髪は一気に乱され、外套は裾からひるがえされた。


「うおっ……すごい風だな……」


 風圧に耐えながら外に出て扉を閉めると、父さんと僕はごうごうと音を立てて吹く強風の中を歩き始める。


「冬場にここまでの風が吹くのも珍しい。これじゃまるで嵐だな」


 まったくその通りだ。この風は昨晩から強くなり始めたようで、今朝になるとさらに勢いを増して、こんな強風に変わった。ほとんど冬の嵐と言ってもいいくらいだ。でも嵐が近付いているなんて話は聞いていなかったんだけどな……。


「エヴァン、研究の――だが――」


 向かい風の中、父さんは外套の襟元を押さえながら何か言った。


「え? 何?」


「研究の――し――いて――」


 風の音にかき消されて、ほとんど聞き取れない。


「聞こえないから、着いたら言って!」


 大声で伝えると、父さんは小さくうなずいた。周囲を見ると、僕達の他にも出勤途中と思われる人が何人か歩いていたけど、皆顔を伏せて前のめりな姿勢で歩を進めている。風上からはごみや塵が飛んでくるから、まともに目も開けていられない。会話をする余裕もない。こんな強風で、夕方もちゃんと帰宅できるのだろうか。


 研究所に着いて一安心しながら、僕達は早速研究の続きに取り掛かる。が、その間に外の風はますます勢いを強くし始めて、研究室の窓ガラスをがたがたと鳴らしてくる。その音が鳴りやむことはなく、僕は仕事に集中できなかった。それだけじゃない。机を揺らす地震まで起きて、落ち着いていた父さんもさすがに手を止めて、不安げな表情を見せた。


 正午になると、外はまさしく嵐の様相に変わった。人が出歩くのも難しいほどで、街路樹は今にも折れそうなくらい枝をしならせ揺らされている。すべてを押し倒すような強烈な風が、町全体に吹き荒れていた。雨や雪が降っていないだけ、少しはよかったか。気付くのが遅かったとは思うが、昼休憩を使って研究所の所員達は窓ガラスが割れないよう、それぞれで窓に木の板を張り付け始めた。僕と父さんも見習って、不慣れな手付きながら板で窓を塞いだ。そのせいで研究室内は真っ暗になって、ランプの明かりで手元を照らさなきゃならなくなったけど、風が立てる音は軽減されて、仕事にはどうにか集中できるようになった。でもそれも一時間ほどのことだった。


「失礼します……ミトレ先生」


 叩かれた扉が静かに開くと、そこから事務所員の女性が顔を出した。


「ん、何か用かな?」


 父さんと僕は手を止めて目を向けた。


「お仕事の途中で申し訳ありませんが、先ほど全所員に帰宅命令が出されました」


 窓の外は見えないけど、聞こえる風の音はまったく勢いが衰えていない。帰らされるのも無理はない状況だ。


「遠方から来ている者は一晩ここに泊まるようですが、お住まいの近い先生は早くご家族の元へお帰りになられたほうがよろしいかと」


「そうか……わかった。ありがとう」


 女性が去ると、父さんは机の上を片付け始めた。


「エヴァン、今日は仕方がない。終わらせて帰ろう」


 父さんなら研究を優先させて一晩泊まろうとか言い出すのかと思ったけど、この強風じゃさすがに家のほうが気になるようだ。僕も書きかけの書類をまとめて、すぐに帰り支度を始めた。


 まだ日も暮れていない明るい午後だ。薄雲はかかっていたけど、それでもいい天気とは言えた。なのに一歩外へ出れば猛烈な風が吹き荒んでいる。人影はほとんどない。当たり前だ。数歩進むだけでも体力がいる中をわざわざ出歩く人なんているわけがない。そんな通りを、僕と父さんはお互いを支え合いながら少しずつ歩き進んでいった。風向きは頻繁に変わり、僕の体は翻弄される。顔には砂粒や枯れ草が飛んできてちくちくと痛い。ふと横を見れば、今朝まではなかった長く重そうな木の枝が折れて、塀に引っ掛かって揺れていた。こんなものが飛んできたらひとたまりもないな――縦横無尽な風に注意するなんて難しいけど、それでも注意しながらひたすら我が家を目指し、僕と父さんは普段より時間をかけてやっと帰宅することができた。


「おお、早い帰りだな。どうしたんだ?」


 居間へ行くと、そこには木の板を抱えた爺ちゃんがいた。


「帰宅命令が出てね。皆はどこに?」


「シルヴィナはまだ学校で、イリーナとルイサさんは台所にいるはずだ。マルセロは今二階の窓にこの板を張り付けてくれてる。わしはその手伝いだ」


 言って爺ちゃんは抱えた板を見せる。その傍らの椅子の上にも同じ板が重ねて置いてあった。


「一人じゃ大変そうだ。私も手伝おう。エヴァンも手を貸してくれ」


「うん。もちろん」


 僕と父さんはかばんを置いて、すぐに二階のマルセロを手伝いに向かった。強風を受けながら屋根の上で必死に作業する姿を真似して、僕と父さんも窓を塞いでいった。こんなことをするのは生まれて初めてだったけど、三人でやったおかげで全部の窓はすぐに塞がれた。最後の窓はマルセロが塞ぎ、壁を伝って玄関から入ってきたところで、僕達はお互いの労をねぎらった。この家で男四人が集まって何かをしたのはこれが初めてじゃないだろうか。研究ばかりの毎日だけど、やれば意外にできるものだな――そんなわずかな連帯感もつかの間で、窓を塞いで風の猛威を防いだのはいいけど、その後は不意に起こる地震に怯えることになった。


「ひゃっ……また揺れた!」


 日が沈んだ夕食時、家族揃って囲む食卓で妹が敏感に揺れを感じて声を上げる。机の上の食器がかたかたと小さな音を立てていた。


「今日はもう五回以上は起きてるわね」


 母さんが不安そうに言った。


「この風もすぐにやむと思っていたのに、全然やまないし……怖くて仕方がないわ」


 怖いと言いつつも、婆ちゃんの表情は迷惑そうだ。外に買い物に行けないからだろうか。それは家計にとってはいいことだけど。


「ねえあなた、この地震は何で起きているの?」


 婆ちゃんに急に聞かれた爺ちゃんは困ったように笑う。


「さてな。それは専門外だからわからないが、自然界で何かが起こってることは間違いないだろうな」


「嵐と地震が同時に起こるなんて、どっちかにしてって感じ。どっちも嫌だけど」


 妹が不満げに言う。僕もどっちも嫌だな。自然災害は人の力ではあらがえないものだから、余計に恐怖を感じる。


「怖がったところで、なるようにしかならない。まずはそれに備えて、身の安全を確保することが重要だ」


 父さんの冷静な言葉に、皆はそれ以上言うことはなかった。他愛ない話をして、夕食を終えて、それぞれ部屋に戻る。ベッドに入った後も、小さな地震は続いた。そのたびにまどろんだ目が開いてしまう。でも心のどこかでは大したことはないと思っていた。明日になれば風はやみ、地震もこれ以上大きくなることはないだろうと高をくくっていた。そう思わなければ熟睡することもできなかったのだ。そしてそうなってほしいと願っていた。


 けれど、夜が明けても風はやまなかった。それどころか昨日は降っていなかった雨が降り、外は暴風雨の嵐だった。これを見て父さんはすぐに出勤を諦めて、自室での研究に切り替えた。僕もそうしようと部屋に戻ったけど、机で集中し始めると、それを地震が邪魔してくる。かたかたと置いてある物を鳴らし、椅子に座る僕の意識をそらさせる。その回数は昨日までより、明らかに多くなっていた。沈静化してほしい僕の願いは、すべて逆へと変化しているようだった。駄目だ。身が入らない――一息入れようと、僕は部屋を出て居間に向かった。そこでは休校になって時間を持て余している妹がいた。学校の教科書を読んでいるようだったけど、ぼーっとした表情からは真面目に読んでいるようには見えない。


「勉強してるふりか?」


「ふ、ふりじゃない。ちゃんとやってるから」


 僕を見ると妹は慌てて椅子に座り直し、教科書と向き合う。


「そんなふうには見えなかったけどな。心ここにあらずって感じだった」


「地震のせいで寝不足なの。他にも、今週はいろいろあったし……」


「いろいろって?」


「いろいろは、いろいろよ」


 中身を言う気はないらしい。まあ深く聞くつもりはない。僕は温かいものでも飲もうかと台所へ行こうとした。


 その時、玄関が勢いよく開いて、冷たい風と雨が吹き込んできた。驚いて振り向けば、びしょ濡れの外套姿のマルセロが部屋に飛び込んできた。そしてすぐさま風で押される扉を力任せに閉め、鍵をかける。


「……こんな嵐の中、どこ行ってたのよ」


 僕と同じように驚いていた妹が唖然としながら聞いた。


「買い物がてら、町の様子を見に行ってみたんですが、こんな天候じゃどの店も開いてませんでした。買いたいものがあったんですけどね。困ったもんです」


 風と雨でぐちゃぐちゃになった頭をかいて、マルセロは笑った。こんな嵐の中、よく出かけようと思ったものだ。


「風邪でもひいたらどうするの? 早く着替えたほうがいいわよ」


「はい、そうします。……ああそれと、地震が起きてる原因、わかったかもしれません」


「え? 本当?」


「この町で足留めを食ってた商人から聞いたんですが、王国のずっと南に大きな山があるのは知ってます?」


「ああ、ラウン山だっけ? 国境にある山だよね」


 学校の勉強で少し学んだ程度だけど、王国領土の最南端にあって、隣国との国境で壁のような役割をしている高い山だ。火山らしいけど、噴火した形跡はないと言われている。


「その山がどうやら噴火したらしいですよ」


 さらっと言ったマルセロに、僕は思わず聞き返した。


「噴火? でも、あの山は死火山だって聞いてたけど」


「今まで活動はなくても、火山には違いないですからね」


「じゃあ、その噴火のせいでこんなに地震が起きてるってことなの?」


 妹の質問にマルセロはうなずく。


「そうなんじゃないかと、聞いた商人は言ってましたね」


「噴火なんて……何か怖いな。こっちに石とか飛んで来ない?」


「ここからラウン山までは大分距離があるから、さすがにそんなものは飛んで来ないと思うけど……」


 僕がそう言うと、妹は少しだけ安堵の表情を見せた。


「それならいいけど。でも、噴火が治まらないと、地震も治まらないってことよね。まだこんな日が続くんだ……嫌だな……」


 辟易した様子で妹は教科書を手にしたまま、天井を仰ぎ見た。


「自然のことですからね。耐え忍ぶしかありません。とりあえずはこの嵐をやり過ごしましょう」


 微笑みながらそう言うと、マルセロはそのまま台所のほうへと消えていった。


「しばらく寝不足か……」


 妹はぼそりと呟く。


「大丈夫だよ。こんな地震、何度も感じてれば慣れるさ」


「小さい地震なら、ね」


 その言葉に、僕の中にも不安がよぎった。ここ最近はずっと小さな揺ればかりだけど、それだけで治まるかは誰にもわからないことだ。以前のように、突然大きな揺れに襲われるかもしれないし、あるいはそれ以上の、立つこともままならないくらいの揺れが起こることだって……。


 やっぱり、おかしい。数ヶ月前までは、こんな地震すら珍しいことだったのに、今や毎日のように揺れて、嵐が起こって、死火山だと思っていた山が噴火までしている。年の瀬になって自然が一気に荒れ狂っているようだ。家計は苦しいけど、それでも平穏な生活は送れていたのに……一体、いつからこんなことが始まっていたんだ――そう思って、僕の頭にはあの男の姿が浮かんだ。


 大きな地震を初めて感じた日……確か、その一週間後くらいにラモンは現れたはずだ。世界は、もうすぐ滅びると言って……。それからあいつに付きまとわれて、だけどこんなに多く地震は起きていなかった。でも今は揺れが当たり前のようになってしまっている。それがラウン山のせいだとしても、まさか死火山が噴火するなんて思いもしていなかった。あいつに言わせれば、これが世界の滅ぶ様なのかもしれない。僕も、そう信じていなくても、この状況を見るとそんなふうにも思えてくるけど……。あいつの、ラモンの言葉を、僕は信じるべきなのか? 地震や、嵐や、噴火は、本当に世界が終わる合図なのだろうか。


 強風が叩く窓に僕は近付いた。板が張り付けてあるおかげでガラスはそれほど揺れていないけど、それでもわずかにがたがたと音を鳴らしている。板は綺麗に張られているけど、その板同士が接する部分には、どうしても隙間ができてしまう。そこからは曇り空の暗い光が細々と差し込んでいた。僕は顔を近付けて外の様子をうかがってみる。目元に冷たい空気を感じながら見た窓の向こうは、風と雨が横殴りに吹く、相変わらずの暴風雨だった。木の葉や枝、紙くずなんかが一瞬で目の前を通り過ぎていく。そこに治まるような気配は微塵も感じられない。マルセロの言うように、耐え忍ぶしか今は――


「……!」


 窓から離れようとした時、僕は視界に見えたものに瞠目した。風雨で白くかすんだ向かい、通りにある街路樹の横に、強風でマントやフードをばたばたとひるがえしているラモンがいた。


「あいつ、何やってんだ……!」


 風に耐えながらラモンはじっと我が家のほうを見ていた。こんな嵐の日でも僕に付きまとうなんて、本当にいかれているとしか思えない。きっとずぶ濡れで全身凍えきっているに違いない。冬の嵐の中で突っ立っているなんて、自殺行為もいいところだ――僕はすぐに呼びに行こうとしたけど、直後、ラモンの姿が不意に動き、そしてそのまま家の前から遠ざかって行ってしまった。視線が合ったかどうかわからないが、僕が見ていることに気付いたのだろうか。おかしなやつではあるけど、あのままじゃ体が心配だし、やっぱり家に呼んだほうがいいだろうか――気持ちが迷っているうちに、ラモンの姿は嵐の中へ消えてしまっていた。


「兄さん、何見てるの?」


 妹が特に興味もなさそうに聞いてきた。


「別に……外の様子見てただけだ」


 ラモンの表情はここからじゃ見えなかった。でも、あいつが何を言いたくて立っていたかはわかっている。世界を救え――この願いに、僕は応えなければいけないのだろうか。

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