四話

「ただいま……」


 玄関を開けると、その正面の壁際に父さんと母さんの姿があった。


「あら、お帰りなさい」


 母さんの声に迎えられるが、すぐに二人は小声でのひそひそ話に戻った。こんなところで何を話してるんだ――怪訝に思いつつ、僕はその横をゆっくり通り過ぎようとした。


「また買ってきたのよ。お願いだからお義母様に言ってほしいの」


「前にも言ったんだがな」


 二人の会話が聞こえた。どうやら婆ちゃんがまた勝手に食材を買ってきたらしい。


「もう少し強めに言ってくれない? こんなことが続けば、私の手じゃ負えなくなるわ。避けてきた借金をすることにも――」


 借金? それは聞き捨てならない。


「母さん、うちの家計ってそこまでどん底なの?」


 会話に割り込んだ僕に、母さんは目を丸くしながらも笑顔を見せた。


「エヴァン、聞いてたの? ……ぎりぎりではあるわね」


「借金しないと苦しいくらいに?」


「しっ! エヴァン、声を抑えて……」


 母さんは食卓のほうを気にしながら言った。


「まだ借金をするところまで行ってないけど、それも近い状況なの」


「その原因の一つが、婆ちゃん……?」


 母さんは困り顔でうなずく。本当に困り果てているようだ。


「父さん、ばしっと言わないと借金生活だぞ」


「私は前にも注意したんだが……」


 父さんは困惑の表情を浮かべている。


「切実な問題だって説明した? ちゃんと言って聞かせないと――」


「もちろん言っている。だが、息子の言葉では駄目なのかもしれない。孫のお前なら素直に聞いてくれるんじゃないか?」


 父さんは家の面倒事をすぐに人任せにする……。


「僕が婆ちゃんと話すと、すぐ横道にそれて駄目なんだ」


 婆ちゃんは僕にも妹にも優しい。いいことをすれば褒めてくれたし、悪いことをすれば真剣に叱ってくれた。それは孫に真っ当に育ってほしいという気持ちがあるからで、ただ優しくするだけなら楽で簡単だけど、婆ちゃんは時に親のように正面からぶつかっては、日常や世界について教え、学ばせてくれた。しかし、その気持ちが強すぎるのか、大人になった今も、話をしていると説教やら道徳の講義に変わっていたりするのだ。ちょっと話しかけたつもりが、それを三十分も聞かされるのは正直辛い。これが深刻な家計の話なら、一体どれだけ横道にそれることか……想像もしたくない。


「だから父さんからはっきり言わないと。爺ちゃんも駄目だと思うし」


 爺ちゃんは婆ちゃんの尻に敷かれ、あまり強いことを言えない身だ。


「しかしな……」


 父さんは渋っている――まったく、父さんは家のことになると真摯さが途端に足りなくなる。


「おーい、夕食は食べないのか?」


 奥から爺ちゃんの声が呼んだ。


「あ、はあい、今行きます。……お義母様に、お願いね」


 母さんの頼みに仕方なさそうに父さんがうなずき、僕達は揃って食卓に向かった。


 家族がそれぞれ席に着き、僕は外套を脱ぎながら夕食を見下ろした。今晩は定番の一つのキャベツと豆の煮込みだ。とろみのついたクリームソースと胡椒の香りが空腹を刺激する。


「では、食べようか」


 父さんの声で皆がいただきますと言って一斉に食べ始める。僕はキャベツをフォークで刺し、口に運んだ。くたくたになるまで煮たのか、噛むとすぐにばらけたキャベツは、ソースと相まってほのかな甘みを感じさせた。そして後味に胡椒がぴりっとくる……これぞいつもの母さんの味で、やっぱり絶妙だ。


 向かいで食べる妹を見ると、昨日みたいに野菜料理にまた辟易しているかと思いきや、意外にも食は進んでいた。その表情はうっすらと笑っているようにも見える。妹はこれが好物だったかな。それともただ腹が空きすぎてるだけか?


「……何?」


 ふと妹の顔がこっちを見た。


「今日は愚痴らないんだな」


「愚痴ったって何も変わらないし」


 明るい声でにこりと笑った。昨日とは大違いだ。


「機嫌よさそうだな。いいことでもあったのか?」


 聞くと、妹はよく聞いてくれたとばかりに笑顔を浮かべ、僕を見据えた。


「ふふふ……まだ秘密」


 言わないのかよ。


「……聞きたい?」


「そりゃ、まあ」


 何となく予想はできることだけど。


「どうしようかな……」


 握ったフォークを揺らしながら、妹はもったいぶる。


「兄さんになら教えてもいいかな……うーん、でも……やっぱりまだ秘密にしておこう。ごめんね」


 妹はうふっと笑う――面倒くさ。僕は妹から早々に料理へ視線を戻した。でもまあ、笑顔になれることがあるのはいいことだ。近頃は心から笑えることが少ないからな……。


「ルイサさん、デザートにイチゴは出さないの?」


 食卓に婆ちゃんの声が響いた。


「あのイチゴは、ジャムにしようかと……」


「ジャム? 今日買ってきてあんなに新鮮なのに、一個も味わわないで潰してしまうつもりなの?」


「数も多かったですし、ジャムにしたほうがいろいろなものに――」


「残念だわ。デザートとして食べられると思っていたのに……。仕方ないわね。新鮮なものを見つけたら、また買ってくるわ」


 その瞬間、婆ちゃんを見る母さんの目が、恐ろしく険しくなったのを僕は見逃さなかった。父さん、注意するなら今だぞ。


 すると、僕と母さんの期待に押されたかのように、おもむろにフォークを置いた父さんは、婆ちゃんに視線を向けた。


「……母さん、食材の買い出しはルイサとマルセロがする。母さんが行くことはない」


「何を言っているの。私も家族の一人なのよ? お手伝いするのは当然でしょう」


「その必要はない。買い出しは二人で――」


「それに、買い物はいい運動にもなっているのよ。二人だけに任せていたら、足腰がなまってしまうわ。ねえ、あなた」


 婆ちゃんに突然振られた爺ちゃんは、一瞬きょとんとしながらも答えた。


「ん、おお、そうだな。年寄りには運動が必要だな」


 尻に敷かれた適当な相槌だ。


「エステバン、私達は家族なのよ? 自分のことばかり考えていたらばらばらになってしまう。そうでしょう? 皆を支え、そして支えてもらい、幸せと苦労を分かち合うのが家族というものじゃない?」


「そうだが、母さん――」


「あなたは研究ばかりだから、ルイサさんの苦労を知らないのよ。私は同じ妻として、それをわかっているの。六人分の家事を毎日よ? マルセロがいるとは言え、それでも自分のために使える時間は少ないの。それを少しでも増やしてあげようと思って、だから私はできるお手伝いをして――」


 そこから婆ちゃんの話は横道にそれて、家事という労働、家族の助け合いという題目で長い語りが始まった。誰もそこに口を挟むことはできず、また料理を食べることに集中もできず、温かかった煮込みは見る見る冷めて味を落としていった。気付けば妹は一足先に食べ終えて、こっそりと自室に戻っていった。爺ちゃんも席を立とうとしたけど、すぐに婆ちゃんに呼び止められ、あえなく留まった。やっぱり婆ちゃんに言い聞かせるのは至難の業だ。父さんがもう少しずばっと言えればいいんだけど、聞き手に回ってしまった今じゃもう無理そうだ。母さんの表情もすでに諦めが浮かんでいる。これは失敗だな……。


「……見て見ぬふりをしちゃいけないのよ。家族というなら、皆の気持ちをすくい取ってあげないと。それがあるべき姿よ。だから私はお手伝いという形で寄り添い、支えているの。これは何も間違いじゃないでしょう?」


「は、い……」


 母さんは疲れた表情を伏せて返事をする。父さんと爺ちゃんも似たような様子だ。


「エステバン、あなたもルイサさんの苦労をわかりなさい。研究ばかりじゃ駄目よ」


「はあ……」


 父さんはぽりぽりと頭をかいた。結局これは父さんへの説教だったらしい。それを僕は何十分聞かされていたのか……。でもこれじゃ婆ちゃんの買い物は改まらず、母さんの苦労も改善されることはない。必要なことだとは思っていたけど、そうするしかないか――


「あのさ……」


 僕が声を上げると、四人の視線がこっちを向いた。


「何、エヴァン。私に言いたいことがあるの?」


 婆ちゃんが鋭い目で僕を見てくる。


「そうじゃないよ。ちょっと、提案があって……僕、働こうと思うんだ」


 これに父さんは小首を傾げた。


「何を言っている。もう働いているじゃないか」


「だからつまり、副業だよ。助手の仕事の他に、別の仕事もしようかと」


 婆ちゃんの問題が解決しようとしなかろうと、これは考えていたことだ。家計が苦しいのは収入が少ないからで、婆ちゃんの問題だけじゃない。それを増やすには給料のいい職につくか、仕事を増やすしかない。好きな歴史学を捨てることができない僕は、選択するまでもなく後者になる。


「だが、それだとお前の研究や勉強がおろそかになるんじゃないか?」


「助手の時間を削るわけじゃないんだ。休日に働くだけだから、そこに影響はないよ」


「休日に働くんじゃ、十分に休めないこともあるんじゃない? それで体が持つの?」


「母さんなら知ってるだろう? 僕はほとんど病気にかかったことがない。体力はないけど、丈夫さはあるから……ということで、いいかな」


 僕は父さんにうかがいを立てた。


「エヴァンに両立する自信があるなら、構わないが」


「父さんも一緒に働いてくれると、こっちは助かるんだけど……」


 期待はせず、一応聞いてみると、父さんはあからさまに表情を歪めた。


「私は研究以外のことは何もしてこなかったし、何もできない。やったところで雇い主に迷惑をかけるだけだと思うが」


 予想通りの返答にうなずくしかなかった。わかっていたよ。父さんにそんな気がないことは。常に研究しか頭にない人だからな……。


「どこで働くつもりなんだ?」


 爺ちゃんに聞かれて、僕は考えた。


「まだ何も決めてないけど、次の休みに町へ行って探してみようかと……」


「だったらマルセロに聞いてみたらどうだ? ここに来る前は毎日職探しをしてたようだし、使いでよく町へ行ってるから、そういう情報を持ってるかもしれんぞ」


 なるほど。確かに。


「そうだね。じゃあ聞いてみるよ」


「エヴァン、あなたにも研究があるのに……ごめんね」


 母さんは申し訳なさそうに言った。


「いいよ。最近あまりはかどってなかったから、別の仕事がいい気分転換になるかもしれない。それに、家族が困ってるのに見て見ぬふりは駄目だって。ね、婆ちゃん」


「その通りよ。エヴァンが私の教えたことを守ってくれて嬉しいわ」


 婆ちゃんは目を細めて喜んでいる。そんな婆ちゃんにも、家計を苦しめている自分の行為に早く気付いてもらいたいものだけど。


 いつもより長くなった夕食を終えた後、僕はマルセロが休む時間を見計らって彼に会いに行った。一日の仕事を終わらせたマルセロは就寝前、決まって裏口の外で煙草を吸っているのだ。それが至福の時間らしく、欠かしたことはないらしい。少ない給料からそこそこ値段の張る煙草を買い続けるくらいだから、よっぽど好きなんだろう。ちなみに僕は煙草を吸っても、大きな咳が出るだけだ。その美味しさというものをまったく理解していない。


 静まり返った暗い居間を抜け、台所から裏口の扉を開ける。ぶるっと震えそうな寒さを肌に感じながら、星のきらめく薄闇の中に出た。狭い裏庭にはごみとなった木材や壊れた備品などがまとめて置かれていて、その横でマルセロは座って煙草を吸っていた。その尻には敷布代わりにごみの木板が敷かれている。


「……マルセロ、ちょっといいかな」


 背後から声をかけると、弾かれるように顔を振り向けたマルセロは丸い目で見上げてきた。


「はっ……びっくりした。どうしたんです? こんな時間に」


「聞きたいことがあってさ」


 僕はマルセロの隣に行ってしゃがんだ。


「……やっぱり外は寒いな。よくこんなところにいられるね」


「部屋の中を煙草臭くするわけにはいかないんで。ここには喫煙者がいないから」


 僕を含めて、家族に煙草を吸う人間はいない。だから余計に気を遣ってくれているのだろう。マルセロは先端が赤く燃える煙草をすーっと吸い、そしてふーっと白い煙を吐き出す。これだけ見ていると少しだけ美味しそうには見えるけど、咳き込まないのが僕には不思議に思える。


「……あっ、すみません。煙たいですね」


 そう言って煙草の火を消そうとするのを僕は慌てて止めた。


「そんなことないから。僕に構わず吸ってて。来たのはこっちなんだし」


「そう、ですか? 嫌だったらすぐに言ってください。消しますんで」


「大丈夫だよ」


 僕の言葉に安心したように、再び煙草を吸ったマルセロは、僕とは反対の方向に煙を吐き出した。


「……で、俺に何のご用で?」


「あのさ、実は僕、副業を探そうと思ってて、それでマルセロならいい仕事を知ってるんじゃないかと思ってさ」


「仕事探しか……確かに、かつかつみたいですもんね」


 我が家の詳しい家計を知らなくても、生活ぶりを見ていれば誰でもわかるのだろう。


「いいですよ。つてもありますし、町へ行ったついでに探してきますよ。どんな仕事がお望みで?」


「そうだな……一番は稼げる仕事だけど……」


「まあ当然ですね。それに越したことはない」


「僕は見ての通り、体が大きいわけでもなく、力も体力もない。肉体労働は向いてないと思うんだ」


「そういう仕事にも稼ぎのいいものがあるんですが、無理して働いて体を壊したら意味ありませんからね」


「うん。だから助手の仕事みたいに、書いて読んで調べて、一つのことに没頭できるような仕事がいいと思ったんだけど、そんな仕事ってあるのかな」


「いわゆる事務仕事ってやつですかね。紙に書いて整理して……っていう感じの」


「事務か。やることは確かに研究所とあまり変わらないかもしれないね……うん。そういう仕事がいいかも」


「わかりました!」


 元気よく言ったマルセロはすっくと立ち上がる。


「エヴァンさんのため、ひいてはご家族のために、俺が稼げるいい仕事を見つけてきましょう」


「何か頼もしいな。ありがとう、マルセロ」


 僕も立って礼を言った。


「皆さんには感謝してるんです。無理に頼んだ俺を、嫌な顔もしないで働かせてくれて……。それを思えばお安いご用ですよ。他にも頼みごとがあれば、遠慮なく言ってください」


「ああ、その時はまた頼むよ。それじゃあ」


 僕は踵を返して裏口へ向かう。


「おやすみなさい」


 煙草の煙をくゆらせる笑顔のマルセロに見送られて、僕は二階の自室へ戻った。話を聞いてみてよかった。何だか詳しそうな口ぶりだったし、僕が探すより早く見つけてくれそうだ。これでもう一つ仕事ができれば、少しは家計の足しになるはずだ。でも、所詮は足しだ。節約生活を続けるのは変わらない。長年こんな状態が続いているから、これが当たり前みたいになっているけど、普通に考えればこれでいいわけはないんだ。我が家の先行きはどうなっているのだろうか……まあ、心配しても無意味か。今の僕にできるのは働くことだけなんだ。まずは二つの仕事を両立させて、母さん達の苦労を軽くすることに力を注ごう。その先が明るいと信じて……。

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