二話

「父さん、行くよ」


 支度を終えた僕は玄関の前で父さんを呼んだ。


「ちょっと待ってくれ……よし、大丈夫だ」


 机の上でかばんの中身を確認し終えた父さんは、外套の前を閉じながらこっちへやってくる。


「じゃあ、行ってくる」


 父さんの声と共に僕は玄関の扉を開けた。


「気を付けてね」


「行ってらっしゃい」


 台所から母さんの明るい声と、床掃除を始めたマルセロの声が僕達を見送る。ちなみに妹は僕達より早く家を出るからもういない。婆ちゃんは朝が弱いのでまだ寝ているはずだ。爺ちゃんは自室ですでに歴史研究を始めていることだろう。あの人は睡眠欲より研究欲のほうが勝っているのだ。あの歳で徹夜なんてよくできると感心してしまう。


 外に出ると、肌の温もりを瞬時に奪っていくような冷たい空気に、思わず両手を握り締めてしまう。今日は風がないからまだいいほうかもしれない。日に日に寒さが増していくこの時期、マフラーや手袋が欲しいところだけど、まずはそれを買えるだけの余裕を手に入れなければならない。そう考えると、その二つを手に入れるのはもう少し先になりそうだ。それまで風邪なんかひかないといいけど。


 住宅地の通りには僕達のように仕事へ向かう人達や、行商人、荷馬車なんかがせわしく行き交う。小さな空き地では幼い子供達がきゃっきゃと声を上げて遊んでいる姿もある。僕もあのくらいの頃は、あんなふうに遊んでいたのだろうか。こんな寒い中でも平気で遊べるのは子供の特別な能力のように思える。今だけでも寒さを感じない体に戻りたいものだ。


 立ち並ぶ街路樹は一様に殺風景で、枝の葉はほとんど落ち、残っていてもくすんだ色のものばかりだ。紅葉はとっくに終わり、落ち葉も地面の土に埋もれている。こういう景色を見ると、改めて冬が始まったんだと実感する。この地域はあまり雪は降らないけど、雪を溶かしてくれそうな今日みたいな晴天は、十分防寒ができない僕には貴重な――冬枯れの景色を眺めていた僕は、ぎょっとして思わず足を止めてしまった。


 通りの向かいに並ぶ街路樹のその陰に、一晩寝て半ば忘れかけていた、あの見慣れない格好の男性が立っていたのだ。フードでやっぱり目元はよく見えないけど、顔は確実に僕のほうを向いている。あいつ、諦めて帰ったんじゃなかったのか。単にふざけているだけだと思ったけど、このしつこさを見ると、本格的にいかれたやつなのかもしれない。何か、怖くなってきたな……。


「エヴァン、何を見ている」


 先を歩いていた父さんが僕の様子に気付いて振り向いた。


「なっ、何でもないよ……」


 僕は視線を戻し、笑ってごまかして再び歩き始めた。父さんの横に並びながら、通りを挟んだ街路樹をちらと見てみる。男性はじっと僕を見ているようだった。でも呼び止めたり、近付いてくる様子は見せない。黙って見送るだけ――安心した反面、不気味さに不安を覚えて、僕の足は自然と速まっていた。


 家から四十分ほど歩いて勤務先の歴史研究所に着くと、父さんと僕は狭い研究室に入って仕事を始める。新たな論文が届いていれば、それに目を通したり、書きかけの文章があれば、その続きを書いたり……それが父さんの普段していることだ。助手の僕がすることは、研究をまとめるために文献を集めたり、他の学者に父さんの疑問を聞きに行ったり、専門書で埋め尽くされそうな机を片付けたりと、小間使い的な仕事が多いけど、時には意見を聞かれたり、僕の見解を参考にしてくれたりもするから、勉強にもなっている。


 でも、今日はなかなか勉強に身が入らない。普段通りの父さんの側で、僕は机に向かって歴史書に目を通しているけど……内容がぜんぜん頭に入ってこない。それを邪魔しているのは、さっき見たあの男性の姿だ。動かず、じっと僕を見ていたあいつ――やっぱり不安だ。あいつの目的は何なのだろうか。いやまあ、僕に世界を救ってもらうことなんだろうけど、そんな非現実的なことができるわけないんだ。きっと他に目的があるはずだ。


 僕は腕を組んで歴史書を睨みながら考えてみた。あんなふざけたことを夜にやってきて言うなんて、頭がいかれたやつしかやらないと思うけど……それとも、僕はあいつとどこかで会っているのか? その時に機嫌でも損ねて、嫌がらせで……でもあんな目立つ格好、一回見れば憶えているはずだ。それに嫌がらせだとしても、世界を救ってくれなんて、あまりに理解できない嫌がらせ方法だ。っていうか、嫌がらせになっているのか? 昨夜みたいに追い返されれば終わってしまうことなのに。


 ……待てよ。あいつが本当にいかれているとして、世界を救ってくれと真剣に頼んでいたとしたら、聞く耳を持たなかった昨夜の僕に対して、あいつが怒っていてもおかしくはない。何せ世界が滅ぶと思い込んでいるやつなんだ。理不尽な頼みごとをしているという感覚がないから、無視した僕に当然怒りを覚えるだろう。そんなあいつが今朝、街路樹の陰にたたずんでいた理由は――それを考えて僕はぞっとした。あれは待ち伏せや監視じゃない。それなら僕に近付いて、話しかけるなり危害を加えるなりするはずだ。もしかするとあれは、確認だったんじゃないだろうか。僕がちゃんと研究所に向かっているのを見届けてから、我が家に向かったんじゃ……。あいつはいかれている上に怒っている。その怒りを僕に直接ぶつけずに、大切な家族に向けようと――


 リーンゴーン、と正午を告げる鐘の音が外から鳴り響いてきて、僕は思考の世界から脱した。


「うーん、昼食にするか……エヴァン、ポッセの論文が見たいんだが、後で用意しておいてくれ。……エヴァン?」


「……え? ああ、わかった。昼休憩を終えたら出しておくよ」


 歴史書を閉じて、僕は手早く本棚に戻した。


「今日は何だかぼーっとしている気がするが、具合でも悪いのか?」


 心配の目を向ける父さんに僕は笑顔を見せた。


「そんなんじゃないって。寝不足なのかも……じゃあ、昼食食べてくるよ」


 僕は父さんの視線を避けるように、そそくさと研究室を後にした。


 普段は温厚な父さんだけど、研究に関することになると厳しい態度を見せることもある。以前僕が仕事中に居眠りをしてしまった時なんか、寝るなら家へ帰れと真顔で言われ、その決して怒ったような表情じゃない様子が逆に怖くて、普通に怒鳴られるよりも僕には効果があった。もうあの表情で叱られるのは勘弁願いたい。


 研究所を出て、僕は迷わずパン屋へ向かう。この辺りには商店や料理店が多くあるけど、僕は決まって一番小さなパン屋で昼食を買う。理由は単純に節約だ。このパン屋には激安なサンドウィッチが売っているのだ。焼き加減を失敗したパンに、薄いハムとレタスの切れ端をまとめて挟んだ、その名も細切れサンドウィッチを僕は毎回昼食にしている。ちなみにハムとレタスの割合は一対九だ。基本的にバターとしなびたレタスの味しかしないけど、たまに感じる肉の旨みを励みに、僕はこれを食べ続けている。


 買ったサンドウィッチを片手に、次はほど近い公園に向かい、そこにあるベンチに腰を下ろす。周囲にまばらにいる、同じく昼休憩と思われる人々を眺めつつ、僕は早速サンドウィッチの包みを開き、かぶり付いた。相変わらずの味としなしな食感だ。飲み物が欲しいところだけど、そんなものを買う金はない。喉が渇いたなら、研究所でタダで飲める水を飲むしかないのだ。それまでは飲み込みづらくとも我慢だ。 寒ささえなければ気持ちのいい青空だ。小さな雲がゆっくり流れていくのを見上げながら、僕は再びあの男性のことを考えた。不気味な印象からか、さっきは考えが行きすぎたかもしれないな。もう少し冷静に考えるべきだろう。でも、さっきの考えが頭に残っているせいか、僕の中の不安は消えてくれなかった。もしかしたら……なんてことがよぎってしまう。やっぱり、家に戻って見てくるべきだろうか。いや、考えすぎだ。大丈夫。何事も起こっていないさ。すべて平穏無事に――


「まずそうなパンだな」


 背後からの不意の声に振り向くと、ベンチを挟んだすぐ後ろからフードをかぶった小麦色の顔がじっと見下ろしていた――


「うわっ!」


 僕はのけぞり、慌ててベンチの端へ後ずさりした。危うくサンドウィッチを落とすところだった。こ、こいつ、こんなところまで……尾行してたのか!


「何もしない。怖がるな」


 男性は落ち着いた声で僕をなだめようとする。この角度から初めて見えた目は、黒くきりっと引き締まり、どこか力がこもったような視線を向けてくる。


「な、何もしないって、僕のことつけてきたんだろう。何する気だ」


「だから何もしない。ただ話を聞いてほしいだけだ」


「話って、昨日の夜の話か? あんな話、聞けるわけ――」


 男性はベンチの背もたれに両手を置くと、鬼気迫る形相で身を乗り出してきた。


「とにかく聞いてくれ。聞いてもらわないと世界が滅んでしまう!」


 やっぱり、いかれてる――僕は一瞬走って逃げようかと思ったけど、それで怒りを買って暴力でも振るわれたらたまらない。ここは身を守るためにも、こいつの気が済むように話を聞いてやったほうがいいかもしれないな……。


「……わ、わかった。聞くから、その、落ち着いて」


「私は最初から落ち着いている」


 そう言うと男性は僕の隣に腰かけた。


「だがこれは急いでいる話なんだ。君にはしっかり聞いてもらいたい」


 表情が戻った男性は、やっぱり真剣な口調で言った。世界が滅ぶなんてあり得ない話を、本当に信じているらしい。


「話はちゃんと聞く。聞くけど、僕にはこの世界が滅ぶなんて、到底考えられないんだけど。周りを見たって、そんな気配はどこにもないし、至って平和だ。あなたはどうして滅ぶと思ってるんだ?」


「それを説明するには、まず私について話しておきたい」


 何だか長くなりそうだ……。


「あなたは確か、ラモン・パデ……えっと……」


「ラモン・パディリャ。ラモンでいい」


 ああ、そんな名前だったな。


「この服装であなた方と少し違うことはわかると思うが……私は西の山岳地帯に住む、イレドラ族だ」


「イレドラ族……」


 聞き覚えのある名に、僕は頭に詰まった知識から同じものを探った。……イレドラ……イレドラ? いや待て。イレドラ族って言ったら、あのイレドラ族しか思い当たらないけど――


「あの、イレドラ族って、もしかして先住民族の……?」


「そうだ」


 堂々と返事をしたラモンを見て、僕は疑いの目を向けずにはいられなかった。イレドラ族――彼らはこの大陸の先住民族であり、王国史の初期にも少しだけ登場する。でも僕らの祖先は従わない彼らを追い出した上に、皆殺しにしたとされている。何百年も前のことだから、それがすべて本当のことかは定かじゃないけど、少ない資料から現在はそういうことになっている。それ以降、イレドラ族は歴史に登場することはなく、迫害され、滅ぼされた民族というのが通説になっている。つまり彼らはもう存在していないのだ。皆殺しにされて、一人も生き残っていないのだ。現在まで目撃情報なども聞いたことはないし、歴史の中に消えた民族のはずなんだけど……それが、生き残っていたっていうのか? にわかには信じがたい……。


「僕達は、イレドラ族はもういないものだと思ってたんだけど……」


「間違いだ。私達はこうして生きている」


「疑うわけじゃないけど、何か、それを証明できるものとか、持ってたりはしない?」


 僕の言葉に、ラモンは自分の服をまさぐりながら見下ろす。


「……ない」


 まあ、そりゃそうだ。存在しない民族だからな。


「イレドラ族かどうかの証明よりも、今は話を進めたい。いいか?」


「どうぞ」


 僕はサンドウィッチをかじりつつ、ラモンの話に耳を傾ける。でも集中して聞く必要はなさそうだ。イレドラ族の話でますます胡散臭さが強まった。


「私達イレドラ族には、生まれた時から不思議な力が備わっている」


「あ、それ聞いたことがあるな……」


 正しくは読んだことがあるだけど、昔何かの本で、イレドラ族は怪しげな術を使ったとか書いてあった気がする。とにかく大昔の話だから、当時の人が脚色したとか、大げさに表現しただけという見解がほとんどだ。その術の中身もわからないままだし、僕も単なるおとぎ話だと思っている。


「その力とは、誰もが一生に一度、言葉にした願いを叶えることができるんだ」


「ふーん」


 相槌を打ってサンドウィッチを食べる僕を、ラモンはじっと見つめてくる。


「聞いたことがあるだけあって、あまり驚かないな」


「僕以外に話したことがあるの?」


「いやないが、初めて自分の子供に教えた時は、かなり興奮して夜も眠れない様子だったから」


「僕はイレドラ族じゃないからね。話、続けて」


「……願いを叶えるためには、まず族長の許しを貰い、そして私達の住む里にある聖域に行かなければならない」


「一つ疑問があるんだけど、願いが叶えられるなら、イレドラ族は滅びなかったんじゃないか?」


「だから、私達は滅びてなどいない」


 あ、そういう設定だったんだっけ。


「悪い。そうだった」


 少し表情を歪めたラモンだけど、すぐに戻して話を続ける。


「そして先日、あることが起きてしまった。夜、友人と飲んでいた私は、火照った体を冷やそうと聖域へ向かった」


「聖域って言うんだから、神聖な場所なんだろう? 酒を飲んだ身で行ってもいいのか」


「どういう状態で行こうと、特に決まりはない。普段は憩いの場としても使われている広場みたいな場所なんだ。……その日友人は結婚も考えていた恋人に振られてしまい、やけ酒をあおっていた。もう飲むなと言っても飲み続けた友人はひどく酔っ払って、言動も乱暴になっていた。聖域に向かったのは周囲に迷惑をかけないためでもあったんだが、今思えばそれが間違いだった。すぐに家へ送って寝かせていればこんなことには――」


「後悔してるのはわかったから。それで聖域で何があったんだ?」


「自分を振った恋人への恨みを叫んでいた友人は、こんな人生もうどうでもいいと自暴自棄になっていた。そして、もう新しい年など迎えたくないと、この世界は今年限りで消えてなくなってしまえと叫んでしまった」


 僕は唖然としてラモンを見た。


「……え? まさか、それで世界が滅びるっていうのか? 酔っ払いの叫びで?」


「願いを伝えると聖域の地面は光を放つ。それが願いが叶うという合図になっている。私はその光をこの目でしかと見た」


「でも、願いを叶えるには族長の許しが必要なんじゃ……」


「それは単なるならわしで、願いを叶えることに何も影響はない。だから人には言いにくい願いを持つ者は、黙って聖域に向かい、こっそりと叶える者もいる」


「何か、ゆるゆるな決まりだな」


「私は焦った。翌日、酔いの醒めた友人に何を言ったか憶えているかと聞いたが、何も憶えていなかった。恋人に振られた衝撃の上に、世界を終わらせる願いをしたなんて教えたら、普段は気の小さい友人のことだから、自ら命を絶ってしまうんじゃないかと思い、あの夜のことをなかなか言い出すことができなかった」


 僕は片手を上げて発言の意思を見せた。


「……何だ」


「そんなの、簡単に解決できると思うけど」


「どうやって?」


「あなたが願いを言えばいい。世界は滅びないってさ」


 しかしラモンの表情は変わらない。


「……駄目なのか? あなたも願いは叶えられるんだろう?」


「もちろんそうだが、叶うのは一人一度……私はすでに願いを叶えてしまっているんだ」


「へえ、どんな願いを叶えたんだ」


「私の家が建っている場所は湿気がひどくてね。いくら掃除をしても壁や天井にカビが生えて、食材もすぐにカビてしまうからどうにかしてと妻に頼まれて……」


「たった一度の貴重な願いが、家のカビ防止? 何か、安易すぎないか?」


「私も最初はそんな願いを叶えるつもりはなかったが、妻には逆らえず、仕方なく……」


 そう言ってラモンは弱々しくうつむいた。日焼けした姿は一見たくましく、強そうに見えるけど、家庭では父親の威厳をあまり保てていないようだ。人は見かけじゃわからないものだ。


「そ、それはいいとして……私だけで秘密裏に解決することは不可能だった。まだ願いを叶えていない誰かに頼むしかなかったが、そのためには事情を話す必要があり、すなわち友人の失態を明かさなければならないわけで、私は何日もためらい、迷い続けた」


「本当に世界が滅びるなら、ためらってる場合じゃないだろう」


「君の言う通りだ。私は迫る危機よりも、その後に責められることばかりを恐れ、行動を遅らせてしまった。だがようやく心を決め、族長に相談しようと思った翌日、里は地震に見舞われ、そのせいで起きた山崩れで、すべての家と仲間が押し潰されてしまった」


 一週間前の地震か。かなり広範囲なものだったらしい。


「私も家の下敷きになったが、奇跡的に生き残ることができた。だが、私以外に助かった者は見当たらなかった……」


 ラモンは悔しそうに唇を噛み締めていた。


「じゃあ、今いるイレドラ族は、あなただけっていうことになるね」


「純粋な者は、そうかもしれない」


 純粋?


「どこか他にも、イレドラ族はいるのか?」


「こんな話を聞いたことがある。私が生まれる前、里を無断で出ていった男がいたそうだ。彼にはロサリア・ミトレという愛する女性がいたんだ」


 ミトレ……僕と同じ姓だな。


「……気付いたか?」


「え? 何が?」


「ロサリア・ミトレはイレドラ族じゃなく、王国の人間だ。そして、ミトレは君と同じ姓でもある」


「うん、だから?」


「わからないか? 里を出た男とロサリア・ミトレは愛し合っていた。その間に子がいてもおかしくはない」


 ラモンはじっと僕を見つめてくる――言いたいことが何となくわかってきたぞ……。


「二人の子供が僕、とか言うつもりじゃないだろうな」


「そうだ」


 ラモンはきっぱりと言った。おいおい、勘弁してくれ。


「どうしてそう思うんだ」


「まず、姓が同じだ」


「ミトレなんて探せばいくらでもいるよ」


「それと、君からはイレドラ族と同じ空気を少し感じる」


 それってつまり、勘ってやつだろう。


「……あのなあ、僕には両親も祖父母もいるんだ。幼い頃に遊んでもらった記憶もちゃんとある」


「容姿はどうだ。家族と違うと思ったことはないか」


 聞かれて僕は一つだけ思い当たった。


「髪の色は僕だけ違うけど……でも親子で違うなんてよくあることだ」


 家族は皆、茶の髪だけど、なぜか僕だけは黒い。子供の頃、一時期それを気にしたことはあるけど、母さんには綺麗な色よと言われ、爺ちゃんには何を言われても気にするなと言われ、僕はいつの間にか気にすることはなくなっていた。同じ姓と違う髪の色で、僕がその子供だと判断するなんて、馬鹿げている。


「僕にイレドラ族の血が流れてるって言いたいなら、もっとしっかりした根拠を示してくれないと。あなたの言うことは思い込みが強すぎる」


「根拠は難しい……だが願いを叶えられるイレドラ族は、もう君しか残っていないんだ」


「だから、その前に根拠を示してくれ」


「世界を救える望みは、君だけだ。私は君に頼るしかないんだ」


 真剣な眼差しで言ってくるラモンを、僕は呆れながら見返した。詰めの甘い作り話だ。所詮いかれた頭で考えた設定か。僕を信じ込ませるだけの話術も対応力もない。本当、この人は一体何が目的で僕に近付いてきたのだろう。


「まあ……話は聞いたから、いいよね。これ以上頼まれても僕にはどうしようもないし」


 サンドウィッチの最後の一口を食べて、その包み紙を丸めて外套のポケットに押し込んだ。


「じゃあ、もう僕をつけたりしないでね。昼休憩が終わる前に戻らないと」


 ベンチから立ち上がった僕に、ラモンはすかさず言ってきた。


「なぜ信じてくれない。このままじゃ君も私も、あとわずかしか生きられないんだぞ。命あるものはすべて死に絶えてしまうんだ。それが恐ろしくないのか」


 それを信じ込んでいるあなたのほうが恐ろしいけど……。


「酔った勢いで世界が滅びるなんて、どう考えても無理があるよ。あなたが何を考えてるか知らないけど、人を騙すつもりがあるなら、もう少しまともな話を作ったほうがいいと思うよ」


 もどかしそうな表情を浮かべるラモンに背を向け、歩き出そうとした時だった。


「よお、エヴァン、昼飯帰りか?」


 すぐ横の通りを歩いていた同じ助手の同僚が声をかけてきた。


「ああ。公園でちょっと休憩――」


 そう言いながらベンチに振り返ると、直前までいたはずのラモンの姿はもうなかった。辺りを見ても去っていく姿はない。随分と足が速いんだな、あいつ。


「研究所に戻るんだろう? 一緒に行くか?」


「あ、うん。そうだな」


 僕は公園を出て、他愛ない会話をしながら同僚と一緒に研究所へ戻った。あいつと話し込んでしまったせいか、かなり喉が渇いた。水を一杯飲んで、また仕事に励むとしよう。あいつもこれで話しても無駄だとわかってくれるといいけど。

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