六話
「ここで、いいのかな」
メモに描かれた簡単な地図を確認しながら、僕は町の裏通りにある宝石店に到着した。
数日前、やっといい仕事を見つけたとマルセロから紹介されて、休日の今日、彼の描いた地図を頼りにここへやってきたのだけど……。
裏通りだからか、明るい時間でも辺りに人影はまばらで、あまり商店が立ち並ぶような場所でもない。そんなところにぽつんと宝石店があるのは何だか違和感を覚えてしまう。その宝石店も、立派な看板を出しているわけでもなく、至って地味な外観で、一見すると大きな物置小屋のようにも見える。これじゃあ宝石を売っているなんて誰もわからなさそうだけど……あ、もしかしたらわざとなのだろうか。高価なものを扱っているから、泥棒に狙われないようにあえてわかりにくい外観にしているのかも。それなら納得できる。
地図の通りなら間違いなくここが紹介された宝石店のはずで、僕は髪と服を軽く整えてから正面の小さな扉を開けた。
「こんにちは……」
ゆっくり押し開けた先を見て、僕は安堵した。物置小屋のような外観とは違って、中は想像する宝石店そのものだった。床には模様入りのタイルが敷かれ、店内の左右には色とりどりの宝石が加工された状態でガラスの箱の中に陳列されている。壁や天井にある照明がそれをまんべんなく照らし出していて、店内は贅沢な輝きに満ち溢れていた。我が家には縁遠い店だな……。
「いらっしゃいませ。どういったものをお求めでしょうか」
上品な笑みを浮かべた従業員の男性が、僕にすっと近付いてきて言った。
「いや、客じゃないんです。ここで仕事をするために……」
これに従業員は一瞬真顔になったが、何かを思い出すと再び笑みを見せた。
「ああ、従業員募集の件ですね。少々お待ちください」
そう言うと店の奥へ消えた従業員は、ほどなくして一人の男性を連れて戻ってきた。
「彼が担当しますので、あとは彼の指示に従ってください」
「じゃあ付いてきて」
新たな従業員は素っ気なくそう言って店の奥の通路へ向かう。僕は言われるままに後を追った。
店内から一歩裏へ入ると、そこは薄暗くて、装飾などもなく、少し汚い印象だった。まあ、商店の裏側なんてこんなものか。通路の奥には地下と二階へ続く階段があったが、従業員は地下への階段を下っていく。仕事場は下にあるらしい。
長い階段を下りると、その正面に扉があった。従業員は慣れたように扉を叩くと、内側からカチャっと鍵の開く音が鳴り、そして扉が開いた。
「ほら、入って」
従業員に促されて、僕は恐る恐る部屋に入った。そこは大きな部屋だったけど、木箱やぱんぱんに膨らんだ布袋なんかが無数に置かれていて、人が歩ける場所はわずかな範囲だった。そんな部屋の中央には机が並んでいて、そこでは数人の従業員と思われる男女が黙々と何かを書き続けている姿がある。もしかして、あれが仕事だろうか。
「それじゃあ、やってもらうことを説明するから。仕事内容は――」
いきなり説明を始めようとする従業員に、僕は思わず聞いた。
「あ、あの、僕のことは聞いたりしないんですか? 普通、雇うかどうかはそこで判断するんじゃ……」
「え? ああ、そんなの面倒だからいいんだよ。使えないやつならその時に切ればいいんだし」
あけすけな言い方すぎやしないか?
「それにこっちは人手が欲しいんだ。選り好みする暇なんてない。お前も金が欲しいんだろう? だったらお互い悪いことはない。だろう?」
「はあ……」
即雇ってくれるのはありがたいけど、何だろう。雑なやり方に不安を感じてしまう。
「今日やってもらう仕事は簡単だ。こっちが渡した書類の内容を、帳面に書き写すだけのことだ。文字は綺麗に書けるか?」
「はい、一応……」
「なら問題ない。そこの空いてる机に座れ。ペンとインクはあるから、今書類と帳面を持ってくる。待ってろ」
従業員が一旦部屋を出ていった間に、僕は言われた机の席に着いた。すぐ隣では三十代くらいの女性が手元の帳面に一心にペンを走らせていた。どうやら僕がやる仕事と同じようだ。机の端には書類の束が置かれていて、書き写したものをめくってはその横に重ねている。
「こんにちは。初めまして」
同じ職場で仕事をするんだから挨拶くらいはしないと……と思ったんだけど、女性は何も反応してくれなかった。集中していて気付いていないのか?
「こんにちは。あの、お名前は何ていうんですか?」
たずねるが、女性はやっぱり無反応だった。僕は無視されているのか? いや、礼義がなっていなかったか。相手の名前を聞くなら、まずはこっちから名乗らないと。
「僕はエヴァ――」
「ちょっと!」
女性は急に声を上げると、きっと睨み付けてきた。
「見てわからない? 私は仕事をしてるの。邪魔しないで」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
ふんっと息を吐いた女性は、迷惑そうな目を手元に戻してまたペンを走らせ始めた。そんなに集中していたとは……。しばらく静かにしていたほうがよさそうだ。
「おい、そこの新入り。ここでは無駄口は禁止だ。金が欲しいならその口は閉じてろ」
部屋の隅で腕組みをして皆を見守っていた上司と思われる男性が、険しい表情で僕に言った。金が欲しいならって……確かにそのためだけど、こうはっきり言われると気分が悪いな。もう少し言い方ってものがあると思うけど……。
「新入り、これが帳面だ。ここに書類の内容を順番に書き写してくれればいい。じゃあ始めてくれ」
戻ってきた従業員は厚い帳面を開いて書き方を簡単に説明すると、書類を机に置いて部屋を出ていった。まあこの程度の仕事ならわからないこともないだろう。あとは一人でできそうだ――僕はインクにペンを付けて、さっそく仕事に取り掛かった。
書類に書かれていた内容は、当たり前だけどすべて宝石に係わるものだった。サファイア、トパーズ、ガーネット、ヒスイ、スピネル、ルビー、ダイアモンド……僕が知っているものもあれば知らないものまで、何種類もの宝石の名前を書き写す。それに続いて羅列した数字も書く。一体何の数字なのか、説明も単位も書かれていないからわからないけど……多分、宝石の値段か、量の数字だろう。やっぱり宝石は桁が違うな。この店もかなり儲かっているのだろうな――そんなことを思いながら、僕は書き写す仕事を午後までやり続けた。
「……ふう、終わった」
すべての書類を書き写し終えて、僕は天井を仰いだ。腕から肩にかけて針金でも巻かれたかのような疲労を感じる。ふと壁にかかった時計を見ると、針は三時を示していた。十時頃にここへ来たはずだから、五時間休まずに書いていたことになる。研究所でもこんなに長いこと文字を書き続けたことはない。僕にもここまでの集中力があったんだな。
「終わったか。見せてみろ」
見守っていた上司の男性が机に来て、帳簿をぱらぱらとめくって確認する。僕の字は綺麗とまではいかないけど、しっかり読める字だとは思う。
「……丁寧に書かれてるな。いいだろう。今日の仕事は終わりだ」
「ありがとうございます。じゃあ僕はこれで――」
失礼しますと言おうとして、僕は男性の手の動きに言葉を止めた。腰に提げられた革袋を取ると、そこに手を突っ込み、何かをつかむ。そうして無造作に取り出されたのは、五枚のまばゆい金貨だった。
「報酬だ。受け取れ」
男性はほら、と僕に金貨を渡そうとする。
「え、あ、報酬って、今、貰えるんですか?」
「聞いてないのか? この仕事は日払いだ」
誰も細かいことは教えてくれないから……そうだったのか。
「僕は、五時間くらいしか働いてないんですけど……」
「わかってるよ。だからこれが報酬だ」
男性の手の上で金貨五枚がきらりと光る――五時間で金貨五枚って、明らかに貰いすぎだと思うんだけど。
「多く、ありませんか?」
「ここで初めて働くやつは皆お前みたいに驚くよ。でもこれがここでの報酬だ。深夜まで働けばもっと稼げるが……お前は新入りだからな。最初はこのくらいでいいだろう」
もっと稼げるって、そそる言葉だけど、深夜まで働いたらさすがに本業のほうに響きそうだ。それに金貨五枚でも我が家には十分な額だし、そこまで無理することもないかな。
「僕は休日にしか働けないんですけど、それでもまた雇ってもらえますか?」
「もちろんだ。稼ぎたきゃ都合のいい日に来ればいい。ここにはいつでも仕事がある。ただ――」
男性の眼差しが鋭く僕を見据えた。
「こういう仕事があると、無闇に言いふらすな。勝手に紹介するのも駄目だ」
「どうしてですか?」
「見ての通り、うちは高額報酬だ。人手不足とは言え、それにつられて大勢が働きに来られても迷惑だ。高額報酬も維持できなくなる。お前もそれは嫌だろう?」
僕はうなずいた。確かに、一番の魅力が削られるのは困る。
「それさえ守れるなら、また稼ぎに来い。こっちはいつでも歓迎だ」
そう言って男性は僕の手に金貨を握らせた。五枚分の重みを感じながら、僕はそれをありがたく受け取った。
「じゃあ、お疲れさん」
扉を開けてくれた男性に見送られて、僕は部屋を出た。振り返って挨拶をしようとしたけど、扉はすぐに閉まってしまい、直後、鍵のかかる音が聞こえた。随分と素っ気ないな……。でも仕事内容は僕にも簡単にできることだったし、報酬も予想以上の額だ。副業にするには申し分のない仕事だ。マルセロに頼んで本当によかった。感謝の代わりに何か買って帰ろうかな。母さんもこの金貨を見たら驚いて舞い上がるかもしれない――皆が笑顔になる光景を予想しながら、僕は階段を上がって宝石店の入り口へ向かった。
「お疲れさまでした」
上品な笑みの従業員の会釈に、僕も軽く会釈してから扉に手をかけようとした。でもその瞬間、外から人が入ってきて、僕は慌てて開いた扉を避けた。
「あっ……ごめんなさい」
入ってきた若い男性はすぐに僕に気付いて謝った。
「大丈夫だから、気にしな――」
そう言いながら男性の顔を見て、僕ははっとした。この顔、見たことがある。細身で清潔感のある短い茶の髪、そして何より、目立たない地味な顔立ち……間違いない。妹が玉の輿を狙っている恋人ソラーノ君だ。
「どこかぶつけたりしませんでしたか?」
何ともない僕を心配してくれる様子に、僕は笑顔を見せた。
「何も当たってないよ。ありがとう」
「そうですか、本当、ごめんなさい」
申し訳なさそうに微笑むと、ソラーノ君は店内へ入っていった。他人の僕をこんなに気遣ってくれるなんて、なかなか心ある青年だな。それで金持ちなんだから、妹はいい相手を見つけられたのかもしれない。にしても、学生のはずのソラーノ君が、どうしてこの宝石店に来たのだろうか。誰かの使いで買いに来るものでもないし、まさか自分で買いに来たわけじゃ――
「おかえりなさいませ。ソラーノ様」
店を出ようとしたところで、背後から従業員のそんな声が聞こえて、僕は思わず振り返ってしまった。
「父さんか母さんはいるかな。ちょっと話したいことがあるんだけど」
「お二人とも、今日はお戻りが遅くなるそうです」
「そっか。じゃあまたにするか……」
残念そうなソラーノ君は、そのまま店の奥へと消えていく。それを確認して僕は宝石店を出た――この店は彼の両親が営む店だったのか。今日貰った報酬からして、相当な金持ちなんだろうな。妹の恋人の店で働くっていうのは気持ちとして少し複雑な感じもあるけど、それを知っているのは僕だけだ。こんないい仕事を諦めることはできない。次の休日も頑張ろう。苦しい家計も少しはよくなるはずだ。
それから僕は休日のたびに、宝石店での事務仕事で金を稼いだ。帳簿に書き写す作業の他に、書かれた数字をただ足していく計算作業や、書類を書かれた内容ごとに仕分けする作業など、与えられる仕事は日によって違った。貰える報酬は仕事内容で変わり、書き仕事は一番安いようだった。それでも金貨五枚は貰えるから僕としては満足だったけど、もっと稼げる仕事をしないかと言われて、僕はもっと貰えるならと深く考えず誘いに乗った。
そうして与えられた仕事は、袋一杯に入った指先ほどの小さな原石を小分けにする作業だった。宝石の扱いは専門の人間にしかできないと思っていたけど、ここでは素人でも扱わせてくれるらしい。他にも、宝石の簡単な加工、よくわからない薬品での研磨、鑑定書の清書……と、言われるままにこなしていたけど、僕は自分のしていることに少しずつ不審を抱き始めていた。こういうことは本来専門の人がやる仕事で、それを素人にやらせているこの店のやり方は正しいものなのだろうか。それに鑑定書の清書って、そんなことする必要があるのか? 鑑定人が一度書けば、それで済むことじゃないのだろうか。僕には宝石に関する知識がないから、はっきりおかしいとは言えなかった。疑問を聞いてみても、従業員達はこれでいい、問題ないとしか答えてくれなかった。お前は器用で手際もいいと褒められ、高い報酬も必ず貰える。僕は正直、まだそれを失いたくない。不審はあっても家計のために、今は余計なことは考えずに働くんだ。疑ってしまうのは僕の知識不足のせいだ。きっと何事もない。全部正しいやり方なんだ――そう自分に言い聞かせて、僕はこの日も金貨でポケットを膨らませて帰路についた。
日が暮れて、辺りはもう暗かった。最近は夕方まで仕事をするようになり、家に着く頃にはこうして真っ暗になっている。疲れはするけど、貰えた金を見ればそれも吹き飛ぶ。
「考えてくれたか」
家の玄関に近付いた時、不意に声をかけられて僕は足を止めた。振り向くと、家の前の通りの真ん中にラモンが立っていた。僕と目が合うと、静かに歩み寄ってくる。
「何の話だ」
「西の山岳地帯へ行くことだ。行けば私の話したことが本当だとわかる」
疲れて帰ってきて、またそんな話に付き合う気にはなれない――僕はラモンを無視して玄関に向かう。
「おい、聞いているのか」
僕は扉に手をかけてラモンを見た。
「聞いてるよ。いい加減、付きまとわないでくれ」
「もう時間がない。このまま世界が滅びても君は――」
僕は家に入り、扉を閉めて鍵をかけた。そこでラモンの声は止まった。諦めたようだ。妄想話に付き合う暇があるなら、早くこの体を休めて明日に備えたい。
「おかえりなさい。……どうかしたの?」
玄関に顔を出した母さんが笑顔で聞いてきた。
「何でもない。ただいま」
僕は夕食の香りが漂う居間へ行き、そこで母さんに稼いだ金貨を手渡した。僕を労いながら家計が助かるわと嬉しそうに言われると、喜びもひとしおだ。家族の笑顔が増えるなら、もっと頑張れそうだ――久しぶりの魚料理を食べながら、僕はそう思えた。
次の休日も、当たり前のように僕は宝石店で働いた。今や本業の助手の給料よりこっちのほうが稼ぎを上回っていた。これじゃあどっちが本業かわからないけど、これはあくまで副業だ。今より時間や日数を増やすつもりはない。じゃないと自分が歴史学者を目指していることを忘れてしまいそうだ。それほどここの仕事は魅力的なのだ。油断するとぶれそうな自分の意識を強く持って、今日も言われた仕事に励もうとしていた午前のことだった。
ドンドンドンっと部屋の扉が激しく叩かれる音に、僕や他の従業員達は何事かと視線を向けた。
「うるせえぞ。もっと静かにやれ」
いつも僕達の働きぶりを見守っている上司の男性が苛立った顔で扉の鍵を外して開けた。
「やばい、緊急事態だ!」
そこにはかなり焦った様子の従業員がいた。ただ事じゃなさそうな感じだ。これに上司の男性もすぐに真剣な表情に変わった。
「どうした、何があった」
「査察だ。管轄機関の抜き打ち査察が来てる!」
「何っ……もういるのか」
「今、上にいるやつらが店内でどうにか足留めしてくれてるが、ここに来るのも時間の問題だ」
抜き打ちとは言え、査察でそんなに慌てふためくなんて、やっぱりここの仕事って――無理矢理なだめていた僕の中の不審が、急にうごめき始めた。
「そんなの聞いてないぞ。情報屋は何やってたんだ」
「文句言ってる場合じゃない。早く片付けてずらかるぞ」
二人は部屋に入り、扉を閉めて鍵をかけると、呆然とする僕達に言った。
「査察が来る前に手元のものを全部持って、そっちの下水道へ下りろ」
下水道? ――僕を始め、働いていた皆がきょろきょろと視線を動かす。すると、焦っている従業員が荷物の置かれた一画に向かうと、そこに並ぶ木箱の一つを動かし始めた。物が詰まっていて重いのか、少しずつしか動かない。
「ぼやぼやするな。手伝え。捕まりたいのか!」
怒鳴り声に近くにいた数人が木箱の移動を手伝う。捕まりたいのかって、僕達はそんな悪いことをしていたのか……?
木箱が動かされると、その下には錆びた鉄格子があり、従業員はそれを取り外すと、僕達に手招きして急かした。
「急げ。書いてたもの持ってここに入れ! 早く!」
言われた皆は戸惑いながらも、書類などを抱えて暗い穴の中へ下りていく。僕も同じように、まだ何も書いていない鑑定書の束を持って穴に体を入れた。下水道というだけあって、かなりの悪臭が漂ってくる。
「ここを開けろ。査察だ。早く開けるんだ」
ドンドンと扉を叩く音と共に、強い口調が呼びかけてくる。もうそこまで来ている……!
「くそっ……ほら、早く行け!」
小声で怒鳴った従業員は下りようとしていた僕の背中を穴へ押し込んできた。急な力に押された僕は暗闇の中に落とされ、着地を失敗して尻から転んでしまった。持っていた鑑定書は散らばってしまい、僕はそれを拾い集めようとした。
「そんなのに構うな。お前も早く逃げろ」
顔を上げると、そこには一緒に働いていた中年の男性が立っていた。
「でも、放っていったら――」
「ぐずぐずしてたら捕まるぞ。査察官も馬鹿じゃない。ここを見つければ逃げ道だと気付いて、下水道の中まで調べるかもしれない。その前に地上に出るんだ」
男性がそう言っている間にも、頭上の穴からは働いていた仲間が下りてきて、従業員は書類や仕事道具を次々に放り込んでくる。証拠隠滅――そうとしか言えない行為だ。
「僕達は、犯罪に加担してたんですか……?」
「何言ってる。それを承知で働いてたんだろう。まさか気付いてなかったとか言う気か?」
僕は何も言えずにうつむくしかなかった。
「捕まってもそんな言い訳は通用しないぞ。朝から晩まで尋問されたくなきゃ急いで逃げろ」
促されて、僕は男性の後を追うように下水道内を走って逃げた。臭い汚水を跳ね上げ、ズボンが濡れるのも構わずに走り続けた。どこへ行けばいいかもわからず、それでも必死に走り続けたけど、そのうち男性の背中を見失って、僕は右へ左へ曲がりながら迷いかけていた。だけどどうにか地上へ出られそうな穴を見つけて、ようやく全身に日の光を浴びる場所に立つことができた。そこは人影のない町の外れのようで、側には草むらと廃屋が見えるだけだった。現在地がよくわからないまま、僕は町の中心部方向へ歩いて、そこでやっと見覚えのある景色を見て安堵した。
そこからはすぐに家へ帰り着くことができた。けれど、僕の足は鉄球を引きずるように鈍く重い。頭には後悔先に立たずという言葉が巡っていた。僕は、自分のしている仕事を疑っていた。何かおかしいと何度も感じていたんだ。でも高い報酬に目がくらんでそれを無視していた。その結果がこれだ。汚水にまみれて逃げ出すという最悪な状況……いや、査察官に捕まらなかっただけよかったのかもしれないけど……。母さんには合わせる顔もない。違法な仕事で稼いだ金を渡していたのだから。喜んでいた笑顔を思い出すと、罪悪感で僕の心はずたずたになりそうだ。でも、こんなこと言えない。息子の僕が犯罪を犯しただなんて、絶対に言えない。家族のためにしたつもりだったのに、逆に悲しませることになるなんて……。
「……ただいま」
僕は恐る恐る家の中に入る。明るい時間に帰ってきたことに、あれこれ聞かれやしないかと怯えながら、ゆっくり居間へ向かった。
「あ、お帰りなさい。随分と早いお帰りですね」
居間には床掃除をするマルセロがいて、手を動かしながら僕をにこやかに見上げて言った。……そうだ。マルセロには聞かなければならないことがある。
「母さんはいるの?」
「いえ、奥様は大奥様と買い物に出かけてますよ。……あの、エヴァンさん、そのズボンですけど……」
マルセロは汚れた僕のズボンを見ると、表情を少ししかめた。
「何か、臭いますけど……どうしたんです? それ」
「これにも関係するけど……マルセロ、ちょっと聞きたいことがある。裏庭に行ってくれるか?」
「はあ、いいですけど」
ほうきを置いたマルセロを連れて台所から裏庭に出る。頭上から降り注ぐ陽光に目を細めつつ、僕はマルセロを正面から見据えて聞いた。
「紹介してもらった仕事だけど、あれはマルセロが探してきたものなんだよね」
「俺って言うか、正確には昔馴染みから教えてもらったものなんですが……何か問題でもありましたか?」
昔馴染み……。
「すごく失礼なことを聞くようだけど、その友人は真っ当な生活を送ってる人なのかな」
これにマルセロは怪訝な表情を浮かべた。
「やっぱり問題があったんですね。一体何があったんです?」
「僕は、犯罪者になったよ」
「え……?」
身が凍ったように止まったマルセロは、見開いた目で僕を見る。
「店に抜き打ちの査察が入って、僕は言われるまま下水道を通って逃げてきたんだよ。ズボンはそのせいだ」
「あいつ……危なくない仕事って言ったはずなのに」
「……どういうこと、それ」
問うと、マルセロは視線を泳がせ、気まずそうな表情になった。
「本当、申し訳ありません。エヴァンさんのために稼げる仕事を見つけたかったんで、久しぶりに会った昔馴染みに相談してみたんですが……相手を間違えました。絶対大丈夫だって言うから信用してたんですが……」
「その友人は何者なんだ? 何で違法な仕事なんか知ってるんだ」
「あいつは、もともとそういう世界にいたやつで、少なからずつながりも持ってるんです。……で、でも、もうそこから抜けたって言ってたんですよ。だから信じて俺は……」
「随分怪しげな友人を持ってるんだな。まさかマルセロも同じ世界で働いてたりなんかして……?」
僕は冗談めかして聞いてみた。すぐに違うと否定してくれると思っていたのに、マルセロはなぜか押し黙ってしまった。
「……や、やだなあ。冗談だよ。怒ったんなら謝るから――」
「ごめんなさい」
急に謝られて、僕は目が点になった。
「な、何?」
「ずっと隠してました。俺……犯歴があるんです。騙すような真似してごめんなさい」
マルセロは沈痛な顔で頭を下げた。犯歴って、過去に何かしら罪を犯したってこと……?
「う、嘘だよね? ここに来た時、そんなこと言ってなかったし、僕をからかって――」
「言い出せませんでした。ここに来る前は、全部正直に言って働き口を探してたんですが、それだとどこも雇ってくれなくて……だから、言えなかったんです。どうしても雇ってもらいたかったから……」
悲痛な言葉に、僕は呆然としていた。彼が、元犯罪者だったとは……。
「一体、何をして捕まったの?」
「いわゆる泥棒です。スリとか空き巣とか、金になるものなら片っ端から盗んでました。でもついに捕まって……牢屋の中で自分を省みたんです。こんな生き方でいいのかって。そこで決意しました。泥棒からは足を洗い、真っ当に生きようと。でも犯歴のある人間を雇ってくれるほど、世間は優しくなくて……」
誠実な心で犯歴を正直に言っても、世間はそれを拒絶して、マルセロの真っ当な生き方を阻もうとする――
「だから、隠すしかなかった。そうして雇ってもらうしか方法がなかったんです。黙ってたこと、申し訳ありませんでした。違法な仕事を紹介してしまったことも、どうお詫びすればいいのか……」
泥棒をしていたとは言え、その後のマルセロは辛い目に遭っていたんだろう。でも、今辛いのは僕のほうだ。犯罪に手を貸した逃亡者になってしまったんだから。査察官からの報告で、今頃町では警察が逃げた僕達を捜し回っているかもしれない。
「僕、そのうち捕まるかもしれないけど――」
「そんなこと俺がさせません。この身に代えても、エヴァンさんを警察なんかに連れて行かせませんから。絶対に!」
僕を力強く見つめてマルセロは言った。
「仕事に関しては僕も悪いんだ。やってることが違法じゃないかって薄々気付きながら、それでも僕は働いてた……責任は、僕にもあるんだ」
「いえ、エヴァンさんは何も悪くありません。全責任は俺にあります。これでクビにされても仕方ないと思いますが……それでも俺はあなたを守りますから」
神妙な面持ちを見せるマルセロに、僕は言った。
「クビ? そんなことするわけないだろう」
「え? でも、俺はそうなって当然のことを――」
「ここでの働きぶりに、家族は誰も文句を付けてない。そんな優秀な人を勝手にクビにしたら、僕が責められるよ」
「だけど、犯歴を隠して雇ってもらったことは――」
「それを知ってるのは僕だけだ。他は誰も知らないし、聞いてもない。でしょう?」
僕が笑いかけると、最初はぽかんとしていたマルセロだったけど、次第にその顔は泣き笑いの表情に変わった。
「俺のこと、信じてくれて、ありがとうございます。足を洗って心を入れ替えたこと、これからの働きで示していきますから」
「そんなに力まなくていいって。今まで通りでいいから」
「寛大な対応をしてもらったのに力まずにはいられませんよ。皆さんにはまたご恩ができてしまった……。エヴァンさん、もしこの家や職場に警察が踏み込んでも、俺が助けてみせますから。万が一捕まっても、絶対に連れ戻してみせますから。安心して過ごしてください」
「ああ、うん、ありがとう」
マルセロの自信満々な言葉に多少圧倒されながらも、僕は微笑んでうなずいた。捕まった人間をどうやって連れ戻すのかは知らないけど、きっと泥棒時代のそういう仲間や組織があるんだろうな。そう思うと本当に足を洗ったのか疑いたくもなるけど。でもマルセロの人間性に疑うところはない。毎日の姿を見ていれば、しっかり心を入れ替えたことは明らかだ。仕事の紹介も、友人を信じたから詰めが甘くなったわけで、マルセロに大きな非があるわけじゃない。ないんだけど……できることなら僕は犯罪者にはなりたくなかった。彼を責められれば楽だけど、クビを受け入れようとしたり、あんなに強く僕を助けてみせると言われると、逆に頼もしく見えて責める気も起こらない。まあ、僕に責める権利があるのかどうかわからないけど……。確実にわかっていることは、これから僕は警察の目に怯えなくちゃならないということだ。いつまで続くのか、考えると滅入りそうだけど、これが金に目がくらんだ代償なんだろう。やっぱり人間、苦労をしながら金を稼ぐものなんだと改めて学べた。
その日の夕方、僕は母さんに副業をやめたと伝えた。少し残念そうだったけど、理由も聞かずに無理をすることはないと気遣い、笑ってくれた。その笑顔はかなりこたえた。ああ、僕は親不孝者だ。
その後、妹が部屋から出てきたので、僕は呼び止めた。
「シルヴィナ、恋人のソラーノ君の親は、宝石店を営んでるのか?」
「うん、そうだけど……あれ? 何で知ってるの? 私言ったっけ」
間違いないようだ――不思議がる妹を見据えて僕は言った。
「すぐに別れたほうがいい……いや、別れろ」
「何なの急に。前は期待してくれてたじゃない」
妹はいぶかる目で見てくる。
「彼と付き合ってもましなことがないぞ。むしろ不幸になるかもしれない」
「どういうこと? 何でそんなこと言うのよ。根拠もなく言ってるなら、兄さんでも許さないよ……?」
困惑と苛立ちを見せる妹を僕は見つめる――根拠はある。だけど、それを言ったら僕が犯罪を手伝っていたことまでばれてしまうんだ。そこまでは言えない……。
「……僕の言う通りにしたほうがいい。そのうち絶対、そうしてよかったって思う時がくるから。これはシルヴィナのためなんだ」
「私のためなら、応援してくれるのが普通じゃない? ソラーノと別れさせて、玉の輿を止めたいの?」
だんだん妹の語気が荒くなってきた。喧嘩になる前に早く切り上げよう……。
「玉の輿の目標は今も応援してるよ。でも彼は駄目なんだ。早いところ別れて、新しい恋人を見つけろ。いいか、すぐにだぞ」
それだけ言って僕はひとまず二階の自室へ逃げるように向かった。
「ちょっと! 一方的に言うだけ言って、何も説明しない気? 一体何なのよ。兄さん!」
背後から怒鳴り声が続いていたけど、僕は振り向かず自室に入った。
その後の夕食から、妹は僕を見ても睨み付けるだけで口をきいてくれなくなった。僕の勝手な指図に相当不満らしい。そりゃそうだろうな。理由を言わないんだから。妹の気持ちになれば僕だって不満を覚える。でもそうするしかないのだ。嫌われても、こう言ってやらないと妹の将来は明るくならない。すでに暗雲が立ち込めている僕のようにさせないためには、仕方のないことなんだ。……とりあえず、妹を巻き込まないための忠告はした。あとは自分の身だ。家計は苦しくても、前のように平凡な日常が続くことを、今は祈るしかない。
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