後篇


 雨が山を白くかすませる。

 はげしい雨が熊野霊山を覆う。岩肌に跳ね返る飛沫。河が落ちてくるような凄まじい雨量。他の一切の音が消えて飛ぶ。

 山伏たちは洞穴に身を潜めて雨を眺めていた。

 伊勢から尾鷲。南都大峯。吉野から高野山。小、中、大辺路。

 降れ、降れ。

 われらは山伏。霊山にあって、われらの脚は古道を逸れた崖道、けものみちを踏破する。

 熊野は古代より神の結界。異形のからすはむなしく引き返せ。

 杉の柱をたてた星の宮。碁石のような白い月。

 雨上がりの冷気に山伏たちの両眼は氷のようにひかり、法螺をかけた螺緒らおは樹木の香を吸い込んだ雫をたらす。その中に、狂人と呼ばれて京都から来たその男もいた。

 額にかけた兜巾ときんと手甲をはめた手でたぐる苛高数珠いらたかじゅず。修行を重ねた彼らの神通力に、天空の光の珠は霊山を迂回して消えた。

 京都から来た男は挑むように金剛杖を突き立て、崖の上に立ち上る。

 おれは山伏だ。

 


 帰省しているあいだ毎日、詩子ちゃんと鴨川のほとりで逢った。

 今日も町中を山伏が歩いている。山伏とは、寺から離れて山奥の険峻で修行を積む僧のことだ。その山伏と天狗がなぜ同じ装束なのだろう。

「修行を極めた山伏が天狗になったのか、または異形の狗に山伏が肉体を乗っ取られたのか」

「平安京は四神の土地や」

 詩子ちゃんが両手で四角を描く。

「東西南北に守護があるんやけど、今は陰陽師もいなくなって結界も崩れてるんやて。比叡山や鞍馬山は北東や。鬼門にあたるその北東からネオがぎょうさん飛んでくるのは、京の結界が破れたからかもしれへん」

 そして世界遺産に指定された紀伊半島の熊野参詣古道は、古代は黄泉に通じていたという。霊山に限らず神聖な地の多くは鬼門や死人の国と隣り合わせなのだ。

「これが、倫範とものりさん?」

 詩子ちゃんがぼくの手元を覗き込んだ。ぼくが親から入手したのは大学生の頃の倫範さんの写真だ。頑健そうで、梶井基次郎に似ている。

「精神を病むような人には見えないよな」

「波太くん、あれ」

 詩子ちゃんが小さな手で空を指した。鈴懸とよばれる白い袖を広げて天狗が蒼い夏空のはるか上を飛んでいる。

「鳥だよね」

 日向は焚火のそばにいるかのようだ。日蔭にいても息苦しいほどに暑い。水の流れる河原ですら涼むにはほど遠かった。

 詩子ちゃんは片手で顔を扇いだ。

「なんでこんな暑い時に祇園祭なんかするんやろう」

 誰かが残していった菓子の空箱が叢に落ちている。ぼくは近くのゴミ箱に棄てに行った。

「山鉾町の多くも昔からの人らは死んでしもて、空き家の跡地に立ったマンションの人たちを今では山鉾保存会に入れてるんやて。こうして京都も他所から来た人たちの町になるんやね。嫌やわ」

 眼前の鴨川には対岸に渡る飛び石が据えてある。亀のかたちをした石もある。橋を渡らずとも飛び石を辿って向こう岸に移れる。子どもの頃はこの飛び石を使ってじゃんけん遊びの『グリコ』をしていたものだ。

 飛び石は夏の日差しに乾き切った表を水の上に出していた。想い出のなかでランドセルを背負った少女が川の中の飛び石にぽんと跳び降りる。荒神橋の近くだ。


 詩子、向こうまで止まらずに走って渡れるで。波太くんには無理やろうけど。


「倫範さんは熊野の何処かでもう死んでるかも知れないね」

 クリアファイルに入れた倫範さんの写真をリュックに仕舞いながらぼくが云うと、

「ううん」

 詩子ちゃんは真面目な顔つきになって首をふり、何故か「倫範さんは生きてはる。だって熊野はまだ霊山やもん」と云い切った。



 今日も暑くなりそうだった。

「波太おはよう。これお願い」

 母に頼まれたぼくは仏壇に炊き立てのお仏飯をはこび、線香を立てて、おりんを鳴らした。

「いつ東京に帰るんやった」

「明日だよ。午前発」

 ぼくはふと仏壇の前に眼をとめた。

 位牌が並んでいる仏壇の前に文机が出されていて、親戚が持ち寄った供物が並べられている。お供え物の横に写真立てが飾られていた。

「お母さん、この写真どうしたの」

「よく聴こえない」

 洗い物をしていた母が台所で水道を止める。ぼくはもう一度大声を出した。台所から応える母の声が低い。

「どの写真」

「仏壇の前の写真立て。お供え物の隣りの。いつからここにあるの」

「前からあったわよ」

 台所では母がまた洗い物を始めた。水の音と食器を洗う音が心なしか先程よりもくぐもって聴こえる。

 耳鳴りがした。

 ぼくは写真立てを取り上げた。ランドセルを背負っている女の子の写真だ。前髪をいちごの飾りがついたピンで片方に寄せて留めている。詩子ちゃん。

 写真立てを裏に返して爪をずらし裏蓋を外すと、溝から浮いた写真が畳の上に落ちた。裏に書かれた覚書が眼にとびこむ。日付は十三年前。

 十三回忌。

 ごおっと地鳴りがしたかと想うと、家が横に、そして縦にはげしく揺れ始めた。地震だ。

 仏壇が倒れてお供え物の果物が跳ねるように転がってきた。和室の吊り電球が竹細工の笠ごと左右にふれて千切れそうに歪んだ円を描く。家全体が軋んだ音を立てて大揺れしていた。先刻の耳鳴りはこのせいだ。

「お母さん」

 母のいる台所からは母の悲鳴と、食器棚が傾いて陶器が床で砕ける凄い音がした。立っていられず、ぼくは畳の上に身を伏せた。時間にしてわずか数秒だったが、大地震だった。

「波太、まだ伏せとき」

「お母さん、怪我はない」

 うずくまっていたぼくは這うようにして顔をあげた。地震で屋根から瓦が滑り落ちたのではないかと、濡れ縁の向こうの庭に眼を向けた。そこにランドセルを背負った詩子ちゃんが立っていた。余震に揺れ動く家の中でそこだけは静止していた。

 詩子ちゃんは青白い顔で何か云いたげにすぐ近くからぼくを見ていた。写真の中の詩子ちゃんと同じ姿だ。

 前髪を留めている、いちごの飾り。

「波太、床が破片だらけやからこっちに来んといて」

 台所から母の声がした。詩子ちゃんの姿は消えていた。


 京都市内は震度四。テロップで流れ始めたテレビの緊急地震速報に母は文句をつけた。

「震度六の間違いや。計測機器が故障でもしてるんやないの」

 母もぼくも怪我は負っていなかった。母と一緒に箒を使って割れた食器を掃き集めながら、ぼくが最初に想ったのは、花折断層地震がついに来たのだということだ。花折断層は滋賀県から京都市中にかけて走っており、いつか必ず震度六以上の強地震を引き起こすと云われていた。

 そうだ、ラジオ。

 ぼくは二階に駈け上がると、祖父のラジオを両手で掴み、電源を入れてアンテナをを伸ばした。砂が流れるような音がする。黄ばんだプラスチックの覆いの下の目盛りをダイヤルを回して探ると、すぐにその周波数をラジオは捉えた。


 京都さん 京都さん

 応答ねがいます


 これだ。今度は唄はなく男の声だけが最初から聴こえた。地下から呼び掛けてくるような声だ。


 応答ねがいます 京都さん

 こちらは全滅

 全滅です

 生存者


 キーッガーッ。ぶつり。声が途絶えた。雑音が鳴るようになったラジオをぼくは見つめた。



 その夜はなまぬるい風が吹いた。飛び廻る天狗が巨大な羽団扇で地上に風を送っているようだった。指定席をとった新幹線は明日発だが、地震のせいで東海道線はとうぶん運行中止だろう。

 数十年前から京都の上空にはたくさんのネオ、つまりUFOが目撃されていた。それ以前にも発見されていたが、今ほど頻繁ではなかった。

「神隠しは、宇宙人の仕業かもしれへん」

 小学校に向かう通学路で、詩子ちゃんがぼくに打ち明けた。

「宇宙人は天狗や。夜中に眼が覚めて外を見たら、鳥みたいな顔をした宇宙人が空中を飛んで人を食べとった」

 十三年前、学校帰りに行方不明になった詩子ちゃん。ではぼくが今まで逢っていた詩子ちゃんは誰なんだ。

 ぼくは夏布団を頭からひきかぶった。

「お帰り波太くん」

 いちごの髪飾り。詩子ちゃんは十三年前のままの姿でぼくを河原で待っていた。いつでもそうだった。

 なぜ今までそのことをおかしいとは想わなかったのだ。ぼくはずっと詩子ちゃんの幽霊と遊んでいた。


 東京に戻れたのは意外に早く、翌日だった。報道のとおり地震で大きく揺れたのは家の周囲だけで、余所の地域はそこまで揺れなかったそうだ。

 大阪始発の新幹線に飛び乗って、逃げるようにぼくは東京に戻った。その脚で夏季休暇中の大学を訪れたぼくは大学内の本屋に向かった。学生は割引がきくので本が必要な時はここで買う。旅行ガイドの棚に『京都』を見つけた。同じ並びに『奈良』も『熊野参詣特集』もあった。ぱらぱらとめくってみる。

「よう、波太。帰ってたのか」

 部活帰りの友人がやって来てぼくの肩を叩いた。ぼくは云った。

「帰ってたよ。何処から帰ってきたと想う」

「どういう意味だよ」

 友人は怪訝そうにした。

「京都だろ。帰省だろ。地震があったよな」

 そう、京都だ。どうやらちゃんと京都は現実にあるらしい。京都の旅行ガイドと熊野参詣特集の雑誌をぼくは棚に戻した。

「なに、お前、熊野古道に興味があるの」

「親戚の叔父さんが、熊野の山の中で修験者になってるらしくてさ」

 構内の書店を出たぼくは友人と別れると、速足になっていた。背後からばさばさと羽ばたくような音が聴こえている。夏休みで大学内の広い庭にはひとけがない。ぼくの影に上から鴉の影がかぶさった。太陽から、くちばしをもった何かがぼくを目掛けて降りて来たようだ。飛びながら追ってくる。ぼくは走っていた。

 ぼくを河原で待っていた詩子ちゃんの幽霊。

 新幹線から京都駅に降りたぼくは、別の京都に降りていたとでもいうのだろうか。

 破られた結界。鴨川の河原は、昔、罪人の首を斬る処刑場だった。だから幽界とも通じてる。

 天狗が来るぞ。

 失踪した倫範さん。倫範さんは何かを知っていた。京都の町の至るところにいた、まるで巡邏パトロールのような山伏たち。全滅です。出雲は全滅です。風を切る音。校舎の陰でぼくの背後に何かが降り立つ。魔界の蓋が開いた。日本のあちこちで、すでにネオから降りてきた天狗たちがこうして人間を襲って入れ替わっ……。

「よう、波太。帰ってたのか」

「うん」

 部活帰りの友人がやって来てぼくの肩を叩いた。ぼくは大学構内の書店で旅行ガイドを見ていた。

「なに、お前、熊野古道に興味があるの」

「親戚の叔父さんが、熊野の山の中で修験者になってるらしくてさ」

 熊野参詣特集の本をぼくは会計に持って行った。書店を出ると、買った本を木蔭のベンチに座ってひらく。これが熊野か。小賢しい山伏どもが結界を張っている。お蔭で一帯には近寄れない。祈祷と法螺の音が邪魔だ。業腹なことに、他の人間とは違い、山伏だけは昔から喰っても首から下しか乗り移れない。

 このままにしておくものか。

 ぼくはリュックからクリアファイルを取り出した。そこに挟まった若い男の写真を睨む。修験者どもめ。

「なんだ」

 ぼくの中で、『ぼく』であったものが何やら云いたそうにしている。そのうちこいつにも分かるだろう。太古の昔より、我らのほうが人間より先にこの大八州オオヤシマクニの主だったのだ。

 ぼくは旅行ガイドの本を閉じた。出雲の生意気な山伏たちは一掃した。伊勢も戸隠も大神も、遠からずそうなるだろう。

 ぼくの名が呼ばれていた。

「波太。いい処にいた」

「麻雀しようぜ。面子が足りなかったんだ」

「ああ」

 ぼくは笑顔をつくると友人たちに手をあげて応え、ベンチから立ち上った。

 


 詩子ちゃん。

 橋の上からぼくは呼びかける。危ないよ詩子ちゃん。

 ランドセルを背負った小さな背中が対岸を目指して最初の飛び石の上に足をおいた。少女が跳ねる。白い靴下。因幡の白うさぎのようだ。

「鳥の顔の宇宙人が人を襲っててな、その後、宇宙人がその人の姿に代わってん」

 足を滑らせて詩子ちゃんが川に落ちた。ふだんの鴨川は溺れるほど深くない。だから詩子ちゃんは溺れていない。沓の片方は下流の九条まで流されて、そこで見つかったそうだ。

「増水していたわけやあらへんのにあの浅瀬で溺れるやなんて、そないなことがあるかいな。遺体かて見つかってへんねんで」

「橋の上から見ていた波太くんは小学校に入学したあたりからの数ヶ月の記憶がないそうや。ほんまに何が起こったんやろう。神隠しや」

 詩子ちゃん。

 ぼくは手を伸ばす。

 仏さまの掌に包まれたような京の町。赤紅、紅緋、瓦屋根の鬼飾りを染めてたなびく夕方の雲は錦鯉の金の背びれを薄く刷いたいちご色。夕焼けが燃えている。空が焼けている。空から天狗がすべり降りて来て、詩子ちゃんを掴み上げ、上空に舞い上がった。



[了]※続篇あり

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焼けた空から降り来たる 朝吹 @asabuki

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