焼けた空から降り来たる

朝吹

前篇

 

 お知らせが入り、京都駅が近くなった。隣席の女性も京都で降りるようだ。通路側の席だったぼくは立ち上がり、座席の上の棚から通学用のリュックサックを降ろした。ついでに女性に声をかけて、隣りの女性の荷物も降ろしてあげた。東京駅で始発に乗った時も「やりましょうか」と声をかけてスーツケースを棚に上げてやったのだ。ひどく小柄な女性でやり難そうにしていたので申し出た。

「助かりました」

 女性の礼に頷いて、ぼくはリュックを背負うと通路に出て行った。

 十三回忌にあわせて、今夜は親族が実家に集まる予定だ。

 京都の上空は仏具のような金色だった。珍しく眩暈がして眼の前が暗くなった。座り続けていたせいだろう。新幹線から夕方のホームに降り立った途端に、オーブンの中のような京都の夏の暑さが襲ってきた。


 祇園祭が近いこともあり京都駅は大混雑だ。コンチキチンと祇園囃子の音が構内に流れている。疫病や怨霊を鎮めるために始まった祭りということもあって、祇園祭は山鉾が通るだけの地味なものだ。

 お囃子が流れるなか、山伏の行列とすれ違う。

 暑いのにおいを背負い、結袈裟や脚絆を身に着けた白装束で彼らは通り過ぎていった。後ろ姿は天狗と区別がつかない。

 サナトクラマ。

 呪文のようにしてぼくはその名を覚えている。六百五十万年前に鞍馬山に降りてきた天狗の祖の名だ。ややこしいことに鞍馬の地名はサナトクラマが由来ではなく、鞍馬と貴船を含めた一帯の暗い山を意味する古語が転じたものらしい。

 京都タワー前のバスターミナルは観光客で大行列が出来ている。先発のバスを見送り、二台目に乗りこんだ。

 実家へは地下鉄を使うほうが便利だが、途中の四条に用があるのだ。今夜の法要には滅多に逢うこともない遠方の親族もやって来る。

波太なみたくん、倫範とものりくんみたいにならんようにしいや」

 行方不明になった倫範叔父さん。

 倫範さんについて、何か教えてもらえるかもしれない。



 鴨川の遊歩道に詩子うたこちゃんは立っていた。京都駅からまっすぐ家に向かわず、四条でバスを降りたのは、詩子ちゃんがそこで待っているからだ。

 四条大橋の上からは洛北の山並みが一望できる。今は緑だが、冬ともなれば、北山連峰の遠景が水墨画のような雪景色と変わる。八坂神社や祇園が近いこの橋に立つと京都に帰ってきたという気がする。

 橋の横の鋪道からぼくは詩子ちゃんの待つ河原に降りていった。

「お帰り波太くん」

「ただいま、詩子ちゃん」

 従姉の詩子ちゃんの好物はいちごだ。前髪をとめているピンにもいちごの飾りがついている。

「久しぶりやね。関東もこんなに暑いん?」

「いや、新幹線から降りた瞬間に京都のほうが暑いと想った。関東はギラギラしてるけど、京都の暑さは鍋の底」

 夏の風物詩の納涼床はすでに満席に近く、どこの店も賑わっていた。ぼくと詩子ちゃんは鴨川に沿って北に歩いた。

「荷物少ないなぁ」

「着替えは実家にあるし、リュックにはPCしか入れてないんだ」

「その喋り方。東京の大学に行ったからってあっちに染まって、波太くん、気持ち悪いわ」

「仕方ないだろ。……仕方ないやろ」

 関東で過ごすと標準語に染まってしまうものらしい。詩子ちゃんの唇から出てくる久しぶりの京言葉は、銀の匙ですくうかき氷のようにしゃらしゃらと耳をくすぐった。

「お土産は」

「東京駅のお菓子。いちごのラングドシャ。家についたら出すよ」

 わーい。詩子ちゃんは小躍りしてみせた。

「あ、山伏だ」

 京都駅でも見かけた山伏がここでも数名連なって、三条大橋を東に向かって速足に過ぎていくところだった。バスからも見かけた。何だろう。山伏の集団をあちこちで、こんなにも見かけることはなかったような気がする。

「比叡山の山伏やない?」

 詩子ちゃんはさほど関心がないようだった。ぼくは鴨川の遊歩道から山伏たちが通り過ぎた三条大橋を仰いだ。山伏と空。夕暮れの夏空に何かが飛んでいた。素早く動く光の粒。

「ネオだ」

 空をじぐざぐに飛ぶ物体の名を詩子ちゃんが呼んだ。法螺ほらの音が重なる。さきほどの山伏たちが立ち止まり、空の円盤を目掛けて一斉に法螺を吹いていた。

 UFOあらため、ネオ。飛行機よりも小さく、鳥よりも大きい。この怪奇現象はすっかり動画サイトのお馴染みになってしまった。日本各地に謎めいた飛行物体が飛び交うようになって、二十年が経っていた。



 叔父の倫範とものりさんは、紀伊半島の熊野の山奥で修行を積んでいるという。

 あの人の話はせんといて。

 母親は倫範叔父さんのことを「なき者」として扱っていた。外には云うたらあかん。あそこの家系は狂人が出たと知れ渡ってみ。あんただけやない、従姉妹たちも誰とも結婚できんようになる。

 山伏は忌むものではなかろうに。

「修験者なんかやあらへん」

「じゃあ、なに」

「発狂したんや。天狗が怖い。京都大学にまで行きながら、望遠鏡でネオを観察しているうちに途中でおかしいことになったんよ。吉田山の神社でラジオを片手に叫び声を上げてたんやて。『出雲がとられた』」

 吉田山というのは京都大学に隣接している丘みたいな山だ。古くは神楽岡といった。

 出雲がとられた。

 確かに意味が分からない。

 大学生のぼくと同じ年頃で頭がどうにかなり、紀伊山系の熊野に行方を消し去った倫範さん。ぼくが生まれる前の年のことだから、今もまだ生きていたとしたら、倫範さんは四十代だ。

 ぼくは親戚に逢う度に云われた。

「勉強は出来たほうがそらええけど、頭が良すぎるのも考えもんや。波太なみたくん関東に行くんかいな。受験勉強がんばりや」などと、どっちなんやと云いたくなるようなことを口々に云われたものだったが、それもこれも天狗を怖がって熊野の山中に失踪した倫範さんのせいだった。

 年老いた親族の口はとくに堅かった。

 倫範さんについて詳しく知りたくとも、親族たちは厭わしそうに顔をそむけた。



 精神異常にも流行があるらしい。ひと昔前ならば「天皇のご落胤だ」「宇宙人に攫われた」と申し立てる患者が主流であったそうだ。

 二十年前とはいえ、大学生の青年が天狗を怖れるというのは懐古趣味にしてもやや奇妙な気がする。

「ほら波太、天狗さんや」

 亡くなった祖父は幼いぼくを和室の鴨居の高さに抱き上げた。そこにはからす天狗のお面が飾られていた。鼻の高い天狗のことを大天狗というが、大天狗は近世に生まれたもので、天狗の原型は鴉のくちばしをもった小天狗なのだ。

「嘴に見えるけどこういう顎骨をした何かの生きものやったかもしらんなぁ」

 天狗はなぜか山伏の恰好をしている。異能をもち空を滑空する天狗。

 京大生だった倫範さんは熱心に空に出没するネオを観察していたという。倫範さんは本当におかしい人だったのか。

 それとも。



 カップルが等間隔で座ることで有名な鴨川の遊歩道も三条大橋を過ぎるとその姿はかなり減る。

 いつもより鴨川の水位が高かった。記録的豪雨になるとこの細い川は姿を一変させて土気色の濁流となり、地元住民が散歩するこの遊歩道も完全に水の下となる。

「昨夜雨が降ったせいか、水が多めだね」

「波太くんはまだ水が怖いん」

 ぼくを見て詩子ちゃんは笑った。

 詩子ちゃんとは母親同士が姉妹だ。従姉といってもぼくと同じ学年で幼稚園から一緒だった。四月生まれの詩子ちゃんと三月末に生まれたぼくとでは、ほぼ一年違う。幼少期の一年の差は大きい。早生まれのぼくはいつも詩子ちゃんに負かされていた。

「波太くん、また泣いた」

 幼児水泳教室にも詩子ちゃんは一年はやく入っていた。水に足を入れることすら出来ないでプールサイドで指導員にしがみついているぼくを、詩子ちゃんはビート板片手に軽蔑の眼で見ていたものだ。


 やがて荒神橋が見えてきた。

 近所に住んでいる詩子ちゃんは、「また後でね」と云い残して、飛び石を渡って反対側の遊歩道に渡ると手を振って夕暮れの町に去って行った。

「お帰り波太」

「暑かったやろ。はい麦茶。休憩したらシャワー浴びといで」

 しばらく離れていると、実家はぼくの家というよりも、両親の家にお邪魔しているような気分になるものだ。ぼくは二階の自室に荷物を置きにいった。古い家は一部改装中で、ぼくの部屋は物置がわりになっていた。室の片隅には何が入っているのか分からない段ボールが積まれており、埃よけの風呂敷をかけたその一番上には祖父の形見の古いラジオが仕舞い忘れたように乗っている。

 ぼくは何となく祖父の小型ラジオを手にとった。この箱型ラジオはよく覚えている。若い頃の祖父が初任給で買ったという年代物だ。まだ使えるはずだ。電池も入っている。側面についた銀色のダイヤルを回してみた。

 女性の合唱が聴こえてきた。

 春のうららの 隅田川

 ラジオから流れ出たのは滝廉太郎『花』だ。今は真夏だ。変なのと想いながらしばらく聴いていると、歌は突然終わり、代わって男性のゆっくりとした声がラジオから聴こえてきた。


 京都さん

 京都さん

 応答ねがいます

 聴こえますか、京都さん


 海を越えた半島の放送局は周波数が強いため日本でもよく聴こえる。あんな感じで、アングラ局の周波数を捉えているようだ。誰かが「京都さん」に呼び掛けている。他県からだろうか。男性の声は繰り返した。


 京都さん、応答ねがいます


 そして今度は『春』にかわり、『君が代』が流れてきた。部屋は母親がぼくの到着時刻に合わせて冷房をかけている。ばさっと音がした。閉じた窓の外をからすの黒い翼が叩いて過ぎた。



 家に集まった親族のおじさんたちはぼくにコップを持たせてビールを注いでくれた。

「波太くん背が高うなったな、もう成人やろ、飲みや」

 曾祖父の時代には箱膳を並べていたであろう縦長の日本間は、こんな日でないと使わない。ぼくの家は大きくて古いのだ。

 夕方から親戚が続々と集まってきた。倫範さんについては誰も新しい情報をもっていないようだった。

「倫範くんは小さい頃から秀才やった」

「京大にまで行って、失踪したんやから。ふた親も悲嘆に暮れたまま亡くなってしもうて」

「生きとるんか死んどるんか、誰も連絡がつかんのや」

 倫範さんは依然として、熊野の山で行方不明のままだった。

「せめて近場の大原やったら探しに行けるんやけどなぁ」

 酔いの回った顔をして料理をつまみながら、父とおじさんたちは頷きあった。

「波太くん、いとこ同士は結婚できるんやで」

 酔っぱらったおじさんがぼくにからんできた。

「いとこ同士の結婚は珍しいない。誰かとどうや」

 実はその話は夕方に河川敷で詩子ちゃんともう交わしていた。詩子ちゃんが将来の夢は花嫁さんと云ったからだ。

「いとこ同士は結婚できるよ」

 波太くんと、なんで。冗談のつもりだったのに、詩子ちゃんはぼくが傷つくくらい露骨に拒絶してきた。

「何ゆうてんの。嫌や。オムツが取れたんもピアニカが吹けるようになったんも、うちの方が早かった」

 そうでした。

「ネオUFOかて、波太くんは俯いてべそべそ泣いているだけやった」

 男の沽券もなにもあったもんじゃない。慌ててぼくは遊歩道から駈け上がって川端通のコンビニに走った。歩いているうちに喉が渇いたのだ。

「字が書けるようになったのも鉄棒で逆上がりが出来るようになったのも、詩子のほうが早かった。波太くんは長いことおもらししてたし、滑り台も怖がってようやらんかった。入学式で先生に名まえを呼ばれても蚊のなくような声やった」

 幼馴染の女の子は男心を粉砕するほどの爆弾をもっている。

「異議でもある?」

「言葉もないです」

「詩子と波太くんは性別が逆やったらええのにてうちの親からよう云われたわ」

 ペットボトルの飲料はすぐに空になった。夕方の風に吹かれている詩子ちゃん。前髪を留めているいちごの飾り。背の順で前から数えたほうが早かったぼくが、詩子ちゃんのつむじが見下ろせるほど背が高くなるとは想わなかったよ。

 そんな調子だった詩子ちゃんだが、親族が揃っている席では澄ました顔で微笑みを浮かべ、黙ったままだった。


 法要は夜も遅い頃にお開きになった。

「ご馳走さんでした。波太くん、またな」

 電車で帰る者もいれば、京都市内のホテルに泊まる者もいる。タクシーを捕まえるおじさんたちを大通りまで送っていった。

 比叡山が黒い影絵になって夜空に聳えている。その山頂ちかくに光る何かが飛んでいた。

「ネオや」

「ほんまや。よう見えるわ。けったいやけど、もう見慣れたわ」

 山に囲まれた盆地の夏は暑い。京都市中は夜になっても燻られるように猛烈に暑い。しかしその時、すうっと冷たい風が吹いてきた。



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