KISS契約〈前編〉
「何ミリだ?」
「2ミリです」
花麒麟ヒイロは皮を剥いたニンジンに定規を押し当て、2ミリごとに浅い切れこみを入れていく。
そしてニンジンの先から先まで印を付け終えると、右手で包丁、左手でニンジンを握りしめ、上半身の体重を乗せながら、垂直に切り落とした。
「そこまで正確にしなくても……」
夜の7時半。夕方の家事訓練と夕食を終えたあと、貸切状態となっていた教科棟・調理実習室の一角で、タヅナはヒイロに料理科の授業の補習をしてあげることになった。
「何ですか、それは?」
「水平器だ。微調整が難しい」
ニンジンの細い方の先端の下に、残骸となったニンジンの破片を敷き、水平器――プラスチック筐体内部の液体の傾きで、設置物が地面や床と並行かどうかを測る機器――を使いながら、その中心軸をまな板と水平にしようという考えらしい。
すでに今夜は、20本以上のニンジンが犠牲になっていた。
少しタヅナが目を離すと、ヒイロは一般的な料理人では考えもつかないような調理法を編みだしてしまう。より正確で、より効率的な調理方法を追い求めるためには、既成の概念――つまり、教科書通りの知識だったり、教官からの指導だったり――を疑ってみる必要があるという。
「ダメだ。他の方法を探ろう」
「そうですね」
タヅナは、人にものを教えることの難しさを痛感していた。
ヒイロは物事をいちいち疑ってかかり、自分の頭で徹底的に考えないと、絶対に納得しないタイプだった。だから時間はかかってしまうが、彼女の奇行に付き合ってあげるしかないだろう。
きっと、その行き過ぎた完璧主義こそ、諸悪の根源なのだと予感しながら。
ピピピピッ、ピピピピッ――と、30分でセットしていた花型のキッチンタイマーが鳴り、タヅナがそのボタンを押した。
「ふぅ……今日は輪切りを学んだな。タヅナ教官、講評を」
「野菜を正確なサイズで切ることは難しいので、なんとなくでいきましょう」
「その『なんとなく』が一番難しいんだ! 弱火と中火の境界線はどこだ? 塩少々とは、水に対して塩が何%の分量だ?」
「えっとぉ、それは味見したり、料理法によっても違くて……」
タヅナは目眩を覚えながら、額に手をやった。
ヒイロに料理を教えていると、全ての調理工程において、この『なぜなぜ波状攻撃』が放たれる。いちいち気にしていたらキリがないことまで――いや、そういった些細なポイントにこそ、ヒイロからツッコまれてしまう。
「あっ、でも、味見できない場合もあるし……結局は勘、ですかね?」
「そうか。料理という行為は、視覚や味覚の感性を問われる芸術なんだな。勉強になる。それでは後半の部に移るとしよう」
そう言うとヒイロは、まな板とニンジンの成れの果てを脇に追いやり、ポップなイラストが描かれた数冊のドリル帳を、調理台の上に置いた。
「今日は小学5年生の算数だ。少なくとも2冊は終わらせたい。ビシバシ行くぞ」
「ヒィッ!」
広げられたドリル帳に並ぶ忌々しい数字の羅列を目にし、タヅナは思わず悲鳴を上げた。
攻守交代。今度はタヅナがヒイロから補習授業を受ける番となる。
こんなことになったのも、1週間前にヒイロと契約を交わしたせいだ。
タヅナは鉛筆を握りながら、ヒイロの自宅の玄関先で起こった出来事を思い出した。
――「芍薬タヅナ、私と戦略的パートナーにならないか?」
ヒイロから差し出されたのは、1枚の契約書だった。
――「どういうことですか?」
――「[家事委託の独占及び、相互教育指導の包括契約]。略称[
――「ケーアイエスエス契約?」
――「私たちはそれぞれに苦手科目があり、得意科目がある。君は教養科を苦手とし、料理科を得意としているが、私はその逆。そこで苦手科目を互いに教え合い、WIN−WINの関係を築こうという提案だ」
――「一緒に勉強会をするんですね?」
――「それだけではない。これから君は、私からの家事委託だけを受注してほしい」
――「えっ??」
――「せっかく私が君に家事委託要請をしても、君が他の候補生の家事をしていることがある。私は君の家事スキルを高く評価しているから、君にだけ家事を委託したいんだ。なに、報酬として一回10万ポイントを出そう」
――「じゅっ、10万ポイントですかっ!?」
――「少ないか?」
――「いっ、いや、多すぎますよ!! そんなにもらえません!」
結局、ヒイロから教わることも多いということで、1回の家事委託あたり5000ポイントとすることで決着した。ヒイロは不満を漏らしていたが、庶民的金銭感覚のタヅナにとって、あまりにも高額なポイントを受け取るのは、かえって怖いと思ってしまったのだ。
長くとも30分もあれば終わってしまう委託分の家事をして、少し雑談をすれば、5000円相当のポイントがもらえてしまう。ということは、実質的に時給1万円のようなもので、これでも破格の値段設定だった。
このKISS契約を交わしたおかげでタヅナは、料理を教えたあとに地獄のような計算ドリル演習をさせられる羽目になってしまった。
タヅナはヒイロによるスパルタ教育の開始から5分と経たないうちに、数字や数式たちが目の前を泳ぐ幻視に見舞われた。
教養科では、専業主婦(夫)が実生活で求められる様々な知識を教わるが、その中でも家計簿の記入がタヅナにとって最大の難関となっていた。
小学校の算数も、中学校での数学も、テストでは最下位しかとったことがなく、2桁の四則演算ですら、よく間違えてしまう。
ヒイロからは「小学3年生の算数からやり直す必要がある」と言われ、これまで徹底的に基礎的な計算問題を解き続けてきた。
だが、問題を解けども解けども、ページを捲れども捲れども、終わりの見えない
こんな数字との睨めっこを続けるくらいなら、皿洗いを3時間ぶっ続けでやった方が、まだマシだ。
タヅナが算数ドリルの最後のページの問題を解き終えるまで、この拷問は続いた。
「終わっ……た?」
「いや、まだ今日のノルマは終わってないぞ。3分間の休憩をしたら、後半戦に移ろう」
ヒイロが鞄から取り出したのは、『小学五年生用ワクワク算数ドリル〈応用編〉』だった。
「もう勘弁してぇ」
脳を限界まで酷使したおかげで、フワフワと揺れていたタヅナの頭は、ついに算数ドリルの上へと落下した。
* * *
それからというもの花麒麟ヒイロは、たまに出席する授業でも、タヅナの隣の席に座るようになった。
「次の礼儀科でも同じクラスだな、そろそろ教室へ向かうとしよう」
「はい」
だが、そんな状況は制度的にあり得ないことだった。なぜなら花麒麟花君専門高等学校の授業は、毎日異なる時間割が配信されるからだ。
授業に出席する各候補生のレベルや進捗度をAIによって評価し、自動的にクラスが振り分けられるシステムになっている。
「また教養科でも同じクラスか。わからない計算があったら私が教えてあげよう」
「ありがとうございます」
そのため、いくら仲の良い友達との受講を望んでいても、毎回同じクラスになるようなことはないはずだった。しかもタヅナとヒイロは、料理科と教養科で決定的に異なるレベルにあったのだ。
「また料理科でも同じクラスになったな。隣いいか?」
「いいですよ」
ヒイロが不得意としていて、進捗度も遅れているであろう料理科の授業でも、彼女は料理科トップのクラスに振り分けられていた。それも7日間で行われた計7回の授業全てでだ。
授業を一緒に受けたら、一緒に次の授業の教室へと移動して、その合間にタヅナが2人分の家事をこなし、また一緒に3食の食事をとり、また次の教室へと移動する。授業が終わっても、2人で空いている教室を借りて弱点克服のための相互補習をする。
おかげでタヅナはこの1週間、ヒイロと1日12時間ほど顔を合わせるような日々を送っていた。
「結局この1週間、全ての授業で同じクラスとは。私とタヅナは運命の赤い糸で結ばれているのか?」
「すっ、すごい偶然ですね――」
「んなわけないでしょ!! アンタが裏でズルしてんの、わかってんだから!!」
密着する2人の間に、怒声を発しながら割って入ったのは蓬莱羊歯ジュンだ。
「疑うに足る証拠が、君の手にあるのか?」
「いや……そりゃないけどさ。1週間ずっとタヅナと同じ授業を受けるって、どう考えてもおかしいでしょ!」
「類推の域を出ない意見だな。そうだ、タヅナ。今日は日曜日だし、家事訓練は休みにして、美味しいものでも食べに行こう」
「ダメッ! タヅナはアタシとお寿司に行くの!!」
「タヅナは、どちらと一緒に寿司を食べたい?」
「えっと――」
「アタシとだよね? 行こっ!」
「待ってくれ、ジュン。私はタヅナに意見を聞いているんだ」
「だったら、この際だから言わせてもらうけど! アンタさぁ、夕方にもコソコソとタヅナを連れ回してるでしょう? あれさぁ、やめてくんない? タヅナが迷惑してるんだよね!」
「それとこれとは別件だ。さぁ、タヅナ。私と彼女のどちらと寿司を食べに行きたい?」
「ア・タ・シ・で・しょ?」
2人の顔がズイッと迫られる形で回答を求められたタヅナは、後ろに仰け反って身を縮こませ、天敵を見つけた亀のように頭を引っ込めた。
「えっとぉ……3人でじゃ、ダメかな?」
「ダメッッ!!」
「二者択一だな――おっとすまない」
ヒイロはこめかみのあたりに手をやると、独り言をし始めた。おそらく誰かと通話しているのだろう。ヒイロのかけている黒いメガネが、ハイテク通信デバイスであることを、タヅナは知っていた。
「タヅナ、私から誘ったところすまない。外せない緊急ミーティングが入ってしまった。また今度一緒に食べに行こう。あとでまた連絡する」
「あっ、はい……」
タヅナが返事をするのも確認しないまま、ヒイロはカツカツとヒールを床に打ち鳴らし、その場から立ち去ってしまった。
ジュンに連れられて、無慈悲の塔3階レストランエリアにある回転寿司店へと、タヅナは入っていった。座ったのは対面の4人用テーブル席だ。
周りを見ると、テーブル席の多くは教官たちが座っていたが、制服姿の候補生たちも数人いる。
「ったくアイツ、絶対タヅナのこと狙ってるよぉ」
「そっ、そうかなぁ……」
「なに、まんざらでもないって顔してんの? お姉ちゃんにチクるよ? 『タヅナが女の子にちょっかい出されて調子乗ってる』って」
「そんなぁ」
タヅナが好物のいくらの皿を取ったタイミングで、ズボンの右ポケットに入れていた花フォンが振動した。[001]で始まる着信は、急いで取らないといけない。
「ゲッ! 教官からだ。もしもし――」
『芍薬タヅナ、あなたの清掃担当箇所に、まだ汚れが残っています。至急、再清掃なさい』
「あ、申し訳ございません、お義母様――あれっ? 切れちゃった?」
花フォンの画面を見ると、清掃箇所の地図が表示されていた。たしかにその場所は、今日のタヅナの担当箇所だった。
「どしたの?」
「うん、廊下をちゃんと清掃したはずなんだけど、まだ汚れが残ってたみたい……ちょっと行ってくるね!」
「アタシを1人にする気ー?」
「ごめーん。今度また一緒に来よう!」
ジュンの声に後ろ髪を引かれる想いで店を出ると、そこに待っていたのは花麒麟ヒイロだった。
「やぁ。どうやらママからは逃げられたようだね」
「えっ、どうしてここに花麒麟さんが?」
「君があの子に捕まっていたようだったから、連れ出してあげたのさ。このボイスチェンジャーを使ってね。『芍薬タヅナ、あなたの清掃担当箇所に――」
ヒイロが手に持っていたのは、『Mr.スカーレット』にも登場する、ピンマイクのような変声機デバイスだ。女性主人公のミリーはヒーローに変身したあと、これを用いてダンディーな男性の声に偽装していた。
「うわぁ、すごーい」
しかもタヅナの花フォンに表示されていた着信番号は、[001]で始まる教官ナンバーだった。きっとヒイロは、そんなことも偽装できるような裏技を知っているのだろう。
「それではこれから、この店の10倍の価格帯で提供する寿司屋に連れていってあげよう」
「なんか、すごい罪悪感が……」
生まれて初めて食べた1貫2000円もするという大トロの寿司は、2〜3回噛んだだけで、ネタの脂がシャリに旨みコーティングされながら、たちまち消えていった。
「んまーい!!」
「好きなネタを、好きなだけ頼んでいいからな」
「そんなぁ……いいんですかぁ??」
「君が美味しそうに食べているのを見ると、私も幸せな気持ちになる」
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