時給1万円のアルバイト〈後編〉

 タヅナが白いリムジンに乗せられ、問答無用の勢いで連れてこられた先は、入学式の日にも見かけた豪邸だった。


 その建物の印象は、中世ヨーロッパの貴族のお屋敷だ。夜間には外壁がライトアップされ、文化遺産であるかのような迫力を醸し出していた。

 お屋敷の前庭は手入れが行き届いており、テーマパークの玄関口にある庭園のようだと言っても褒めすぎではないだろう。


 車を降りたタヅナがヒイロの後ろについていくと、階段を数段上った先に、高さ3メートル以上はあるであろう立派な玄関扉が立ちはだかっていた。


「解錠」


 ヒイロの声に反応してガチャコンと音がする。自動扉が左右にスライドしながら開かれると、タヅナは強烈な光に包まれ、思わず瞼を閉じてしまった。

 ようやく室内の明るさに目が慣れると、そこに広がっていたのは豪華絢爛な内装だった。中は広すぎて、端から端までが視野に収まらない。どこからどこまでが玄関なのかがわからないほどだ。


 天井には仰々しいシャンデリアが3つ吊るされて輝いており、床には一面の大理石がその光を反射させていた。


「すっ……ごい」


 赤いフワフワの絨毯の敷かれた階段を登り、2階へと進む。

 いくつもの扉が廊下の左右に並んでいる中、ヒイロは迷わず扉を開いた。


「ここが私の部屋だ」


 そこには部屋と呼ぶには憚られるほどの空間が広がっていた。

 部屋というよりも、『世界的なインテリアデザイナーが膨大な予算を投じて完成させた、大人の秘密基地』と言われた方が腑に落ちる。


「これが私のコレクションの一部だ」


 ヒイロが向かって右の壁際にあった扉を開くと、そこには整然と並んだクリアケースの中に、おびただしい数のフィギュアや関連グッズが、本棚にはズラリと並んだアメコミ雑誌や単行本などが展示され、カラフルな壁紙かと見紛うばかりのポスターが、天井や壁面に隙間なく貼り巡らされていた。


「これ、全部『Mr.スカーレット』のグッズや本なんですか?」

「そうだ。このパワードスーツは、実際に撮影で使用されたもので、オークションで落札したんだ。一点モノだから当時50万ドルもしたよ」

「50万……ドル?」


 それからタヅナは2時間近く、これらのコレクションへの総解説――という体裁のマニアックな自慢話――の絨毯爆撃をくらうことになった。

 終盤30分間のタヅナは目眩すら覚え、全身をピクピクと痙攣させながら「すごいですね」と繰り返すだけの機械と化してしまっていた。


「はぁ、スッキリした。それでは一緒に映画を観るとしよう。ここに座ってくれ」


 タヅナは、主人の言いつけを守る犬のような従順さで、黒い革のソファーに腰を下ろした。

 ヒイロがリモコンを操作すると、部屋の照明が次第に消えて真っ暗になり、天井に設置されていたプロジェクターが白いスクリーンに映像プレーヤーのメニュー画面を投影した。


「よし、これにしよう! ジョアナ・ファブレガス監督の『Mr.スカーレット2 偽りの花嫁』」


 上映が始まると、スカイダイビング中の人物が聞くであろう、突風音が襲ってきた。

 前後左右だけでなく、上下にも高音質のスピーカーがあるようだ。まるで本当に自分が落ちているかのような錯覚を覚えて、思わずタヅナは身を硬くした。


 目の前では、雲の上でのヒーローの変身シーンが繰り広げられていた。主人公が手に持った赤い十字架が細かいパーツへと展開し、使用者の体に装着されていく。

 パワードスーツを身に纏った赤い天使は、白い雲の壁を突き抜けて、青い海の上を飛行した。


「すごい……メガネもしてないのに、立体的に見えます」

「我が社が特許出願中の空間投影技術だ」


 スクリーンからの反射光が、ヒイロの顔を青白く照らしている。

 音声は英語で、字幕の日本語が宙に浮かんでは消えていた。


「いっけぇぇ!!」


 ヒイロはアクションシーンになるたびに、立体的に浮かび上がるヒーローに向けて声援を送り続けた。タヅナはそんな無邪気な彼女の横顔を、目を細めて見守った。


「私は、このシーンが1番好きなんだ」


 物語の終盤に差し掛かったところで、ヒイロが呟いた。主人公のミリーが、ヒーローとCEOと姪を育てる叔母の三重生活に疲れ果て、パートナーのラクティに膝枕してもらっているところで目を覚ますシーンだ。

 ビジネススーツ姿のミリーに、ハイスクールの制服姿のラクティが優しく微笑みかける。


『(やっぱり、あなたがMr.スカーレットだったんですね)』

『(隠していてすまない。私は君に、迷惑をかけたくなかったんだ……)』


 ミリーは膝元に視線を落とした。


『(もう疲れた……ヒーローもCEOもベビーシッターも半人前だ。私には到底無理なミッションだったんだ……)』


 ミリーの目尻からひとすじの雫が流れ、ラクティの親指がそれを拭う。


『(頑張らなくていいんですよ)』


 ラクティの言葉に、ミリーが目を見開く。


『(あなたはもう3人分戦ったんだ。今は3人分休む権利があるはずです)』

 このラクティの台詞に、全世界の女性ファンたちが涙したという。


『(ヨシヨシして!)』

『(もちろん!)』


 この後、パートナーの愛撫によって気力を取り戻したミリーは、Mr.スカーレットに変身、破竹の勢いで敵の総本部を壊滅させた上、姪っ子の面倒を見ながら、自宅のラボで画期的なデバイスを発明するのだった。


「いいなぁ……私もヨシヨシされたいなぁ……」


 ミリーがラクティのヨシヨシに溺れるシーンを観ながら、タヅナは耳を疑った。

 私もヨシヨシされたいなぁ……?

 左耳に入ってきたそのセリフは、スピーカーからではなく、間違いなくヒイロの口から発されたものだった。


 意図して発言したわけではなかったのだろう。

 その言葉の意味と、タヅナからの視線に気付いたヒイロは、長風呂でのぼせてしまった人のように頬を赤くさせていた。


 ヒイロの目はスクリーンに釘付けとなって動かない。その口元は、抱えながら座っている膝の間に埋まっている。

 いつの間にかトレードマークの黒メガネは外され、彼女の右手の中に収まっていた。


 タヅナの脳裏ではピンク色のワードアートが舞っていた。

 もしかして花麒麟さん、僕にヨシヨシされたがってる? 

 いやいや、僕たちそんな関係じゃないし、思い上がりだよね。

 でも、だとしたら何だろう、この甘いような雰囲気は。


 いつしかヒイロの目はスクリーンを離れ、タヅナの方を向いていた。体も横向きになって、先ほどよりも距離が近くなっている。ヒイロの熱く湿った吐息が、タヅナの額を撫でた。


「タヅナ。1つお願いがあるんだが、聞いてくれないか?」


 ヒイロの瞳には涙の膜が張っており、投影された光を反射させて輝いていた。

 タヅナは鼓動を速めていく心音を聞きながら、ヒイロのお願いが何であるのかを半ば知りながら、それを聞いてみることにした。


「なっ……なんでしょうか?」


「あの……その……私の頭をな、ああいう風にヨシ――」

「失礼致します」


 ノックもせずに部屋へ入ってきたのは、ブロンド髪の女性だった。

 タヅナとヒイロは再び距離を置いてソファに座り直し、乱れた服装を整えた。


「何の用だ?」

「学校の教官や警備員、また一部の候補生らが、誘拐したタヅナさんを解放するよう抗議しにいらっしゃったのですが」

「なんだと?」


 ヒイロの先導で3人が部屋からバルコニーに出ると、無数の警備員が家の前に列を成していた。


『お前は完全に包囲されている! 無駄な抵抗は止めて、芍薬タヅナを引き渡せ!』


 拡声器特有のガサついた響きで、教官の声が聞こえてきた。まるで立て篭もり事件扱いだ。

 時刻は夜の10時を回っていた。たしかに寮の門限は2時間近く過ぎていたものの、それにしても派手なお出迎えだ。


「タヅナー! 生きてるー!? すぐ助けに行くからねー!!」


 精一杯の声で叫んでいるジュンを見て、タヅナは溜め息をついた。

 たぶん、ジュンがいなくなったタヅナのことを探し回り、なんやかんやでここにいることを突き止め、教官たちを引き連れて来たのかもしれない。


「もう……大袈裟だなぁ……」

「仕方ない。下へ降りよう」


 部屋を出て階段を下り、1階の玄関前にまでやってくると、ヒイロが下に敷かれていた泥落としマットを捲った。


「何してるんですか?」


 ヒイロが床に埋め込まれた数字キーに何桁かの暗証番号を入力すると、取っ手が上に飛び出し、ヒイロは足を踏ん張りながらハッチを開いた。

 底の見えない暗闇へと、ハシゴが斜め下に伸びている。


「この下は避難用のシェルターになっている。食糧や水は備蓄されているし、核攻撃にすら耐えられるぞ」

「社長、そんなところに“3人で”入って、どうするおつもりですか?」


「“2人で”やり残したことがある。心配するなマリア、明日の朝5時までには出てくるさ」


 タヅナは脚を震わせ、彼女の執念に恐れ慄いた。

 花麒麟さんは、朝まで僕なんかと何をするつもりなんだろう?


「それは承服致しかねます。まだ明日までに残った仕事もありますし、タヅナさんを監禁しているとも思われかねません」

「ペナルティ費用がかかるのなら私が負担する。これは可及的速やかに達成されるべきミッションなんだ」

「ですが――」

「あのっ……」


 小さじ一杯分の勇気を振り絞り、タヅナが2人の論争に割って入った。


「僕、帰らなくっちゃ……教官からも目をつけられちゃいそうですし……」


 ここで花麒麟さんに迷惑をかけちゃいけない。僕から引かないと、花麒麟さんは引き下がってはくれないだろう。

 そう思いながら「それじゃあ」と玄関へ向かおうとすると、決意のこもった左手が、タヅナの右手を追って捕まえてきた。


「30秒だけ待ってくれ。マリア、ノートPCとモバイルプリンターを」

「30秒だけですよ」


 マリアから差し出されたそれを奪うようにして受け取ると、ヒイロはその場に正座して、壊れてしまうのではないかというくらい猛烈なスピードでキーを叩き始めた。

 ブツブツと独り言を呟いているが、何を言っているのかまでは聞き取れない。

 20秒と経たないうちにその作業は完了し、プリンターから吐き出された3枚の書類が、タヅナの眼前に突き出された。


「タヅナ、私と戦略的パートナーにならないか?」

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