時給1万円のアルバイト〈前編〉

 すでに窓ガラスはピカピカを通り越して、テラテラに輝いていた。

 朝6時から、教科棟1階正面玄関の窓を磨き続けること約45分。

 芍薬タヅナはチラチラと後ろを振り返りながら、家事代行の完了報告を言い出すタイミングを見計らっていた。


 ノートパソコンのキータッチ音が背後から聞こえる。

 花麒麟ヒイロはいつものように黒いメガネをかけ、黒いスーツに黒いネクタイ、白いカッターシャツという服装で、パイプ椅子に座って足を組みながら、黙々と仕事を続けていた。


 ここへ来てからタヅナは、ヒイロと二言しか言葉を交わしていない。

「芍薬です。花麒麟さんの家事代行に来ました」

「終わったら声をかけてくれ」

「はい、承知しました」


 それだけ。

 掃除を終えて教官からのチェックをもらったあと、彼女の作業が一段落着くまで待っていたら、あろうことか30分近くも過ぎてしまうとは。


「もう窓拭き終わったんでしょ? 早く教室行こうよ」

「うん、でもまだやること残ってるんだ。僕は大丈夫だから、ジュンは先に行ってて」

「早くしてよね」


 清掃の途中でジュンがやってきても、やんわりと送り出した。

 無言、無表情、必要最小限の動きで、花麒麟さんは仕事を続けている。

 彼女の邪魔をしてはいけない。邪魔をしようものなら、ものすごい剣幕で睨まれるかもしれない。


 ヒイロの醸し出す重苦しい雰囲気に、タヅナは暑くもないのに額から汗が滲み出てくるのを感じていた。

 もしかして僕、何か怒らせるようなことでもしちゃったのかな?

 そうだったらどうしよう。花麒麟さんは、いったい何に怒っているんだろう?

 掃除の手際が悪かったことかな? それとも相手の目を見て話さなかったことかな?


 ――ピーンポーンパーンポーン――


 とうとう早朝家事訓練の終了時刻を告げるチャイムが鳴ってしまった。1時限目の授業の準備をするため、周りの候補生たちは作業を途中でも切り上げて、廊下を早歩きで駆けていく。


 それでもヒイロは、チャイムの音などまるで聞こえなかったかのように、パソコンのキーボードを打ち続けていた。

 さすがのタヅナも覚悟を決めて、ゴクリと唾を飲み込み、震える手足に力を込めた。


「あの……おっ、おお……お掃除、終わったん、終わりまんたっ」


 噛みながらもそう報告すると、彼女の指先が止まった。

 だが視線は相変わらず、パソコンの画面に釘付けになったままだ。

 やっぱり怒ってるのかもしれない。さすがに声をかけるのが遅すぎたのかな?


「そうか……ご苦労さま」

「そっ、それじゃあ僕、こっ、これで失礼しま――」

「待て!」

「はいっ!」


 ヒイロが開いたままのノートパソコンを右手に立ち上がり、タヅナのことを見下ろした。

 その身長差は15センチほど。

 黒メガネの奥に光る金剛力士像のような眼力に、タヅナの膝はワナワナと震えだした。


「なぜ君は入学式の日以降、私に連絡をしなかった? 私は『必ず連絡するように』と伝えたはずだ」


 不機嫌だった理由はそれだったのかと、タヅナは天を仰いだ。

 たしかにそんなことを言われたような記憶はあったが、単なる社交辞令だと思っていた。


「あっ、ごめんなさい。あのっ、お仕事がお忙しいのかなー、とか思っちゃって、いや、ほんと、いつか連絡しようと思ってたんですけど――」

「私は『いつでもいい』と言った。そして君は『はい』と答えた。これがその証拠だ」


 ノートパソコンがタヅナの方へ向けられ、ウインドウの中の動画が再生された。ヒイロから名刺を受け取った時のタヅナの顔が映っている。

 『いつでもいい』というのは連絡する期限ではなくて、連絡する時間帯のことだったらしい。


「会議中で電話をとれなかったとしても折り返せただろうし、花フォンでのメッセージも受信可能だった」

「ごめんなさい」

「今日の夕方にも家事依頼するから、そのつもりでいてくれ」


 ヒイロはそう言うとパイプ椅子を折り畳み、カツカツと靴音を鳴らしながら、廊下を歩いていってしまった。

 タヅナの花フォンがピロンと鳴って確認すると、それは家事委託によるポイント振り込み通知だった。

 見慣れない桁数に、一、十、百、千と指で数えてみると――


「1万ポイント!?」


 それは花麒麟ヒイロの名義で支払われていた。

 委託された段階では通常と同じく1000ポイントだったはずが、なぜかその額が大幅に増えている。


「タヅナ! まだこんなとこにいたの!? 授業始まっちゃうよ!!」


 タヅナが呆然と突っ立っていると、ジュンが廊下を駆けてきた。タヅナの分の教科書やノートを胸元に抱えながら、まるで我が事のように血相を変えている。


「あっ、あぁ……そうだった。ごめん、ごめん」

 タヅナはジュンに右手を引かれながら、早歩きで階段を下りてゆき、礼儀の授業が行われる教室へと向かった。


 その日の夕方6時、タヅナの携帯端末にヒイロからの2回目の家事委託の通知が表示された。ヒイロから任された作業は、乾いた洗濯物を回収係から受け取りながら、所定の手順で畳み続けることだった。


「雑談がしたいのなら、1分間だけ時間を割いてあげてもいい。何しろ私は仕事で忙しいからな」


 それはおそらく、『作業中に1分間の雑談をしてほしい』ということなんだろうなと、タヅナは解釈した。


 相変わらずヒイロは、膝の上に乗せたノートパソコンの画面を睨んでいる。

 タヅナは山と積もった割烹着を1枚ずつたたみながら、会話を切り出すタイミングを見逃すまいと、ヒイロの様子を盗み見ていた。


 そして作業開始から30分が経過しようとしていた頃、ようやくその瞬間が訪れた。

 ヒイロがキーボードを叩く手を止めて、両腕を上に挙げて大きくストレッチをするのが見えたのだ。


 話しかけるタイミングは今しかない。でも、何を話そう。

 眉間に皺を寄せて考えていると、姉であり、超ヒモ部特別顧問でもあった鐙からの助言が脳裏に浮かんだ。


 ――「いーい? タヅナ。会話っていうのはねぇ、自分が話したいことを話しちゃいけないの」

 ――「えっ、じゃあ何を話せばいいの?」

 ――「相手が話したがってることを話題に上げて、それを聞いてあげんのよ」


 そうだ、花麒麟さんの話したがっていることといえば――


「あの……そういえば花麒麟さんの髪型って、『Mr.スカーレット』のミリーに似てますよね」


 肩をビクッと震わせたヒイロは、初恋の人に巡り会った少女のように照れた顔で、視線を宙に泳がせた。


「あっ、ああ。彼女と同じスタイリストに切ってもらっているからな……」


 目元や口元を緩ませ、指先で襟足の毛先を弄んでいたヒイロの表情からは、喜びを隠しきれないという感情が読み取れた。


「すごく素敵だと思います。そういえば花麒麟さんのお顔も、映画版でミリー役を演じたイエサ・ライアンに似てますもんね!」


 ついにヒイロの顔は、熟れたトマトのように真っ赤になてしまった。


「そっ、そんなことはないぞ!! イエサさんには実際にお会いしたこともあるが、私なんて、とても……そう言う君の方こそ、ラクティとそっくりの髪型じゃないか!!」


「バレました?」

「バレバレだ!! 初めて君のことを目にした時から気付いていたぞ!」


「あはは。そうだったんですかー。そういえば今度、また新しい監督でスカーレットの映画が公開されますよね」

「アイザック・スナイデル監督のものだな。期待している」


 それからというもの、タヅナはヒイロの口からマシンガンのように放たれるマニアックなアメコミトークの弾丸を浴びることとなった。


「へぇー」

「なるほどー」

「すごーい」


 ヒイロとの会話は、コツさえ掴めば簡単だった。

 これら同意と理解と感嘆を表す3つの言葉を、その場の雰囲気に応じて、使い分けていくだけで勝手に進んでいくからだ。

 約50分ほどの独演会は、チャイムの音によって終幕した。


「はっ! もうこんな時間か! 君の家事作業を邪魔してしまった」

「あっ、もう全部終わってますよ」


 タヅナの前には、きちんと折り畳まれた割烹着が積まれていた。


「なんだと!? ああ、もう、まるで仕事が手に付かなかった……だから雑談は1分までと言ったのに!」

「すみません」


「いや、君が謝ることじゃない。この件の責任は私にある。久しぶりに気持ちよく趣味の話が出来て、ついつい話しすぎてしまった」

「僕で良ければ、いつでもお話を伺いますよ」


「本当か!? ならばまた君に家事を頼むとしよう。おっと秘書からの電話だ。これで失礼する」


 彼女はそう言い残し、カツカツと靴音を響かせて、その場を去っていった。

 そして、この日2度目となるポイント振り込みの通知音が鳴った。


 花麒麟ヒイロから初めて家事を委託されてからというもの、タヅナは朝・昼・夕と1日3回の家事委託を任されることとなった。

 それらは1回あたり1万ポイント。作業時間はピッタリ1時間。つまり時給1万円のアルバイトという計算になる。

 3日間の家事委託を受けたところで、タヅナはその高すぎる給与をもらうことが、あまりにも申し訳なくなってしまった。


 長くとも20分程度で終わってしまうような家事をして、あとは彼女の仕事の愚痴や、彼女の好きなアメコミの話を聞いているだけで、1日3万円も貰えてしまうのだ。

 世の中に、こんなに楽に稼げる仕事は無いかもしれない。

 そんなことを思いながら、パイプ椅子に座って喋り倒すヒイロの相手をしていると、昼の家事訓練終了を告げるチャイムが鳴った。


「もう終わりの時間か、あっという間だな。ところで廊下の雑巾掛けは終わったのか?」

「はい。教官にも終了確認済みです」

「そうか、私はまだ話し足りないくらいなんだが……」


 今日のヒイロは、すでに仕事を終わらせてきたということで、いつものようにノートパソコンを持ってきていなかった。


「あのぉ、ポイントの件なんですが――」

「少ないのか?」


「いえ、多すぎるんです。もう10万ポイント以上もいただいてしまって――」

「なら問題ないだろう? そのポイントは君に送ったものだ。好きに使うといい」


「でも、悪いですよ。たいしたことしてないのに、こんなにもらっちゃって――」

「君は私の愚痴や趣味の話を聴きながら、私の分の家事までこなしてくれているんだ。1時間10万円でも安いくらいさ。君の貴重な時間を買っているんだから」


「そうですか……」

「そうか……その手があったな……」

 途方に暮れてしまったタヅナの表情とは対照的に、晴れやかな笑顔をしたヒイロはポンと手をたたいた。


「君の時間を、私に売ってくれないか?」

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