花嫁デスマーチ〈後編〉
学内でのヒイロの奇行は、候補生たちの鬱憤晴らしのネタとして、これ以上のものは無かった。
まずヒイロは、[教官への絶対服従]という学校の基本原則に従わない。
たとえば早朝家事訓練にて、彼女が担当している寄宿舎の表玄関を掃除していたときのこと。
「ヒイロさん、まだガラスに埃が付いてますわよ」
「それがどうした?」
「玄関というものは建物のお顔、お見えになるお客様の第一印象を決める場所ですの。そこが汚れているとなれば――」
「汚れてなどいない。埃なんてすぐ付くだろ」
「その都度、その都度、拭くのです」
「馬鹿馬鹿しい」
ヒイロはそう言い放ち、教官の顔に向かって雑巾を投げつけたという。
候補生たちが自主退学する際も抜かりはなかった。
中央広場のムスカリの鐘の前に自社の人事部社員数名を引き連れて、退学・転校手続きを済ませてきたばかりの候補生たちの前で、高らかにこう唱ったらしい。
「諸君、退学おめでとう。今日は君たちの新たな船出の日だ。さぁ、我が社の会社説明会へと招待しよう」
ヒイロたちが困惑する元候補生たちを囲い込みながら、自社の大会議室まで誘導していったという話が、退学した候補生による生配信動画によって暴露されたと学内で広まっている。
そしてまた花麒麟ヒイロは、授業にもまともに出席していなかった。
視察、商談、国際会議で世界各地を飛び回りながら、その合間に学校へ立ち寄るのが彼女の基本スタイルだ。
授業は遠隔操作のドローンカメラによって録画し、移動中に視聴しているらしかった。
出席日数を稼ぐために、やむなく教室に突入してきたこともある。
窓ガラスが割れ、警報機のベルが鳴ったら、花麒麟ヒイロの登場だ。
背負ったパラシュートをほどきながら、ビジネススーツ姿のヒイロが真顔で周囲に問いかけた。
「どうした? 授業を続けてくれ」
いつもこんな調子だったため、候補生たちの多くは、彼女と一定の距離を置いて接していた。「あの人と関わるとロクなことにならない」と。
タヅナは、そんなヒイロの噂を思い返しながら、食堂でジュンとお茶を飲んでいた。
最近タヅナが気になっているのは、ヒイロと校舎内ですれ違うときに、決まって彼女が自分のことを睨みつけてくることだった。
ヒイロと出会ってからは彼女と何も接点の無かったタヅナには、何か悪いことをしたという心当たりすらなかったが、授業ではヒイロがすぐ後ろの席によく座ってくるような気もしていた。
その理由を本人に聞いてみたいが、わざわざこちらから聞くのも変な気がする。まだ入学式のときの一度しかヒイロと話したことがない。人見知り気味なタヅナにはハードルが高かった。
ヒイロの立ち姿を遠巻きに眺めながら、ジュンからの世間話を聞くともなしに聞いていると、近くで教官が候補生を叱責する声が聞こえてきた。
「終了報告を受けて見に来たら、まだ汚れているじゃない!」
「えっ……わたし、ちゃんと拭いたはずです――」
「罰として、校舎2階西側女子トイレの掃除を命じます」
「そんな……今からですか? これから授業があるんですけど」
[清掃科教科長
逆三角形の黒眼鏡に、オールバックでお団子にした黒髪は、スパルタな教育ママといった印象。その眼は些細なミスも見逃さず、その耳は微かな陰口も拾い上げる。
「あら? それだけでは足りなかったかしら?」
「わたし……でもちゃんと――」
「彼女の主張は正しい」
そばで見ていたヒイロがノートパソコンを片手に立ち上がったのを視界に捉え、清住教科長の眼鏡のレンズが光った。
入学式ジャック事件以来、その場で司会進行役を務めていた清住教科長は、反体制的な崩さない花麒麟ヒイロのことを絶えず警戒していた。
「なんですか、ヒイロさん? 今はあなたのことを――」
「これが今から1分45秒前に撮影された、そこの防犯カメラの映像だ。廊下を通りがかった候補生の一人が、該当箇所に液体物をかけている」
教科長は腕を組みながら、眼鏡をクイッと動かした。
「その映像が本物である証拠は?」
「これは警備室のサーバーをハッキングして取得したものだ。元データはそこにある」
教科長は勝利を確信したかのように微笑むと、右手を前に差し出し、ヒイロのノートパソコンを静かに閉じた。
「それは重大な犯罪行為ですね。正当な証拠として認められません」
「ならば私のことを罰すればいいだろう。ハッキング行為と、その女性の虚偽報告疑惑は別件だ。まずは彼女に対して、頭ごなしに叱責した自らの過失を謝罪するべきだと思うが?」
「なっ――」
「これは候補生たちの手本となるべき立場にいるあなたが、ミスを犯した際にどのような態度で応ずるべきなのか、彼らの前で示す教育的機会だ。『言い訳をして逃げるのか』、それとも『潔く自らの非を認め、謝罪するのか』」
喧騒の行く末を見守っていた人だかりの中には、候補生だけでなく、数人の教官らも混じっていた。
清住教科長は下唇を噛みしめながら周りを見回すと、観念したように頭を下げた。
「この度は
それは教科書に載っている写真通りの綺麗な最敬礼――45度のお辞儀だった。
「覚えておきなさいね、ヒイロさん」
教科長の鋭利な刃物のような視線に、周囲の候補生たちは戦慄した。
ところが――
「忘れるはずがないだろ! 私の記憶力を見くびるな!!」
まるで侮辱を受けたように眉間に皺を寄せたヒイロに、教科長の顔はみるみるうちに紅くなっていく。
「そういう意味ではありません! あぁ、もう、忌々しい!!」
早歩きで去っていく教科長を見送りながら、ヒイロはマリアに向かって首を傾げた。
「私は何か間違ったことを言ったか?」
「清住教科長の発言の意図は、社長への脅迫にあったのでしょう」
「なるほど……」
「あのっ、助けていただきっ、ありがとうございましたっ!」
先ほど教科長から怒られていた候補生が、腰を直角に折ったようなお辞儀を超えた姿勢で、ヒイロへの感謝の意を伝えた。
ところが――
「ああ、礼には及ばない。そうだマリア、ミュンヘンでの国際会議の件だが……」
瞳を潤ませていた候補生には目もくれず、ヒイロはその場を立ち去ってしまった。
この〈最敬礼事件〉をキッカケとして、候補生の有志たちの間で、花麒麟ヒイロの非公認ファンクラブ〈ヒイロさま親衛隊〉が結成されたという。
一方、学校内には花麒麟ヒイロを心の底から憎んでいる候補生たちもいた。
「アイツのせいでペナルティくらったし! マジムカつくんだけどぉ!」
「チョーシのってるよねぇ」
「どうせ校長が甘やかしてんでしょ? 自分の娘だからさぁ」
タヅナは清掃棟の屋上で洗濯物のベッドシーツを干しながら、少女たちが漏らしている愚痴を盗み聞きしていた。
風に揺れる白いシーツの薄壁が、かろうじて双方の仕切りとなっている。
「授業だって全然出てないらしーよ」
「はぁ? やっぱヒイキされてんじゃん」
「サイテー。早く退学しろよ!」
潰された空き缶が蹴飛ばされる音を聞き、これ以上その場に留まるのは危険だと察したタヅナは、空になった洗濯かごを持って立ち去ろうとした。
すると白い布の壁が捲られ、6つの大きな瞳が、慌てふためくタヅナの後ろ姿を捕らえた。
「うわっ、誰かいるっ!!」
タヅナは驚きと恐怖に硬直し、思わず足を止めてしまった。
格好の獲物を見つけた3人の少女たちは、背を丸くして縮こまるタヅナを取り囲むようにして見下ろした。
「あー、この子知ってるぅ。この学校唯一の男子だよー」
「ってゆうか、この学校に男子なんていたんだぁ……」
「あの、僕……何も聞いてませんから……」
花瓶を割ってしまったのがご主人さまに見つかったチワワのように、タヅナはカタカタと震えた。
すると、3人の少女のうちの真ん中の1人が中腰になり、タヅナの顎を指先で持ち上げて含み笑いをした。
「あっれぇ? どっかで見たことあると思ったら……ひさしぶりじゃーん! 元気にしてた? ターくん♪」
タヅナが恐る恐る目線を上げると、知らないようで知っているような顔があった。
濃いめのアイシャドーや付けまつげ、テカテカに塗られたファンデーションや真っ赤なリップなどのおかげで隠れていたが、その声色や面影には微かに見覚えがある。
そして『ターくん』という懐かしい呼び方がトリガーとなって、タヅナは昔仲良くしていた一人の女の子のことを思い出した。
「えっ……? もしかしてアゲハちゃん?」
「ピンポーン♪ なーんだ。あいかわらず、ちっこいんだねぇ」
タヅナの面前に鼻先をグイッと近付けてきたのは、桃アゲハ。
彼女の胸元に付けた名札を見たからその名を呼べたのではない。タヅナは再びアゲハの顔をまじまじと見て、郷愁と後悔が入り混じった複雑な想いが湧き起こってくるのを感じた。
――「アゲハのこと、うらぎったんだ!」
――「もうタヅナのことなんてしらないっ!」
脳裏に浮かび上がってきたのは、幼い頃の苦い思い出。怒りに染まった少女の泣き顔は、今でも鮮明に蘇る。
タヅナの陰鬱な気持ちを知ってか知らずか、思わせぶりな微笑を向けてきたアゲハは、タヅナに歩み寄ってきた。
「なーんか、聞き耳立ててたみたいだけどぉ……あの女にさっき言ってたこと告げ口なんかしたらぁ……」
発育の良い胸元を揺らしながら、タヅナの耳元に吐息がかかるくらいにまで顔が近付く。
「はっ……はい?」
まるで桃の果汁が滴っているような甘い匂いが、タヅナの鼻先まで漂ってきた。
「告げ口したらどうするつもりなんだ?」
「ヒッ!!」
思わぬ声に振り返ったアゲハの視線の先に、黒いスーツを着た長身の女性が立っていた。黒メガネや黒ネクタイもセットというお馴染みの格好だ。
「うっわ! なんでアンタがいんのよ!」
アゲハは、嫌いな虫でも見つけたかのような俊敏さで、後ろに飛び退いた。
「近くで3人の候補生が誰かをいじめているのを見かけてな。あいにくだが、この学校にはありとあらゆる場所に高性能の監視カメラが設置されている。あまり悪ふざけはしないことだ」
「チッ! ストーカー女がカッコつけやがって。行こっ!」
「ちょ、ちょっと!」「待ってよ、アゲハ!」
アゲハたち3人組が小走りで立ち去ると、ヒイロの整った顔がタヅナの方を向いた。
「助かりました。ありがとうございます」
タヅナが45度の最敬礼をして顔を上げると、ヒイロは両腕を組んで眉間に皺を寄せていた。その表情は石膏像のように冷たく、タヅナのことを見下ろしていた。
「明日の午前6時、君に家事を委託したい。やってくれるか?」
「えっ……? あっ、はい。それは大丈夫ですけど……。もし、他の人に受理されちゃったら――」
「心配ない。必ず君の端末に通知を送る。では午前6時以降の時間を空けておくように――」
そう言い終わらないうちにヒイロはタヅナに背を向けて、カツカツとヒールを打ち鳴らしながら、早歩きで物干し場をあとにした。
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