第二章 ヒイロシグナル
花嫁デスマーチ〈前編〉
朝の5時、ジリリリリリリという耳障りな金属音が館内に鳴り響くと、候補生たちは一斉に目を覚ました。
花麒麟花君専門高等学校の寄宿舎〈無慈悲の
彼女たちは起き上がる否や布団をたたみ、割烹着に着替え、運動靴を履いて部屋を出る。
10分もすると、誘導灯の照らす地下の廊下や階段は、何百名もの女子たちで埋め尽くされていった。
「おはようございます。お
教官や来客とすれ違う際には必ず一礼をする。廊下は走らず、早歩き。
候補生たちは〈花フォン〉と呼ばれる学内専用スマートフォンを見ながら、その日の家事担当箇所を把握する。
炊事なら食堂へ、洗濯なら洗濯場へ、掃除なら指定の場所へと移動する。
雑巾を片手に、窓に顔を近付け、狂ったように磨きまくる候補生たち。
清掃担当になった場所は一日中受け持つことになっており、指紋の1つでも付いていれば、教官からの指導が入る。
「甘い! やり直し!」
「承知いたしました、お義母様!」
「埃がまだ残ってるわねぇ……」
「申し訳ございません、お義母様!」
いたるところから、鼓膜を引っ掻いてくるような笛の音が聞こえてくる。
候補生たちは眠い目をこすりながら、馬鹿みたいに長い廊下を、馬鹿になって雑巾がけしていった。
「もう疲れちゃったのかしらぁ? あなた、本当に結婚したいのぉ?」
「はい! 結婚したいです、お義母様!」
「なら、ちゃんとなさい」
「承知いたしました、お義母様!」
現役の専業主婦でもある教官らは、息子の妻に接するのと同じように指導をしていく。
候補生たちが館内を駆けずり回る様子は、まるで軍隊の基礎演習のようだった。
何度も何度も鬼教官から注意を受けては、同じ動きを繰り返していく。
掃除、洗濯、炊事、授業、掃除、乾燥、炊事、授業、掃除、取込、炊事、掃除――授業のない土日や祝日にも、これらの家事訓練は繰り返される。
まさに
「もう、やってらんない! わたし、辞めます!!」
「そうですか。それでは、ごきげんよう」
候補生が根をあげようが、教官から優しく引き留められるようなことは、一切無い。
そのような対応もあってか、入学一週間を待たずして、すでに100名を超える自主退学者が出ていた。
彼女たちは事務局で転校もしくは退学の手続きを済ませたあと、教官の先導によって教科棟前にある花園広場へと集められる。
「この学校を去ることになった元候補生は、最後の儀礼として、〈ムスカリの鐘〉を4度揺らしなさい」
庭園中央にある鐘楼の屋根の下で逆さに咲き、吊るされていたのはムスカリの花を模した鐘。それは無数の小さな花々を葡萄のように実らせ、重たそうに頭をもたげていた。
その鐘が揺らされると、シャンシャンシャンシャンという涼やかな鐘の音が、マイクを介してリアルタイムの全館放送で流される。
早朝にも、授業中にも、候補生たちが宿舎で寝ている真夜中にも、その鐘の音は鳴り響く。
館内の自動消灯は夜10時。早い者は9時にはもう眠っている。
明日は自分が、それともあの子が。涼やかな鐘の音を聞き、心を締めつけられながら、布団を被る。だが、熟睡して心地良い朝を迎えられる日は、1日たりとも無かった。
『ンギャア! ンギャア! ンギャアーオ! ンギャアーオ!』
夜中には甲高い夜泣きヴォイスが、不特定回数、不特定時刻に再生される。
部屋の照明が自動点灯する中、候補生らは全長40センチほどの赤ちゃん人形を抱きかかえ、一定間隔でリピートされる音声が途絶えるまで、その人形型育児教育用デバイスを揺らし続けなければならなかった。
刑務所のように殺風景な2人部屋には、監視用の赤外線カメラが備え付けられているほか、人形にも振動センサーが付いており、義務を怠っている候補生は即特定されてしまう。
ベッドで眠ったままなら教官によって優しく起こされ、ただちにトイレ掃除送りとなる。
「おー、よしよし。おー、イイコイイコ」
朦朧とした意識の中、機械仕掛けの乳飲み子型ロボットをあやす候補生たち。
壁の向こう側からは、怒声と罵声と悲鳴と泣き声とが漏れ聞こえてくる。
――シャンシャンシャンシャン――
候補生たちは、その鐘の音を聞くたびに、自由への誘惑に駆られるのだ。
「もうこんなの耐えられない」「これが3年も続くとか」「もう辞めたいよぉ……」
溜め息を吐き、悲嘆に暮れる声を漏らし、寝不足で黒ずんだ目元をした候補生たちは、授業中に寝息を立てては肩をたたかれ、トイレ掃除へと送られていた。
だが、まるで生き地獄のような学校で、伸び伸びと暮らしている候補生たちがいた。
芍薬タヅナも、その中の1人だ。
「終わりました」
早朝の候補生用食堂の厨房に立ち、大量の根菜類を切り終えたあと、白い男子用割烹着を着たタヅナは右手を挙げて、近くにいた教官を呼んだ。
タヅナは教官のチェックを受けている間、ついつい周りの候補生の包丁さばきを、チラチラと目で追ってしまった。包丁の握り方、食材の押さえ方が不器用な候補生たちが多くて、ヒヤヒヤしてしまう。
「いいでしょう。いつも早いですね、タヅナさん」
「とんでもございません、お義母様」
そう言いながらタヅナは指定された姿勢で敬礼――腰を30度に曲げたお辞儀――をした。
「そういえば、あなたがこの学校最後の男子候補生なんですってねぇ」
「えっ、そうなんですか?」
「まったく、男は根性がないわねぇ――そこ! 手を止めない!」
教官が他の候補生の方へと呼ばれていくのを見送りながら、タヅナは厨房全体を見渡した。ここでは調理担当教官の指導の元、約300名ほどの候補生が働いていたが、たしかに割烹着を着ている男子は1人も見当たらない。
たしか男子候補生は30名ピッタリいたはずなのに、最近は校舎内や宿舎、授業や家事などで男子の姿をめっきり見かけないなぁとタヅナは思っていた。
「ねぇ、タヅナくん。次、わたしの手伝ってくれない?」
そう声をかけてきた女子候補生のまな板の上には、グチャグチャになったネギの残骸が乗っかっていた。
「いいですよ」
「ありがとう! それじゃあ、よろしく!」
この学校には〈家事委託制度〉というものがある。
これは手伝いを求める候補生と、手伝いをしたい候補生をマッチングするアプリで、1000ポイント(千円相当)を使用することで課題を任せることの出来るシステムだ。
タヅナに家事を委託してきた女の子は、ネギの千切りを発注してきた。切り口も汚いし、切り幅も均等じゃない。この学校に入って、初めて包丁を握るようになった人なのかもしれない。
候補生の平均調理時間は1時間前後だったが、タヅナにとっては10分少々の肩慣らしに過ぎなかった。店の仕込み作業と比べたら、こんなものはオママゴトだ。お爺ちゃんなら5分で済ませるだろう。
「はい、終わりました」
「うっわ、はっやー! タヅナくん、すっごーい! いつもありがとね!」
「どういたしまして」
毎度毎度、他の候補生たちは自分の料理の手際に驚いてくれた。お爺ちゃんには褒めてもらえないような技術でも、この場所でなら活かせる。タヅナは、自分にも取り柄があったように思えて嬉しかった。
昼の家事訓練では四方八方から手が伸びてきて、タヅナの割烹着が引っ張られる。
「こっちも手伝って!」「さすがタヅナくん!」「次はわたしのもー!」
「順番! 順番ね!」
訓練を早く終わらせれば、その分だけ長く休憩時間が取れたり、次の授業の準備が出来る。時間をフルに使ってしまう手際の悪い候補生らにとって、ポイントと引き換えにする価値は充分にあるのだ。
他ならぬタヅナも、獲得したポイントを有効活用している。
赤ちゃんロボットに花フォンを当てると、シャララララ〜ンと涼やかな音が鳴った。これで夜泣き機能を1日分だけオフに出来る。3000ポイントが必要になるものの、それでも利用する候補生は多かった。充分な睡眠時間を確保しないと、この過酷な学校生活は乗りきれない。
「これでよしっと」
「今日もゆっくり寝られるね」
タヅナとジュンは、毎夜ポイントを使用してその機能をオフにするだけでなく、壁伝いに響いてくる阿鼻叫喚を完全シャットダウンするために、購買で購入した耳栓を嵌めて、朝までグッスリと眠っていた。
掃除や洗濯も家でこなしてきたことの延長線だ。タヅナにとってこの学校は、自分のスキルを存分に活かせる学校だった。
この日もタヅナは予定時間ギリギリまで候補生たちの調理を手伝うと、ジュンと待ち合わせしていた場所へと向かった。
「お疲れー。今日は何人分?」
先に食堂の椅子に座っていたジュンから、タヅナはお茶の入った湯飲みを受け取った。
「お昼の委託は5人かな。ジュンは?」
「アタシは1人。でもポイントは凄いよ」
「えっ? 何ポイント?」
「5000ポイント! 今日の夕ご飯はお寿司だね!」
「うっそぉ! 僕なんて5人で5000ポイントなのにぃ」
「やっぱ依頼主がお金持ちだと羽振りがいいよねー」
「お金持ち?」
「今、タヅナの後ろにいる人」
ジュンが指を差した先に、人だかりができていた。
「あぁ、なるほど。いつも高額で発注してるよねぇ……」
食堂の窓側にあるテーブル席の一角を、無数の外国人たちが占拠し、ネイティブでも聞き取れないのではないかと思わせるほどの英語の弾丸が飛び交っていた。
その中央には、堂々とした態度で熱弁を振るっている黒いパンツスーツ姿の女性。
学校のお騒がせ候補生、花麒麟ヒイロが立っていた。
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