戦略転換点〈前編〉
昼休みの候補生食堂は、家事訓練を終えた数百名の候補生たちで賑わっており、その一角にはさらにまた人口密度の高い人だかりができていた。
数々の女子候補生たちがジュンの周りに集まり、あれこれと質問している。それは日常茶飯事の光景となっていた。
「ねぇ、ジユンちゃんはどんなコスメ使ってるのぉ?」
「ジユンちゃん! 昨日の配信見ましたよぉ。リアクションありがとー」
「うん、またコラボ配信しよーねー」
〈ジユン〉というのは、ジュンのライブネームだ。何人もの配信者が在籍している花君専高の中でも、彼女は突出して認知度が高い。
賑やかな候補生食堂で、今日もタヅナはジュンの左隣にいた。
「ねー、タヅナもそう思うよねー?」
「うん」
タヅナはジュンの左隣の席に座りながらも、誰とも会話をせずに黙々と食事し、ジュンから相槌を求められたときにだけ、うんうんと頷いている。
そんなタヅナが口にしていたのは、いつもと同じ日替わり定食だ。今日は中華系のメニュー構成で、麻婆茄子丼に、春雨サラダと鶏ガラ野菜スープが付いている。これが500ポイントで頼めるのだから、非常にコスパがいい。
タヅナは幼い頃から食べるのが遅くて、普通の人の倍も時間がかかってしまう。今日もゆっくり食事していたせいか、周りの少女たちが食べ終わっていたのに、まだタヅナはどんぶりの中に半分ほど残った麻婆茄子丼を、モグモグと頬張っていた。
ただ、食べるのが遅くなってしまったのは、食事中に、気がかりなことを考えていたせいでもある。
花麒麟さん、大丈夫かな……。
昨夜入院してからまだ何も連絡が来てない。几帳面な性格だから何かしら連絡が来るはずだと思ってたのに。
校長は「大丈夫だ」って言ってくれたけど、まだ寝込んでたりするのかな。まぁ、睡眠不足だったし、寝ててくれた方が安心なんだけど。
そんなことをぼんやりと考えていたときのことだ。タヅナのズボンの右ポケットに振動があった。
花フォンを取り出して画面を見てみたら、[【着信】花麒麟ヒイロ]と表示されていて、あまりのタイミングの良さにタヅナは思わずむせ返ってしまった。
慌てて水を飲み、口の中を空にすると、一つ深呼吸をしてその電話に出た。
「はい、もしもし」
『緊急の要件で、君に頼みたいことがあるんだ。至急、私のいるホテルまで来てくれないか?』
「はっ、はい? どっ、どちらに向かえばいいんですか?」
「ああ、ホテルと言ってもあれだ。慈悲の塔の最上階にある、在学生用の宿泊施設だよ。どうだ? 来れそうか? 10分ほどで済む要件なんだが……』
〈慈悲の塔〉といえば、宿舎である無慈悲の塔から教科棟を境に反対側にある塔のことだ。タヅナも何度かは入ったことがあるものの、いつもジュンと一緒に入るから一度も1人で行ったことがない。
でもさすがに、教科塔から西に一直線の場所にある高層階の建物だから、迷子になることはないだろう。問題は、塔に入ってからヒイロのいるホテルの――最上階にあると言われる――部屋に、無事に辿り着けるかどうかだった。
時刻はすでに昼の12時半。あと30分もすれば午後の授業が始まってしまう。でも一目でいいから、花麒麟さんの無事な姿を見て安心しておきたいという気持ちはある。最悪、間に合わなかったら5時限の教養の授業は欠席しよう。
「大丈夫ですよ」
『そうか、助かる。それでは食堂を出たところに迎えの車を出しておく。目的地はそちらの端末に送るから、音声ガイドに従ってここまで来てくれ、以上』
そこでブツッと通話が途切れた。
「タヅナどうしたの? 怖い顔して。誰からの電話?」
その声に顔を上げると、ジュンからの心配そうな視線に気が付いた。
ここで花麒麟さんに会うって言ったら、「行かないでいいよ」って言われちゃいそうだなぁ。
「う、うん。ちょっとね、教官から連絡がきちゃって……」
胸が針で刺されたように、チクンと痛んだ。やっぱり嘘はつくものじゃない。
「教官に、なんて言われたの?」
「だっ、だいじょぶだからっ! ジュンは先に授業行ってて!」
焦燥を悟られないうちにとトレーを持って席を立ち、返却口に食べ残しのトレーを置いて、タヅナは慌てて食堂を出ていった。
勘のいいジュンには僕の嘘がバレちゃったかもしれない。あとでリアリティのある理由を考えなきゃなぁ。
候補生食堂のある飲食棟西側の扉から出ると、真正面に慈悲の塔が天高くそびえ立っていた。無骨な造りの無慈悲の塔と比べて、慈悲の塔はロマネスクだかゴシックだかバロックだかよくわからないものの、とてもゴージャスなデザインだった。
ただ300メートルほど直線の道を歩けばいいので、迷子の達人であるタヅナでもさすがに迷えないような立地にある。
なのに、ご丁寧にも道沿いの左側に1台の白いリムジンが停まっていて、タヅナが通りかかると自動で後方右側のドアが開いた。乗れということだと察したタヅナは、無人の車内に乗り込み、しばらくすると車は発車した。
それにしても、緊急の要件ってなんだろう? 花麒麟さん、昨日倒れたばっかりなのに、今日もまた仕事してるのかな? それともホテルにいるのは療養するため? でもそれだったら病室にいたままでもよかったわけだし……。
車を降りて塔のエントランスに入っていくと、天井の高い広々とした空間があり、輝くシャンデリアに照らされた赤い絨毯が床一面に敷かれていた。
ロビーには数人の女子候補生たちがいた。テーブルを囲むようにして座り、お茶を飲んで談笑している。よっぽどお金持ちのお嬢様なのだろう。この塔には入るだけで入場料として1万ポイントを請求されるのだから、庶民が気軽に入れる場所じゃない。
それでもタヅナは何の迷いもなく、花フォンを入場ゲートのスキャナーにタッチしてその代金を支払い、ゲートバーを上げた。1万ポイントの出費が痛いと思えなくなっていたのは、ヒイロから援助してもらった約50万ポイントがあったおかげだ。
『上層階用エレベーターに乗り、50階のボタンを押してください』
花フォンを片手にエレベーターに乗り、1分ほど運ばれる間、ガラス越しに外の風景を眺める。視点が高くなっていくにつれて、この学校の全景がハッキリと見えてきた。
『エレベーターを出て、廊下を直進してください』
最上層のフロアに出ると、白い絨毯の敷かれた一直線に伸びる廊下があった。
左右の壁際には扉は無く、この階には1つの部屋しかないようだ。これなら迷いようがない。
廊下を突き当たりまで歩いて行くと、[Queen of the night]という文字盤が埋め込まれたアーチのかかった、庭のような場所に出くわした。
『目的地周辺です。前方にある玄関から入ってください』
左右を水路の流れる壁面の前に立っていると、その壁面が、渦を描きながら開いていった。
円形のトンネルになった黒い壁面に、可憐な白い花々がライトアップされている。
その優美な香りと幻想的な情景のトンネルをくぐって辿り着いた先は、まるで中世フランスの貴族が住むお屋敷だった。豪奢な家具や調度品が所狭しと並んでおり、その一つ一つが重要文化財であるかのような存在感を放っていた。
タヅナは神々しい宗教画の描かれている天井を見上げた。学校の教室の3階分くらいはありそうな高さだ。その天井からは、いくつもの巨大なシャンデリアが吊されている。
その内部はホテルの一室とは到底思えないような広さの大広間となっており、螺旋階段の連なる2階の部屋まで設えられている。あまりに広すぎる空間に、タヅナは見回すだけでクラクラと目眩を覚えた。
「わざわざこちらまで出向かせてしまってすまない」
大広間の中央に縦長のテーブルが置かれており、その一番奥の席にヒイロは座っていた。
「いえいえ、そんな……」
そこへどこからともなく制服姿の女性コンシェルジュが現れると、銀のワゴンカートで運んできたティーセットを、ヒイロの前に置いた。届けられたのは紅茶の入ってそうなポットと、スコーンやマカロンなどのお菓子を乗せた――まるで鳥籠のような3段のデザートトレーだった。
「君にも心配をかけてしまったかもしれない。申し訳ない」
「ぼっ、僕も、花麒麟さんに無理をさせてしまってごめんなさい。無理にでも中止すれば良かったなって、反省してます」
「なに、私が望んだことだ。君に非はないよ。まったく、あのクソオヤジに睡眠薬を盛られてな。おかげで5時間以上も寝る羽目になったんだ。1秒でも時間が惜しいというのに」
ヒイロは左手で紅茶を飲みながら、右手でノートパソコンを操作していた。
「お父様はきっと、ヒイロさんのお体をご心配なさってるんですよ。全然寝てないのがバレちゃってましたし」
「寝てないと言っても徹夜じゃない。毎日1時間半は寝てるぞ?」
「それは少なすぎますって! 少なくとも6時間くらいは寝ないと――」
「私はそこまで睡眠に時間を割けない。それに、そもそもどうやったら6時間も寝られるんだ? 普通、途中で目が覚めるだろ」
「交感神経が高ぶってるから、中途覚醒してしまうんじゃないでしょうか。お仕事でストレスが溜まってたりしませんか?」
美人科の美容科目で、そんなことを習った。この学校にいると、健康の知識まで自然と身に付いてしまう。
「『ストレスはストレスだと思うからストレスになる』のだと最近の研究では――」
「ほら、やっぱりヒイロさんは無理してるじゃないですか。きっと普段から体や心を酷使してしまってるせいで、無理してることに気付けなくなってしまってるんですよ」
今日は引き下がらないぞ、と。タヅナはテーブルの下で手を丸く握った。
花麒麟さんが日頃、どれだけ不摂生な生活をしてきたのかを、きちんと伝えないと。
タヅナの意外な食い下がりように、ヒイロは少し戸惑うような顔を見せていた。
「最近はトラブルがあまりにも多すぎて、負のサイクルに嵌まってしまっているという自覚がある。寝ても覚めても悩み事が尽きないし、悩んでいる間に別のトラブルが発生する。もうキリが無いんだ、本当に」
「お仕事、大変なんですね……」
「私は人よりもストレスには強い方だと思っていた。でも今は、仕事や学業の何もかもを放り投げて、南の島でのんびり暮らしたいくらいだよ」
「だったら――」
「だが、そういうわけにもいかない。私の下で、今も懸命に働いている社員やスタッフを、裏切るわけにはいかないんだ。だから――」
何を思ったのかヒイロは椅子から立ち上がると、タヅナの左隣まで歩いてきて、タヅナの肩に手をやった。
「私に溜まっているストレスを排出するために、君に手伝ってほしいことがある」
「ストレス……解消ですか?」
「ああ。だから……そのぉ……アレだ。君にこの承諾書を読んで、内容を理解し同意した上で、サインしてもらいたい」
ヒイロがテーブルに置いたのは、十枚ほどの紙の束だった。その紙にはびっしりと小さな文字で、ぎっしりと何かの文言が書かれているようだった。
でも、契約の名称だけはタヅナにも読みやすいように、少し大きめに書かれていた。
「[YOSHIYOSHI契約]?」
「友愛的往復刺激方式、イライラ抑制及びストレス排出を目的とした慰撫契約。略称、
「なんですか、それは?」
「簡潔に言うと、私の頭を君に撫でてほしいんだ」
そう言い切ったヒイロの瞳は、何の曇りもなく澄みきっていた。
やっぱり……そのヨシヨシなんですね……。
「花麒麟さんの頭を……ヨシヨシすればいいんですね?」
「さすがだ。話が早くて助かる。それでは契約書をよく読んで、同意してもらえるならここにサインを」
契約書に書かれていた小難しい文言の羅列を、正確に読み解く自信も知識も気力もなかったタヅナは、ヒイロのことを信用してサインをすることにした。
ヒイロはその間、ソファへと移動し、足を組んでタヅナがやってくるのを待っていた。
「念のため、音声でも同意の確認を録っておこう。次にする私の質問に対して、『はい。僕は花麒麟さんをヨシヨシしたいです』と答えてほしい。カメラはこのメガネの中央だ。それでは録画を開始する。『タヅナは、私のことをヨシヨシしたいのか?』」
「はい。僕は花麒麟さんをヨシヨシしたいです」
ポーンという録画終了の音が鳴った。
「両者の合意は成立だな。これから一定の条件下で行われるお互いの接触行為は、セクシャルハラスメントなどではない。タヅナ、そこのソファに座って、両脚を開いてくれ」
ヒイロが指を差した先に、テレビモニターと向かい合わせるようにして置かれた2人用の青いソファがあった。
「こんな感じですか?」
タヅナはそのソファに座ると、ヒイロから言われた通りに股の間を左右に開いた。
何をしてくるのかと思ったら、その股の間にヒイロがすっぽりと収まるようにして、その身を屈めてきたではないか。
タヅナの両膝の上にヒイロの両腕が置かれ、ヒイロがタヅナを見上げる形になった。いつもは15センチも上から見下ろされていたヒイロが、30センチ以上も下から見上げてくる光景は、あまりにも見慣れなさすぎてドギマギしてしまう。
「ただ頭を撫でてもらうだけでは、今の飽和状態にまで溜まってしまった私のストレスを、完全に排出することは叶わないだろう。だから最も効果的にストレスを排出できると思われる方法を選定した。それがこれだ――」
ヒイロのリモコン操作で、向かいのテレビ画面に『Mr.スカーレット』の映像が流れた。
映像でも男性が部屋のソファの上に座り、彼の股の間に挟まるような形で女性が膝立ちになり、彼と向かい合っていた。
2人は見つめ合い、お互いの気持ちを感じ取り合っていた。
[大丈夫? ミリーはとっても疲れてるように見えるよ]
[ラクティ もう私は限界かもしれない 今すぐあなたの手に癒されたいの]
ヒイロはスマートグラスを外すと、それをソファの左隣にあった棚の上に置いた。
画面内の女性と同じように、タヅナの股の間に挟まるようにして膝立ちになったヒイロは、タヅナのお腹に抱きついて深呼吸をすると、顔を上げた。
「タヅナァ、ヨシヨシして?」
3歳児がお菓子をねだるときのような甘ったるい声で、上目遣いになったヒイロがそう言った。
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