カリスマ社長だってヨシヨシされたい〈後編〉

 ヒイロは黒メガネを外し、シャツの胸元に挟んだ。


 そして黒い革靴を脱いで放り投げると、ベージュのシートに横向きに寝転がり、タヅナの太ももの上にストンと小さな頭を落っことしてきた。


 こめかみの髪が流れ、隠れていた愛らしい左耳が露わになる。

 タヅナは右手を伸ばし、彼女の期待に応えてあげることにした。


「ヨシヨシ」


 彼女の左の側頭部から後頭部にかけて、そっと優しく撫でてみる。

 ヒイロは、水をかけられた犬のようにブルブルブルブルッと全身を震わせると、気持ち良さそうに溜め息をついた。


「ふぁ〜、抜けるぅ〜」


 ロングパンツを履いた左脚が、パタンパタンと上下する。

 タヅナは、ヒイロの口から漏れ出る温かく湿った吐息と、メロンほどの頭の重みを、ズボン越しに感じていた。


 4日前、とある事件が起こり、初めてヒイロのことをヨシヨシしてからというもの、ヒイロはすっかりタヅナのヨシヨシの虜となってしまった。


 昼休みになるとタヅナはヒイロから電話で呼び出され、誰もいない教室やら、リムジンの車内やらで、彼女の頭を愛撫させられている。


 仕事をしているときでもなく、筋トレをしているときでもなく、大好きなアメコミヒーロー映画を観ているときでもなく、タヅナから頭を撫でられているときが、ヒイロにとって1日で最も幸福な時間であるという。


「ヨシヨシ、今日もお仕事お疲れ様」

「あ〜ん、抜けてくぅ〜。抜けてっちゃうぅ〜」


 『抜ける』という言葉は、ヒイロがヨシヨシに満足しているときに使う表現だ。溜まりに溜まったストレス、対人関係の嫌な記憶、肉体的な疲労感などが抜けていくらしい。


 タヅナは、ヒイロの口から漏れる甘美な溜め息に思わず頬を赤らめながら、それでも丹念に、その天才的な脳味噌の詰まった頭を撫でていった。


「もぅヤダァ〜。仕事したくなぁ〜い。納期に間に合わなぁ〜い」

「ヨシヨシ、大丈夫だよー。なんとかなるよー」


 甘えてくるときのヒイロは、ご機嫌な赤ちゃんのように愛くるしい。

 全身の緊張が解けて、顔が緩みっぱなし。まるで湯上がりのように顔が火照っている。


 普段のヒイロは、見る者を威圧するような鋭い視線を放っていたから、一緒に仕事をしている部下や学校の同級生などは、彼女とすれ違うだけで身をこわばらせていた。彼らがこのデレデレ幼女モードのヒイロを見たら、そのギャップからさらに鳥肌を立ててしまうことだろう。


「誰もわたしのこと助けてくれなぁ〜い。わたしにばっかり頼らないでぇ〜」

「そうだねー。ヒイロはみんなに頼られてばっかりだねー、ヨシヨシ」


「わたしはみんなに成長してほしいの!」


 不満を訴えるために膨らませている口元が可愛い。恥ずかしがっているのか、それとも興奮しているのか、両頬が紅潮している。


 こんな甘えん坊の顔を見せられたら、母性本能――いや、父性本能をくすぐられたタヅナは、どんなわがままを言われたって聞いてしまう。

 はたしてヒイロが計算して甘えん坊キャラを演じているのか、それとも天然で振る舞っているのか、タヅナにはよくわからなかった。


「みんなに期待してるんだね」

「なんでわかってくれないの? なんで伝わらないの? なんで、辞めちゃうの?」


 ヒイロは嗚咽しながら、目元に手をやった。

 ズボンの生地に熱い水滴が染みていくのを感じたタヅナは、ポケットから水玉模様のハンカチを取り出すと、彼女のアイメイクが崩れないように注意しながら、それらの水分をポンポンと拭い取った。


 しばらく無言の時間が流れたあと、ヒイロは右手の親指を口元まで運び、無意識のうちにおしゃぶりを始めた。もはや今のヒイロは甘えん坊を超えて、赤ん坊だ。プライドの欠片も感じられない。


 タヅナはヒイロのおしゃぶり行為を一切咎めることなく、しばらく彼女のしたいようにさせておくことにした。

 仕事場では誰にも甘えられず、候補生たちの前では弱いところを見せることが出来ない彼女のことを想いながら、ただただその頭を優しく撫で続けた。


 するとヒイロは、鼻水をすすらせながら言った。

「わたし、みんなに期待しすぎちゃってるのかなぁ?」


「ヒイロはどう思う?」

「うーん。期待、しすぎちゃってるのかも。誰もがわたしみたいに頑張れるわけじゃないのに」


「ヒイロは頑張り屋さんだもんね。えらい、えらい。イイコ、イイコ」


 ヨシヨシは愛情の意思表示。イイコイイコは賞賛の意思表示。一応、状況に応じて使い分けている。


「えへへ……」


 濃い緑色のズボンの腿のあたりに顔が擦り付けられ、涙やメイクがベットリと染み付いて黒ずんだ。こうなることは予想されており、この車のシートの収納スペースには、クリーニングにかけた男子候補生用の制服一式が常備されていた。


「だけど、ヒイロは頑張りすぎちゃうところがあるから気を付けないとね」

「気を付けてるよぉ! 今日はぁ、ちゃぁぁんとご飯食べたしぃ、昨日はぁ、ちゃぁぁんと寝たしっ!」


「何時間?」

「さんじかーん!」


 まるで自分の年齢を聞かれた幼児のように3本の指が突き出され、タヅナは困った顔のまま照れてしまった。

 うわぁ……かわいい。こんなのズルいって。


「ダメだよ、もっと寝なくっちゃ」

「えぇっとぉ……それじゃあ今日はぁ、ろくじかーん!」


 3ピースが両手に咲いた。


「そうだねー。また倒れちゃうもんねー」


 しかし、そんな微睡みを誘うような甘い時間も終わりを迎えることとなった。

 ビビビビッ、ビビビビッ――という無機質なアラーム音が、二人きりの空間に割って入ってきたのだ。午後の授業開始10分前を告げるチャイムの音だ。


 ヒイロはタヅナの太ももから頭を上げ、体をむくりと起こすと、胸元に差していた黒メガネをかけた。

 黒いフレームの中央部に青い線が発光している。それは通話モードのサインだった。


「……わかった、すぐに戻る」


 すでにその声は、先ほどの甘ったるい幼女の声から、クールな大人の女性のチャンネルへと切り替わっていた。


 ヒイロは溜め息をつきながらシャツのボタンを締め、ネクタイを結び直し、慣れた手つきで軽くメイクを直すと、コンパクトケースをジャケットの内ポケットへとしまった。


「はい、制服」

「ありがとうございます」


 もうすでに慣れたもので、ヒイロが身だしなみを整えている間に、タヅナはズボンを脱ぎ、ヒイロから受け取ったものへと履き替え、汚れた方をランドリーバッグの中に入れた。


「さて、そろそろ戻るとしよう」

「はい……」


 タヅナがヒイロの横顔を窺うと、まるで遠距離交際の恋人が別れる時のような暗い表情を浮かべ、目線を落としていた。


「また……ヨシヨシしてくれるか?」


 うつむいたヒイロから漏れ出た声は、微かに震えていた。

 彼女への愛おしさに、タヅナは心臓を弓矢で射抜かれたような痛みを感じた。


「もちろんです。辛くなったときは、いつでも呼んでくださいね」

「……感謝する」


 車が停止したのは来たときと同じく、校舎北口のバスロータリーだ。


「失礼します」


 タヅナはヒイロにお辞儀をして車を降り、自動でドアが閉まるのを見届けると、校舎の方へと歩いていった。


 今日の花麒麟さんの具合は、まだ良い方だった。倒れて病院に運ばれた日なんて、もっと死にそうな顔してたもんね。

 もしかして、僕の助言を聞いて、少しは体調管理に気を付けてくれているのかなぁ? でもまだ無理をしているようにも見えるし、安心は出来ないよね。

 タヅナがそんな物思いに耽りながら、校舎北口玄関のドアを開けようと手を伸ばした――その時である。


 ダンッという衝突音とともに、前方の視界が何者かの腕によって遮られた。視野の左側をかすめるように突き出されていたのは黒いスーツの袖口、背後からは殺意に似た覇気が放たれている。


「芍薬タヅナ……」


 両肩を彼女に掴まれたタヅナは、クルリと前に向けられた。

 目の前には、怒髪天を衝いた金剛力士像のような顔があった。

 そしてタヅナの左耳のそばに彼女の右腕が突き出されると、15センチ上からヒイロの顔がズイッと寄ってきた。


「私と密会している時の行為を周囲の人間に吹聴、あるいは無断で撮影した動画をウェブ上で拡散した場合、事前に交わした契約の守秘義務条項に違反したとして、君に多大なる損害賠償請求を行うことになる。馬鹿な真似は考えないことだな」


 その口上は聞き取れないくらいに早口で、ナイフを持った強盗犯が人質を脅しつけるように低く、迫力のある声だった……のだが、それとは裏腹に、ヒイロの両頬は完熟したリンゴのように真っ赤に染まり、ドングリを頬張ったリスのように膨らんでいた。


「はっ……はい。肝に銘じておきます」


 そう答えると校舎のドアが開けられ、襟首を掴まれたタヅナはポイッと建物内へと放り込まれた。

 そして一目散に駆けていった彼女を乗せた白いリムジンはフルスロットルで急加速し、たちまちどこかへと走り去ってしまった。


「あはは……」


 一筋縄ではいかない彼女のことを思い、タヅナは苦笑した。

 あの態度は、彼女なりの恥ずかしがり方なのかもしれない。


 ヒイロと出会ってから約3ヶ月間半、タヅナは彼女の言動や行動に振り回されっぱなしだった。

 仕事が忙しいからと、日々の家事を委託してきたり。

 授業を一緒にズル休みして、映画を観に行ったり。

 「料理を教えてくれ」と言われ、夜な夜な自主的な補習授業をしたり。


 ヒイロのことが好きなのか、嫌いなのかもわからない。それでもタヅナは、ヒイロのことを放ってはおけなかった。


 超人的な努力家で、自分にも他人に対しても厳しく、それゆえに人並み以上の甘えん坊な一面を押し殺している――そんなヒイロのことを、タヅナは放っておけなかったのだ。


「そういえば、初めて会ったときも無茶苦茶だったなぁ……」


 タヅナとヒイロの出会いは桜の花びらが風に舞っていた4月1日、この学校の入学式の日まで遡る。

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