魔王の激励〈前編〉
洗面台の鏡の前に立つと、
500円玉くらいの量の化粧水を手のひらにとり、両手に馴染ませ、それらを顔に塗りたくる。続いて乳液を手に数滴落として、また顔に薄く薄く伸ばしていく。
仕上げに化粧下地を塗り重ね、リップクリームを唇に塗ると、肌の工程は完了。
最後にして最大の難関は、両まぶたの拡張工事だった。
細い目の上に覆い被さっている分厚いまぶたの外線に、薄いピンク色のアイプチ液をなぞって付けていき、温かいドライヤーで数秒間それらを乾かしたあと、まぶたを綿棒で持ち上げ、折り目を付ける。
目の上にごわつきを感じながら、3回まばたきすると、すかさず鏡を凝視して今日の完成度を確認。
対面には、パッチリ二重とは言えないまでも、かろうじて奥二重と言っても良さそうなレベルの、眠たそうなジト目が映っていた。
「うーん、イマイチ……」
「朝メシ出来たぞぉ〜」
すぐ隣の厨房から、低くて渋みのある
先ほどから洗面台には、ヨダレが出てきそうになるほどの和風出汁の香りが漂ってきていた。
「はーい、いま行く〜」
どうやら2回目をやり直す時間はなさそうだ。今日は初登校の準備だってしなくちゃいけない。
手綱は化粧品類やドライヤーを引き出しにしまって厨房へと向かおうとしたのだが、そのとき、足首のあたりに激痛を感じて思わず飛び上がってしまった。
「うぎゃあ!!」
下を見ると、黒いチワワが低い唸り声を上げながら、右足首に噛み付いている。ダメージ的には甘噛みだったが、見た目的にはガチ噛みされている感じ。
「マオウ様、ただいまお食事をお持ちしますますので」
棚の上に用意しておいたウェットタイプのドッグフードを入れた皿を床に置くと、彼は小型犬に似合わない、もっさりとした仕草でエサを食べ始めた。その名が表す通りの風格を漂わせている、鐙の使い魔だ。
「おーい、早く運べよー」
「あっ、ごめーん」
急かす声を発したのは、藍色の作務衣に身を包んだ、刈り上げ頭の初老の男性。身長こそタヅナと並ぶ小ささだったが、口周りに短く整えられた白髭や、70代とは思えない鷹のように鋭い眼光、眉間や額に深く刻まれた皺が、頑固な職人気質を物語っている。
厨房に立っていた厩おじいちゃんは、お椀にお味噌汁をよそっていた。それはいつも、手綱に任せている仕事だった。
手綱はクンクンとお味噌汁の香りを嗅ぎ、普段とは違うことに気が付いた。もしかしたら今日は、最高級の合わせ出汁を使っているのかもしれない。
その最高級合わせ出汁の正体とは、惜しげもなく使用した利尻の昆布、焼津の鰹節、国産松茸である。それらに合わせる味噌も赤味噌、白味噌、黒味噌を、出汁の存在感を失わないような絶妙なバランスで配合したものを使っている。
店のメニューには載せず、古くからの常連さんや、家族にとって特別な日にだけ振る舞ってくれる、厩特製の最高級お味噌汁だ。素材原価は、1人前当たり約1500円なり。
そんな豪勢なお味噌汁と白いご飯、それから出汁巻き卵と焼き鮭、ほうれん草のお浸しの載せたおぼんを両手に持ち、手綱は食堂のテーブルまで運んでいった。
開店前は食卓として使っている、店の四角い四人用テーブルの上に、4人前の和風朝食セットを並べていく。
すると、ガラガラガラと音を立て、店の正面玄関が開いた。
「おっ、いいにおーい」
上下に緑色のジャージを着ていたのは、日課のランニングから帰ってきたばかりの
背は手綱よりも10センチほど高く、ツタのように生い茂るボブカットのウェーブパーマと、ハツラツとした笑顔が印象的。そしてまた彼女は、手綱の義理の姉でもあった。
純が起きてきたことで、手綱はもう1人の姉のことを思い出した。
「
「まだ上で寝てるよ。んー! この出汁巻き、んまーい」
「『黙って出てったら死刑』って言われてるんだけど」
「じゃ、殺される前に出てくしかないね」
「いや、それは――」
「いただきます」
「いっただっきまーす!」
厩が席に着いて箸を取ると、対面の手綱も純の左隣の席に座り、「いただきます」と手を合わせてからお味噌汁を一口飲むと――
『はぁ〜』
溜め息に乗せたかのような気の抜けた声で、2人はハモった。
手綱の鼻腔をフンワリと抜けていったのは、品のある出汁の香り。それから後追いで、豊潤な合わせ味噌が舌先を撫でていく。
帝王ホテルで総料理長を務めていた厩のファンは多かったが、彼らが揃って最高の料理だと褒め称えているのが、この一品だ。
町の小さな食堂で裏メニューとして出されているこの最高級お味噌汁を紹介したいと、テレビ局から問い合わせを受けたり、噂を聞きつけてお忍びでやって来る有名人さえもいる。
その至高のお味噌汁を作った当の本人は、箸を握ったまま、深く溜め息をついていた。
「今日からロクでもねぇ学校に入んだな」
「まーた、その話ぃ? 手綱はお金持ちのお姉さんと結婚して、お婿さんになるんだもんねー?」
「えっと――」
「女のヒモになんのか?」
「僕は――」
「自分のお店を出せば、好きなように料理できるもんねー?」
「若けぇうちから楽しようってのは感心しねぇなぁ。オレは手綱ぐれぇの歳頃から丁稚奉公で修行して――」
「あーっと、もう7時だ! 手綱、早く着替えないと!」
「ちょっと――」
食べかけの料理もそのままに、手綱は純の手に引かれながら、一階の和室へと連れていかれた。
すでに畳の上には、白と深緑に彩られた学生服が、ビニール袋から出されたばかりの状態で置かれている。
「はーい、ばんざーい」
「もぉ、自分で着替えられるってばぁ」
「はいはい、わかったわかった」
手綱はいつものようにパジャマを脱がされ、まるで着せ替え人形遊びをするかのようにクルクルと体が回された。
白いシャツに袖を通し、緑色のズボンを履き、サスペンダーを両肩に回し、同じく緑の蝶ネクタイが首元に付けられる。
最後にジャケットを羽織り、立てかけてあった全身鏡を見ると、そこには1人の高校生の姿が映っていた。
「……大きくなったね」
感慨深そうな目つきで眺める純の顔は、さながら我が子の成長に寂しさを覚える母親のようだ。
「純もね。あれっ? 着替えないの?」
「ジャジャーン!」
そう言いながら、純は上下のジャージを脱ぎ捨てた。
女子の制服も、太陽をいっぱいに浴びた葉っぱのような濃い緑がメインカラーだ。腰から下をコルセットスカートが覆い、重厚な生地で仕立てられたジャケットに、襟元には大きなリボンが飾られている。まるでそれは、メイドと軍人とアイドルが合議で完成させたかのような、異様なデザインの制服だった。
「どう? 似合ってる?」
口元に指先をやってウインクする純に、しばし手綱は見蕩れてしまった。
パッチリ二重瞼に、小さな唇、丸い輪郭の小顔。さすがは3万フォロワーを抱えるリンスタグラマーなだけあって、右手を腰に当てたポーズもモデルのように様になっている。
「うん、かわいいよ」
「もうっ、かわいいのはタヅナの方でしょー!」
「うわぁ、やめてよー」
「かわいい、かわいい。タヅナかわいいよ、タヅナ」
手綱は頭を撫でられ、純の胸元に抱きしめられた。
かわいいって言ってくれることは嬉しいけど、あまりにも身内びいきなコメントだ。
僕だって純みたいにかわいくなりたいよ。
「はっ、こんなことしてる場合じゃなかった。鐙お姉ちゃんが起きてきちゃう!」
純による撫で撫で攻撃が中断し、手綱は両脇を抱えられるようにして立たせられた。
「荷物は全部送ったから大丈夫、鞄も靴も玄関に出してあるし――」
「お母さんとお婆ちゃんに挨拶しないと」
「そうだね」
和室にある洋服タンスの上に、電子レンジサイズのミニ仏壇が置かれている。仏壇には二つの写真立てが飾られており、2人の女性――紺のスーツを着た母・
手綱と純はお焼香を上げて
お母さん、お婆ちゃん、今日から僕は高校生になります。
学校の寮に入るので、しばらくここには帰ってこれません。
どうか僕ら4人のことを、天国から見守っていてください。
それじゃあ、行ってきます。
目を開けて隣を見ると、純が心配そうな顔で見守ってくれていた。
「オッケー?」
「うん。でも、本当にお姉ちゃんに何も言ってかないの?」
「大丈夫、今ならまだ寝てるから! 荷物はもう送ってあるし、あとは鞄持って、靴履いて……」
タンスに立てかけていた焦げ茶色の手さげ鞄を持って玄関へ向かうと、腕組みをした厩が立っていた。黒光りした男女の革靴が揃えられている。もしかしたら昨晩のうちに、磨いておいてくれたのかもしれない。
「休みの日には帰ってこいよ」
「うん……ありがと」
目尻から涙がこぼれそうになるのを堪えつつ、手綱は玄関のドアを押し開いた。
外は見事な晴れっぷりで、眩しい陽の光が家の中まで差し込んでくる。
「それじゃあ、おじいちゃんも元気でね」
「あっ、ヤバ……」
血の気が引いていく純の顔を見たのも束の間、手綱は自分の背後に立った何者かの黒い影の存在に気付いた。
「どうしたの? ジュ――ンカハッ!!」
玄関のドアがさらに押し開かれ、よろめいた手綱は、背後にいた彼女の手によって宙に釣り上げられた。
襟首を掴まれたせいで首が絞まり、息が出来なくなる。
そばにいた純は、まるで一時停止ボタンが押されてしまったかのように硬直し、その足元ではマオウ様が舌を出して尻尾を振っていた。
懸命に吸い込んだ空気に混じっていたのは、むわっとする体臭と香水とアルコールの混じり合った匂いだった。
「タァ……ヅゥ……ナァ……」
寝起きと酒灼けでガラガラになったその声は、持ち前のハスキーボイスと相まって、家族3人を戦慄させた。
厩の脚がカタカタと震えているのを見下ろして、爪先立ちする手綱も
「フギャアッ!!」
手綱は玄関先の固いフローリングの床に落とされると、有無を言わさぬような腕力でもって振り向かされ、真の魔王と対面することとなった。
枕で擦り付けたであろう両眼からは、マスカラの垂れた黒い涙が流れ、青と紫の隈取りがされ、付けまつ毛が垂れ下がっていた。
彼女が着ていたのは、綺羅びやかな青いドレスだ。勤務先のキャバクラから帰ってきてそのままの姿で寝てしまったのだろう。
「昨日、言ったよなぁ? 『黙って出てったら死刑』だって」
「はい……その通りです。
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