第三章 ヒイロプロブレム
限界を超えて〈前編〉
窓の外はすでに暗くなり、料理実習室の時計の針はすでに7時半を指していた。
タヅナは小学校6年生用の算数ドリルを机の上に広げていたが、そのドリルは最初のページを開いたまま、まるで進まない。
ヒイロから指定された待ち合わせ時間から、30分以上が過ぎている。タヅナは時間に厳しい方ではなかったし、むしろ遅刻常習犯ですらあったが、ヒイロは今まで補習に遅刻したことなど一度もなかった。
しかも連絡も何もなく、タヅナから連絡してみたところで繋がらない。
無人の実習室に1人残っていたタヅナは、だんだんと不安になってきてしまった。
もしかして、花麒麟さんの身に何かあったんじゃないかな?
どこか道ばたで倒れてたらどうしよう。交通事故とか……それとも、何かの事件に巻き込まちゃってたりして。
あれこれと考えてみるも答えは出ないまま、思考は堂々巡り。
とりあえず教室予約時間の1時間は待ってみようと思った矢先、廊下を駆けてくる足音が聞こえてきた。
教室のスライド式ドアを乱暴に開けて入ってきた人物は――
「待たせたな」
まさしく花麒麟ヒイロだった。息を切らしながら、肩を上下動させている。ここまでよっぽど急いで来たらしい。
ヒイロはいつも通りの黒いビジネススーツ姿だったが、襟元がよれたカッターシャツはパンツスーツからはみ出ており、髪もボサボサとまではいかないまでも乱れていた。
目の下には真っ黒なクマが広がっていて、その瞳は淀んでいる。まるで、ゾンビに噛まれてゾンビになったばかりのゾンビのような顔だ。
「遅れてしまって、すまない」
「どうしました?」
「いや、仕事が立て込んでいたんだ。しかもスマートグラスの通信障害もあって、君に連絡することが出来なかった。申し訳ない。社会人失格だな」
「いえ、べつにそんな……。何かあったんじゃないかと心配はしましたけど。今日は補習中止にしましょうか?」
「いや、まだ時間は30分ほど残っている。すまないが、今日は私の分の補習だけでもさせてほしい。君への補習は次回にするということで」
「それはかまいませんけど……本当に大丈夫ですか? 今日はお疲れのようですし――」
「大丈夫だ! さあ! 君に頼んでいた『期末試験全調理工程チャート』を出してくれ!!」
「あっ、はい……こちらになります」
「素晴らしい。これなら私にも出来そうだ」
『剪定試験全調理工程チャート』とはその名の通り、きたる1学期末調理科剪定試験にて、ヒイロが調理するべき調理の全工程をチャート図に起こしたA5サイズの紙のことだ。
タヅナは「試験を満点で通過できるようなマニュアルが欲しい」との要請を受け、この図を手書きにて作成した。
この紙には食材への塩の振り加減から焼き加減、ガスの出力調整、出汁の煮出し時間に至るまで、事細かに定量化された手順が記されている。
このチャートに記載されているメニューは、この前の授業参観でタヅナが調理したものに近いものだった。本当にこの手順で満点がとれるかは定かではなかったが、この工程で完璧に調理をこなすことが出来れば、満点に近いような高得点が見込めるはずだとタヅナは考えていた。
「よし。さっそくこの手順通りに進めてみよう」
「お願いします」
ヒイロは調理台の上に広げたチャート図を読みながら、丁寧に調理を進めていった。
炊飯ジャーに無洗米を入れ、ガスで煮立てたお湯でかつおと昆布の出汁を取り、鮭の切り身に塩を振って焼いていく。
マニュアル化された作業を完遂することは、ヒイロの得意分野だ。教科書に書かれている内容を丸暗記することだったり、最適解が定まっている分野の問題に対しては、努力で必ず解決できるという自負がある。
ただ、そこに1つ問題点があった。
チャートにはあまりにも詳細に、厳密な調理手順が記載されていたため、ヒイロはいちいち分量や時間に気を配りすぎてしまい、かえって時間がかかってしまったのだ。
「完成だ! タイムは!?」
「18分53秒です」
「目標タイムから約4分オーバーか、遅すぎるな。塩加減や火加減などはどうだ?」
タヅナは焼き鮭と出汁巻き卵を一口食べてみたが、特に問題は無さそうだった。
「バッチリです。初めてにしてはタイムも――」
「もう一度やってみよう。不確定要素のない炊飯工程は省略して、14分以内で他のメニューを終わらせたい。2回目以降は疑似食材を使うことにしよう」
「わかりました」
タヅナは学校の購買で買ってきた調理練習教材のパックを取り出した。
今回の補習では、何度も調理を繰り返すことを想定していたため、〈教材用疑似食材〉の用意を頼まれていた。
これは授業でも用いられている疑似食材キットで、耐熱性・耐水性の高い粘土――一応。食べても害は無いらしい――が用いられている。疑似鮭の切り身は、本物の食材と比べて毒々しいオレンジ色でテカっていた。
2回目のヒイロの調理は、タヅナが初めて調理を教えたときと比べて、見違えるように上達していた。
包丁の握り方や食材の切り方、指先で擦るように散らす塩の振り方にいたるまで、普段よく料理をする人のレベルにまで仕上がっていた。
「タイム!」
「15分12秒です」
「タイム!」
「14分30秒です」
「ファック!!」
2回目、3回目の調理でもタイムは縮められたが、目標の14分以内にはもう1、2歩届かない。
皿の上によそった疑似料理をゴミ箱に捨て、鍋や食器を洗い始めたヒイロを見て、タヅナは目を疑った。
「もう今日はいいんじゃないですか? 花麒麟さん、もうフラフラして――」
「まだだ! まだタイムを縮めなくては!」
すでに8時5分を回っていて、料理科実習室の貸出時間は過ぎていた。見回りの警備員さんや教官にこのことがバレたら、怒られてしまうかもしれない。
「なにも今日中に出来なくっても――」
「まとまった時間がとれるのは今日くらいなんだ……。なんとしてでも今日中に14分を切っておきたい……」
そう言うとヒイロは、体をよろけさせて転びそうになったところを、調理台の端を瞬時に手で掴み、体勢を持ち直した。
青くなった顔色は先ほどにも増して痛々しい。3日ほど人を齧っていないゾンビのような顔になっていた。
「……もう、限界ですよ」
「最後だっ! これで最後にする!」
「本当に、これが最後ですからね」
「ああ……」
ヒイロはスーツのポケットから栄養ドリンクの瓶を取り出すと、親指でフタをシュルシュルシュルッと回し開け、一気にそれを飲み干した。
そしてメガネのフレームに指を何往復かさせると、キュイーンとモーターが回転速度を上げたときのような音が聞こえてきた。
ヒイロの瞳孔は不自然なまでに見開き、その瞳は血走っているように見えた。
「それじゃあ、スタート」
タヅナがストップウォッチのボタンを押すと、ヒイロは驚異的な集中力で目の前の料理へと向かっていった。
その調理はただ早いだけではなく、精度を伴っていた。繊細かつ迅速に、流れるように調理は進んでいった。
包丁さばきは速い上に正確で、調理台を左右に、小刻みに、機敏にステップする姿は、まるで反復横跳びのタイムアタックでもしているかのようだった。
もうヒイロは、チャート図に目配せすらもしなかった。
一つ一つの調理工程に迷いが無い。きっとすでに、全ての工程がヒイロの脳内にインストールされたのだろう。
ヒイロが最後に疑似味噌汁をお椀によそった瞬間、タヅナはストップウォッチを止めた。
「タイム!!」
「13分57秒! やった! 目標クリアです!!」
「そうか……それは、良かっ……た……」
ヒイロが右手で握っていたおたまが床に落ちて、悲しげな金属音が響いた。
そしてその直後、まるで糸の切れてしまった操り人形のようにヒイロは膝から崩れ落ち、床に後頭部を打ちつけたことでゴトッと鈍い音がした。
「ええっ!? ちょっと花麒麟さん!! 大丈夫ですかっ!?」
慌ててタヅナはヒイロの元へと駆け寄った。看護の授業で習った救命処置によると、こういった場合、変に肩を揺すったり、起き上がらせてはいけないんだっけ?
「そんな……えっと、どうしようどうしよう??」
床に倒れているヒイロの鼻や口元に耳を近付けると、ゆっくりだが呼吸は続いていた。
救命処置をしなくちゃいけないのかな? たしかに授業でやり方は教わったけど、いざ実践となると、いまいち自信がない。
「えっ、どうしようどうしよう! 誰か……教官……いや、救急車!?」
花フォンをポケットから取り出そうとするも、手が滑って落っことしてしまい、さらに不運なことに、つんのめった爪先に当たって蹴飛ばしてしまった。
「あわわ……早くしないと……」
心臓を高鳴らせながら、調理台の下の狭い隙間に入ってしまった花フォンに手を伸ばし、ようやく拾い上げたとき、タヅナは異様な振動音を耳にした。
廊下から聞こえてきたのは、カラカラカラカラという車輪が回転するような音と、ドッドッドッドッと複数名が駆け足で走ってくる音。そして建物の外からは、ウゥゥゥウ、ウゥゥゥウという騒々しいサイレンの音までもが聞こえてきた。
それらの音がしてまもなく、スライド式ドアを勢いよく開けて実習室に入ってきたのは、3名の救急隊員と1台のストレッチャーだった。
「現場到着。要救助者1名を確認。直ちに搬送します」
「俺、こっちから抱えるから、お前そっち持って」
「OK、いきますよー。せーのっ!」
瞬く間に、救急隊員らの迅速な連携動作によって、ヒイロはストレッチャーの上へと乗せられた。
良かった、良かった、これでひと安心だ。誰かが救急車を呼んでくれたんだ。
そう安堵したのも束の間、タヅナの脳裏にある疑問が浮かんできた。
誰かが救急車を呼んでくれた? でも……誰が?
教室には僕と花麒麟さんの2人しかいなかった。もしかして、見回りに来ていた警備員さんがちょうどやってきて、電話してくれたとか?
仮に誰かが救急隊員の人たちを呼んでくれたにしても、彼らの到着が早すぎるような気がする。あともし警備員さんが電話してくれたとしても、僕に何の事情も聞かないまま適切に状況判断したとも思えない。
あまりにも都合の良すぎる状況に困惑しながら、タヅナは救助作業を見守った。ヒイロはストレッチャーにベルトで固定され、今にも教室から運ばれそうになっていた。
「タヅナ君だよね? 君も一緒に来てくれるかな?」
「はっ、はいっ!!」
救急隊員からの呼びかけに、タヅナは今年一番の大きな声で応えた。
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