第10話

父さんはいつも穏やかだった。

僕がテストで悪い点をとった時も、母さんには内緒で黙っててくれた。次はいい点とるんだぞって微笑んで。


そんな父さんとの会話を母さんは密かに知ってて、それでなお僕を叱らず見て見ぬふりをしてくれていたんだ。


目に見える優しさの父さんと、目に見えない優しさの母さん。そんな2人だったはずなのに。


「春人…。お前、日記見たのか?」


「!」


父さんは、はぁと一息ついて冷蔵庫からお茶を取り出し、コップに注いだ。


「…父さん。あの日記は一体何?」


無言のままコップを机まで運び、椅子に座る父さん。その顔はどこか物憂げな雰囲気をまとっていた。


「春人。座って話そうか」


「…うん」


僕は父さんの正面に座る。


「で、何が聞きたいんだ?」


僕は例の日記を取り出し父さんに見せつける。


「この日記は…本当に僕が書いたものなの?」


「…」


「母さんって…。僕は母さんのことを憎んでたの?」


しばらく無言が続き、ゴクリと唾を飲む音が聞こえた後、父さんが口を開いた。


「……。てっきり、すべて忘れたふりをして生きてるんじゃないかって思ってた。嫌な過去から目を逸らして」


「春人…お前、本当に忘れてしまったのか?」


「…そうならきっと、母さんはお前の思うような善人じゃないよ」


並べられた疑問が僕の頭を混乱させる。


「えっ?どういう…こと?」


「…。できれば話したくはない。…お前の為にも」


「何を言ってるんだ父さん…。母さんが。教えてよ。一体、昔何があったんだ?」


「…」


「…」


「春人…」


「お前は…よく母さんに叱られていたよ」


「どうして普通のことができないのかって」


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春人が小学校の時の卒業式。

父である俺と妻にとっては、初めて息子の新たなる門出を祝う機会だった。


卒業証書を受け取り、校歌を歌い、卒業生が退場する。ただそれだけのことだった。


ただそれだけのことなのに。


「チッ」


隣から舌打ちが聞こえる。

それはよく聞き馴染んだもので、保護者、教職員、来賓、その他大勢の人の拍手が鳴り響く中でもしっかり俺の耳に入ってきた。


家に帰ると案の定、妻は春人に叱っていた。


「なんで泣けなかったの?卒業式。周りの子、みんな泣いてるのに。春人だけよ?」


「私に恥をかかせたいの?津雲さんの息子さんは情がないですねってママ友から言われたらどうしてくれるの?」


妻は全てにおいて過剰だった。

昔から何かと春人が「当たり前」のことができないと怒鳴り散らすくせがあった。


自分が過剰だからこそ、息子である春人には世の中の物差しでいう普通になってほしかったのかもしれない。


そんな光景を俺はただ見守るしか出来なかった。

息子を躾けるのは母の役目。古臭い考えだとは思いつつも、文句を言えば直ぐにDVだの喚くし、仕事に集中すると春人に目を向けてやれる暇がなかった。


俺は父親失格だ、と言い聞かせて現実から逃げていた。


卒業式が終わった後の家でそんなことを言われた春人は、涙を流していた。


「はぁ。今泣くならあの時も泣けたんじゃない?」


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リビングは静かに時間だけが通り過ぎる。

僕も、父さんも、何も言えなかった。


「本当に…すまなかった。高校生になったお前が…すべて忘れたかのように幸せそうだったから。俺も…すべて忘れたふりをしていい父親を…演じてたんだ」


「俺は…いつだって見て見ぬふりをしていた」


「春人が辛い目にあっている時も、今も」


「許してくれなんて言わない。けどお母さんは春人の思うような良い母親なんかじゃないんだ」


「…」


記憶の断片が、修復されていく。


なんてことはなく記憶にない事実がまた僕を苦しめる。


「…時間が巻き戻るようになったのは、母さんのせい?」


━僕に時間を巻き戻る能力が発現したのは、12歳の時。卒業式で泣けなかったことが初めてのきっかけだった。不思議な現象に最初は動揺したけど何回もやり直してこのままずっと同じ時間に閉じ込められてしまうんじゃないかと思ったら自然と泣いていた。━


「?…春人?」


「でもやっぱり…僕の記憶とは食い違う」


「父さん。高校生になった僕がすべて忘れたかのように…って今までの僕は…どんな人だったの」


「…昔の春人は、何もかもを憎んでた。母も俺も妹も。表面上、最低限の優しさを兼ね備えたふりして…何もかもを嫌っていた」


「…」


「母が死んだ去年だって、喜んでいるのか悲しんでいるのか分からなかった」


━━━━━━━━━━━━━━━


かつての僕は、一体どんな人だったのだろう。

そんなことを考えてしまう。そんな心配してる場合じゃないけど。


両親は僕の思うような立派な人じゃなかった。

僕は僕の思うような人じゃなかった。


自分が何者なのか分からなくなる。


今の僕と皆の記憶のズレ。

これを生み出す方法がたった1つだけ思い当たる。


「1年前の過去に戻ること」


浜辺さんが屋上から飛び降りた時に発生した時間の巻き戻しで僕は2度目の高校1年生の4月を過ごしている。


この巻き戻しによって僕は1度目の高校1年生の時の記憶を少しづつ失っている。


だとすると僕は


「過去に戻ったのは今回が初めてじゃない…」


何回も何回も時間を巻き戻して、記憶を改善していたんだ。母さんを善人と思い込む程まで。


それで今の僕がいる…のか?


それならなぜあの時、浜辺さんを助けられなかった時に時間は巻き戻ったんだ?


僕はもう助かったのに。すべて忘れて幸せな毎日を過ごしていたのに。


なんで今更、落とした過去を拾わなきゃいけないんだ。


━━━━━━━━━━━━━━━


昼休み。僕は誰もいない屋上で寝っ転がる。

空を見上げると青色だけで、雲1つなかった。


悩みの1つや2つ、空っぽの青空に投げつけてやりたい。やがてそれが雨を降らして誰かを悲しませても。


「津雲くん?」


「…南戸さん」


青空だけが見えていた僕の視界に楓が入ってきた。僕が寝っ転がるのをやめ胡座をかくと隣に楓も座った。


「どうしてここに?」


「天気が良いから来てみたら、先客がいてね?」


「僕?」


「イエス。よっ!晴れ男」


「…」


「…。元気…ないね」


「ああ、なんかね」


僕は再び寝っ転がり空を見上げる。


「南戸さんから見た空って何色に見える?」


「え?空?…青色だけど」


「だよな。特に今日は雲1つない。快晴ってやつだね」


「…」


「それくらいに当たり前のことなのに。どうしてだろう?見えてる景色が違うのは」


「僕の記憶と皆の記憶。僕の知らない自分。欠けていく記憶。巻き戻る時間」


「僕は僕じゃなかった」


楓は僕の言葉を黙って聞いていた。


「正解を導くまで時間が巻き戻ることをさ、演技してるって思った時があったんだ。これは神様から与えられた役を演じているんだって。神様が思うがままに僕を操って理想の脚本を描く。そういうもんだって思い込んでた」


「でも、きっと違うんだ」


「僕自身が」


「きっとこの世界には居てはいけない…」


「良い人を身にまとったただの役だった」


「本当の僕は別にいるんだ。きっと心のどこかに」


空を見上げていたつもりが、いつの間にか世界が逆さまになったのではないかと思うくらい宙に浮いたような感覚があった。


楓がそんな僕をどんな目で見ていたのか、想像もしたくない。


「津雲くん。こっち向いて」


「え?」


半ば無理やりに僕は起き上がらせられた。

楓の手には小さなメモ帳に僕の横顔の似顔絵が描いてあった。


「何これ?」


「津雲春人くん。私がたった今描きました」


その絵はシャープペンでささっと描かれていて楓の器用さがよく伝わる。


「私が惚れたのは、他の誰でもない津雲くんだよ。役とか演技とか…私には理解できないけど」


「君とこうして出会えたことがすべてだと私は思う」


楓は僕の目を見て言った。


「ねぇ。教えてよ。津雲くんが来た未来の話」

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ネタバレ マレリ @marerimareri12345

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