第15話 昔の匂いと今のこと

 馨はなんとなく、大隈の屋敷に顔を出してみた。

「くま、まだ起きとるか」

 なれた屋敷だけあって、そのまま上がっていった。

「まぁ、本当にいらした」

 綾子がびっくりしたようで、慌てて迎えに出て来て言った。

「綾さん、どうかしたかの」

「さぁ、こちらへどうぞ」

 綾子が応接間に馨を押し込んだ。

「あぁ、武さんじゃ」

「馨、おぬしの話をしていてな。もうそろそろ伊藤の屋敷を出る頃だ、ここにも顔を出すだろうから、それまでゆっくりして居ればいいと、言っていたのである」

「それで、わしが来たと」

「そういうことである」

「もし、わしが来なかったら、どうするつもりだったのか」

「門の前に書生を立たせておる。こっちに来んかったら、馬車を出して、先に帰り着かせるつもりであった」

「おもしろい事を考えるの」

「せっかくである。二人で、馬車に乗って帰るのである。いいな」

「わかった。くまの言う通りにする。その前にくまに話があるんじゃ」

 そう言って、二人は別の部屋へ行ったようだった。武子と綾子は二人の様子を見て、笑っていた。あまり時間もかからずに、戻ってきたので武子も立って挨拶をして帰ることにした。

「綾ちゃんも大隈様もありがとうございます。それでは失礼します」

 武子は馨と一緒に外に出ていった。


 玄関の前に付けてあった馬車に馨が先に乗り込むと、武子に手を差し伸べていた。その手をつかんで、武子がどうにか乗り込んでいた。

「こういう乗り物に着物は大変じゃな。武さんも洋装をするのはどうかの」

「私にはそのような目立つものは」

「そうか、時期尚早じきしょうそうかの」

 馨は少し残念そうな顔をしていた。武子は馨をがっかりさせたのかと、少し心配になった。

「殿方のその、洋装は着物よりも楽なものなのですか」

「楽なもの、か」

 馨は真面目な顔で、考えているようだった。

「楽なものだったら、家に帰ってすぐ脱いだりせんだろう」

 固い表情から、にかっと笑って言った。その笑いにつられて武子も笑った。

「たしかに、着物に着替えてごろっとなさりますね」

 しばらくすると、家の前に着いた。

 今度は馨が先に降りて、武子の手を取って馬車からおろした。そして、御者に礼を言って馬車を返した。


 二人で玄関をくぐって、居間に座った馨に、武子は茶を用意して出した。

「勝手をして、すいませんでした」

「別に悪い事していたわけではないのじゃろ。謝ることではなかろう。奥方様も羽根を伸ばす必要はあろう」

「あの、ありがとうございます」

「そういえば、寝所にこのような本もあったの」

 そう言って、馨が武子の古今集こきんしゅうを持っていた。

「それは…」

「わしは女子にも知識や学問も必要じゃと思っておる。武さんも興味がある物があれば言ってほしいの。外国語だってなんとかする」

「はい、そのようなことがあれば、お願いします」

 武子は、馨が話をして、分かり合えることを、信じている人だと思った。話をすることができない人、知識がなくつまらない人だと、思われる事が一番怖いと感じた。


五月待さつきま花橘はなたちばなをかげば 昔の人の 袖の香ぞする」

 馨が古今集の歌を詠んだ。武子も古今集から対する歌を詠んだ。

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける」

 そして、少し悪戯心が。

「馨さんには、忘れられない女人がいらっしゃるようですね。そのような歌を直ぐに、思い出されるとは」

「武さん、何を言っとるのかの。わしには多すぎて、良うわからん」

「多いのですか。そんなに」

 武子は思わず、馨の答えに呆れていた。馨は武子の隣りに座って、顔を覗き込んでいった。

「今は武さんだけじゃ」

「今は、でございますか」

「わしには、今が一番重要じゃ。そして、この今が、続いて欲しいと思っちょる」

 そう言って、馨は立ち上がると、ぶつぶつつぶやきながら、書斎へ歩いていった。

「あぁ、せっかくの武さんの手料理も、しばらくお預けじゃ。大阪に戻るのは面倒じゃ。武さんと離れるのも嫌なことじゃ」

 それを聞いて、武子は笑わずにいられなかった。


 家事をおえて、風呂に浸かり、ゆったりすると寝所に向かった。そして布団の中で本を読んでいると、襖が開いた。

「まだ武さん、起きとったか」

 寝巻き姿の馨がいた。

「先に休ませて…」

「気にすることではない」

 そう言うと、武子の頬に手を当ててきた。武子はその手を撫でて、自分の胸に沿わせた。それに、馨は驚いていた。

「武さん…」

しばらく離れることになるのですね。寂しゅうございます」

「すまん。だが、今度こそ、ずっと一緒に暮らせる。もう少しの我慢じゃ」

 そう言うとランプの火を消して、武子に口づけをした。そして、口を吸いながら、手は寝間着の上から武子の体を触れていた。そして、寝間着の帯を解き、体を重ねた。武子も馨の頭をなで、強く抱きしめていた。武子は馨の手の動き、体の動きに激しく反応していた。これまでにない、濃密な夜をすごした。二人はお互いに抱きしめあって寝たのだった。

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