第7話 アップル・パイの微笑み
応接間や食堂は、仕事を終えた官吏や書生が集まっていて、毎晩の討論を戦わせていた。
片隅で様子を見ている綾子を見つけると、声をかけた。
「綾ちゃん、いいものがあるの。お部屋で待っていてほしいんだけど」
「わかった。何かしら」
「見ての楽しみ」
武子はくすっと笑った。
綾子が部屋に行くのを見届けると、紅茶と
「どうぞ、召し上がれ」
「これは何かしら」
「りんごのパイと言うの。りんごのあまく煮たものが入っているの」
「初めて食べる」
「ふふふ、美味しくてびっくりするはず」
「武ちゃん知ってるの」
「まあ、そうね」
綾子は手で持つと口に運んだ。
「まぁ、甘い。何かりんごがシャキシャキ言うのね」
「でしょう。私も頂こう」
「う~ん甘い」
「ねぇ武ちゃん。これって。どなたから」
「あのぉ。井上様が」
「井上様が、どうして」
「西洋料理のお店に一緒に行ってほしいって、おっしゃられるので、それで」
武子は小さくなっていった声をもう一度、息をついで続けて言った。
「それで、これがものすごく美味しかったので、綾ちゃんにも食べさせたいなと、言ってしまったの。そうしたら2つを手土産にしてくださったの」
「ふーん、井上様とね」
「偶然と、ちょっとした冒険心からで、特別なこと…」
「別に、何かあったのとか言うつもりはないの。でも、中井様と井上様はご友人だし。武ちゃんとのことも、きちんとしたわけじゃないし。武ちゃんが傷つくの見たくないの」
「大丈夫。身の程はわきまえてる。だいたいここにおいでなる殿方達、お遊びもとんでもないし、奥方様よく忍耐できてると思って」
「そういう意味では、井上様は恋のお相手としては、問題が無いのだけれどね」
「えっ」
綾子の恋するには問題がない、と言う言葉に武子はドキッとした。
「大阪ではどうされているかよくわからないけど、正式な奥様はいらっしゃらないし、妻になれないだけの女人とか、お
綾子は武子の知らない頃のことも言っていた。
武子は、月光の中で見た馨の涙を思い出していた。あれだけ強気な方でも、弱気になることがあるのだから、そんなときにはおかしなこともお有りになるのかもしれない。武子は言った事とは違い、井上のことが気になってしまっていた。
「武ちゃん、聞いてる? しっかりしてね」
「はい、聞いてます。綾ちゃんのご忠告ありがたくいただきます」
「でも、お食事楽しかったのでしょう」
綾子は笑っていた。
「楽しかった。井上様はイギリスに行かれたことがお有りなの。私の知らないことを沢山ご存知で、もっと色々知りたくなる。西洋料理って、お箸じゃなくて、銀のさじや小さな刀みたいなのとか使って食べるの。それをきちんとお使いになるのも珍しいから、じっと見てしまって」
「まぁそれは無作法なことなのに」
「そんなに面白いですかって。これはナイフ、これはフォークって説明をしながらお食べになるのが、またおかしくて。楽しかった。でも、いいの。のぼせそうになるところでした」
武子は寂しそうな顔をしたのに、自分では気がついていないようだった。それを見た綾子は真面目な顔で武子にいった。
「武ちゃん。もし、本当に井上様を慕われるのなら、私は応援したい。だって、中井様のやりようだって、勝手すぎると思うの。あちらで妻子もお持ちになったと言うし、それに武ちゃんは正式に届け出されていないし。このまま武ちゃんは身動きが取れないの、かわいそうだもの。第一、井上様なら中井様にご説明できると思うの」
「ありがとう。でも、まだわからない。井上様も大阪にお帰りになるし、今度お会いするときには、まっさらになっているかもしれないですから」
「そうね」
「もう、寝ます」
そう言って、武子は綾子の部屋を出た。このドキドキで二度と誤る事はできないと、自分に言い聞かせていた。
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