巡り合う時

第6話 月下の涙

 その夜武子は寝ようとしたが、寝付けずあきらめて起きることにした。少しかけた月がよく光っていた。こういうときは庭の東屋あずまやに涼むのも、いいかもしれないと寝間着のまま外に出た。部屋のこもった熱が、外の風に逃げていった。


 東屋あずまやに行こうとすると、人影が揺れた。先客がいたようだ。

「あっ」

 思わず武子が声を漏らした。その影が動きこちらを向いた。

「おひいさんじゃ」

「井上様」

「どうしてこんなところに」

「あぁ。あの少し涼もうと思い立ちまして」

「そうか。わしは少し酒を飲みすぎた。もう酔いも冷めた」

 そう言うと井上は席を立って、住まいとしている長屋に向かって行った。その背中に向けて武子は声をかけた。

「井上様。お休みなさいませ」

 その背中はそのまま闇に消えていった。

「なんか興ざめ。部屋に戻ろう」

 武子は独り言をつぶやくと、すぐに来た道を戻ろうとした。そこに人影が見えた。おもったよりも背の高い、少し華奢な姿だった。月明かりに照らされた頬から、涙がこぼれ落ちたように見えた。武子は、思わず木の陰に隠れた。


「あれは井上様だ」

 もしかしたら、邪魔をしたのは自分の方だったのかと、武子は考えた。その人の気配が消えるまで、その場に隠れることにした。いつも陽気で明るい印象しかなかった人が、寂しそうで悲しげな涙を流していた。見てはいけないものを見た気がしたのだった。

 しばらくして立ち去る足音がして、長屋の方に消えていった。武子は立ち上がり、部屋へと戻った。

 布団に潜り込んだが、井上の涙が気になって眠れなかった。胸のドキドキも止まらなくなっていた。頭の中も熱を帯びているようだ。


 東京に来ると、大隈邸の長屋で寝泊まりをする。自分を新田の子孫の岩松家の娘と知ると、「おひいさん」と呼ぶあの人。今の仕事は大阪で造幣頭ぞうへいのかみだったはず。確かお国元で反乱があって、長州の山口に行き治めて、東京に戻ってきたところだった。お国の人を政府の武力で抑えた。この事が、やるせなかったのではと、思い当たった。すると、頭の熱も取れてすっと眠り、朝を迎えていた。


 朝、目覚めて、いつものように朝食の準備の手伝いを始める。起きて支度の整った人たち、が集まってきて、もう話し合いを始めていた。お膳代わりのお盆に一人分整えると、女中さんたちが座っている席に置いていく。

 その様子を武子は眺めて、笑いながら、大隈と伊藤と話をしている、井上を見て安心していた。食事が終わると、いつものように盆を下げに来た。

「ごちそうさま」

 声をかけた井上の顔を、武子は見つめていたようだった。

「わしの顔どうかしちょるかの」

「えっ。申し訳ございません。何も」

「ならばええがの。じっくり見られる顔でもないからの」

 けらけらと笑いながら、大隈たちのもとへ井上は戻っていった。

 考えてみれば、昨夜の涙の跡など残しておくはずもないのだった。次から次へと来る問題に対処していかなくてはならない、己の心は二の次にして、戦っている人たちなのだ。出仕する人たちや学校に行く人達を見送り、片付けも済んで大隈邸は静かになった。


 昼過ぎに武子は外出をすることにして、銀座から日本橋のあたりを、散歩しようと思った。門を出て暫く歩くと、帰宅しようとする井上とすれ違ったようだった。

「あっ、おひいさん」

「井上様。もうお帰りですか」

「そうじゃが、おひいさんは、どこに出かけるんかの」

「特にあてはありませんが、銀座あたりまでまいろうと思っております」

「そりゃええ。ちょっと付き合ってくれんか」

「えっ、お帰りでは」

「ええんじゃ」

 そう言うと、来た方向に歩きだしていた。歩くのが早い。

「井上様、お待ち下さい」

 武子が声をかけて、井上は立ち止まり振り向いた。

「おおすまん」

「井上様、おひいさん呼びは、おやめください。武子という名がございます」

「おおそうか。じゃ、武さんと呼ばせてもらおうかの」

「はい」

 武子は井上に笑った。

 やってきたのは屋敷からほど近い、築地のレストランだった。

「一人では来づらい店だからの。かと言って伊藤と来るというのものう」

 そう言って店のドアを開けて入っていった。

「これは、よくわからない品書きですが」

「あぁ。西洋料理じゃ。最近できたばかりと聞いて。どれほどのものかと思っての」

「井上様はイギリスにいらっしゃったことがあるとか」

「あぁ。半年くらいだったがの」

「前菜は。うーんこのコースと、そうじゃケーキもつけてくれ。それと、こちらのご婦人向けには、箸を使えるよう切っておいてくれ」


 武子は何がなんだかわからないまま、出てくるものに、手を付けることになった。

 銀の食器の他に、箸も用意されていたのは、井上の配慮だったのか。スープを飲むときは、その銀のさじを使うのだと、説明をされたぐらいだった。

 お陰で、初めての西洋料理も、楽しく食べることができた。

「井上様は、こういう西洋料理はお好きなのですか」

「大好物だとは言わんが、体のことを考えると、このような滋養のあるものを、食すべきだとは思っている」

「薬のようなものですか」

「まずかったかの」

「いえ。美味しゅうございます」

「そりゃ良かった」

 井上がニッコリと笑った。この笑顔は向けられた人に、暖かさを運んでくると思った。しかし、武子にはこの笑顔が重たかった。自分は、このような扱いを受ける女ではない、というべきなのか。


「これはなんというのですか。甘くてこのサクサクという感じは」

「それはアップルパイというのらしい。りんごをあまく煮たものが入っとる」

「綾子さんにも食べてほしいですね」

「そうじゃの」

 井上は席の担当に声をかけた。

「すまんが、これを2つ持ち帰りにしてくれんか」

「えっ2つですか」

「綾子さんも一人では、食べにくいじゃろ」

「ありがとうございます」

 武子は満面の笑みを浮かべて礼を言った。率直な反応に、井上も気分が良かった。お礼を言われることは、こんなにもこちらにも、嬉しいことだったのか。

「ごちそうさまでした。こんなごちそう、なんて表現したらいいのか」

「武さんのその笑顔で十分じゃ。わしも楽しかった」

「井上様はいつまで東京に」

「明後日には大阪に向かう」

「そうですか。寂しくなりますね」

 武子が目を伏せて言うと、井上馨いのうえかをるは見てはいけないものを見た気がした。


 落ち着かなくなった馨は、席の担当に目線を合わせ呼んだ。会計をすまし、手土産のアップルパイの入った箱を受け取ると、武子に帰りましょうと、言った。店を出ると馨はパイの箱を武子に渡した。

「綾子さんと仲良く召し上がるとええ。で、武さん先に帰ってくれんか。わしは少し用があるんじゃ」

「えっ、今からですか。ごちそうさまでした」


 よくわからないと言ったふうな武子は、馨の言う通り一人で帰り道を急いだ。しかし、後ろを歩く足跡は聞こえていた。屋敷に近づくと、その足音は遠くなっていった。門をくぐり、一人で屋敷に帰った。入り口のところで隠れて見ていると、長屋の方に人影が消えていった。


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