第8話 あなたが欲しい

 戸を明けて外を眺めると、月が目に入った。

 月を眺めに行こう、あの東屋あずまやに行こう。

 きっと、この想いもドキドキも一時の熱だろう。

 そう思うと庭に飛び出していた。


 東屋あずまやには、誰もいなかった。

「あぁホッとする。月満つきみちて欠けて影差し我もまた誰かを想いまた忘れゆく」

「忘れられるのは誰ですか、武子さん」

 突然背後から声をかけられ、驚いて振り向くと、かをるが立っていた。

「あの、いつからそこに」

「親しくさせていただきたいと、思ったところで、忘れられそうになるとは」

「いえ、そんな。即興で作った和歌を、真に受けられても」

「それでは、忘れられるのは、中井ということで」

「ご存知で。でしたら、お構いくださらないでいただきたい」

 立とうとした武子を抑えて、馨は隣りに座った。

「べつに、僕は気にして言ったわけではないです。武さんだって子供じゃない、僕にいたっては色々あるし。武さんの思う通りにされればええ、と思うちょる。それは、わしで無うてもしょうがない。ただ、わしは初めて武さんを見たとき、わしの天女様じゃと思うたんじゃがの」

「ふふふ、天女様だなんて。そう井上様って、気が緩むとお国言葉になられるのですね。お国言葉もいいものですね」

「気が緩んだなどと。武さんと話しとると自然に戻るだけじゃ」

「うれしいです」

「その、井上様というのも、やめてくれんだろうか。馨とか」

「大隈様みたいにですか」

「あぁ、あれは気楽すぎじゃの」

 武子は少し考えてみた。その伏し目がちになった表情に、馨は改めて美しいと思った。

かをるさん。これでいいですか」

「あぁ、それがええ」

 そう言うと馨の顔が武子の顔に近づいてきた。なぜか、色白な肌の色が、印象に残った。馨の唇が武子の唇に触れると、一度離して、今度は吸ってきた。武子は少し驚いたがそのまま任せた。胸がドキドキして、張り裂けそうになっていた。

「キスと言うんじゃ。恋人同士の挨拶じゃ」


 恋人、思い人ということか、衝動的に離れたくないと武子は思った。このままだと、この人は大阪に帰ってしまう、その前に証がほしいと思った。

 二人だけの秘密が。


「恋人なら、思い合うのなら、馨さんの部屋へ行っていいですか」

 急に真剣な目になった武子に、馨は気圧けおされていた。

「言っとる意味がわかっとるかの。わしの部屋に来たいなどと」

「置いていかれるのはもう嫌なんです。置いていかないという約束を、していただけますか」

「大丈夫じゃ。わしは武さんを一人にはせん」

「でしたら、私を…」

 馨はまたさっきと同じように口づけをしようとした。

 武子は馨を受け入れるように口を少し開けた。

 二人はお互いに求めていることを知った。


 馨は武子の手をギュッと握って、自分の長屋に連れて行った。

 寝所の布団を広げると武子にまた口づけた。武子は帯を解き、着物を脱ぎ襦袢じゅばん姿で横たわった。

 馨の手が胸元を広げると、そのまま身を委ねた。馨と一つになれた時、武子はこれが、自分の望んだことだと心から思えた。上がる息と頭の中のしびれが武子の理性を飛ばしていた。

 その時の声が馨に届いた時、馨は困惑していた。そして困惑したまま武子を離していた。

「身代わりか、わしは」

 それでも馨は武子に腕枕して、抱きしめて寝ていた。


 武子がはっと目を覚ますと、夜の終わりの気配がしていた。夜が明ける前に自分の部屋に戻らなくてはと、焦りながら馨の手をほどいた。そしてきものを着付けて、長屋をあとにした。

 その様子を馨は薄目を開けながら見ていたが、声をかけることはしなかった。


 馨は明るくなるまで、布団の中で考えていた。そして起きて、文をしたためた。それを小さく畳んでふところに入れて、母屋に向かった。

 朝食の手伝いをしていた武子に、そっと文をたもとに入れる。そして、いつものように挨拶をすると、食事を済ませた。

 武子は、これが後朝きぬぎぬの文だと思うと、うれしかった。早く返事をしたためないと、気ばかりが焦っていた。


 ようやく騒がしかった時間が終わり、一人になれる時間が来ると、自室に戻り文を開けた。

 文には昨夜のことは忘れて欲しいと書かれていた。

「馨さん…」

 武子には何がなんだか意味がわからなかった。すると体がもう、動き出していた。


 

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