第9話 ただ名誉のため

 おのずからかをるの長屋に向かっていた。ちょうど出かけるところの馨に出会えたのは、あたかも必然だと感じていた。


「お出かけですか。お仕事でないのなら、お話をお聞かせいただけますか」

 普段着の着流しだったので、大した用事でないのは明らかだった。

「いいですよ。ここではなんですから、一緒に来ていただきたい」

 馨はそう言ってあるきだしていた。武子は慌てて追いかけるようについていった。

「ここでならいいでしょう」

 振り向いて武子の方を向いて、先に入るように促した。

「ここは?」

「いわゆる連れ込み茶屋です」

「えっ」

 馨は笑って言った。

痴話喧嘩ちわげんかならここがいい」


 部屋に案内され、二人きりになった。続き間にある布団が目に入りドキッとしたが、武子は何をどう切り出そうかと考えていた。

 すると馨の方から切り出した。

「文を読んだということですね」

「そうです。昨夜のことを忘れろとは、どういうことでしょうか」

「文字通りです。貴女あなたも子供じゃない。本気かどうか。昨夜のことは、よくある事故のようなもので、大したことではないのは、おわかりでしょう」

「私の気持ちはどうでもいいと。私が本気ではないとでも」

「貴女の気持ちですか。貴女は、本当の、気持ちに、気付いていないのでは」

「私の本当の気持ちを、馨さんがおわかりだなんて。でしたら、昨夜のことは忘れられないことと」

「いえ、だからこそです。貴女も寂しかった、それだけのこと。それを互いに埋めあった」

「寂しさを埋めあっただけだと。女子おなごにとって、そんなに軽いことではないのは、おわかりでしょう」

 どこか噛み合わない話に、苛々してきた馨は終わらせようとした。

「分かりました。僕たちは夫婦になりましょう。ただ、僕はおそらくこれからも、このまま変わることはできない。茶屋で芸者と遊ぶことは、やめられないでしょう。だから、僕も貴女を縛り付けるつもりはないです。貴女を幸せにできるかもわからないし、約束もできない。しかし、僕と貴女の名誉を守るには、それがいい」

 思いがけない結論に武子は驚くしかなかった。でも、こうやって馨と対面しているだけでも、ドキドキがとまらないでいた。

「結婚をそのような軽いものに」

「僕たちは独り者で、大人で、幸いなことに武家の出だ。僕の方は母がいるが、大した障害にはならない。貴女の家だって、政府の役人が相手なら、問題にならないでしょう。それとも徳川直参とくがわじきさん交代寄合こうたいよりあいのお家では、長州藩士の家ではだめですか」

「いえ。そのようなことは」

「だったら、問題はない。貴女が決めてくれればいい」

 話は結婚するか、別れるかに変えられてしまった。


 武子は馨の真意がつかめないまま、答えを決めることになった。こうなったら胸がドキドキすることに、正直になるしかない。

「わかりました。お話をお受けします。夫婦に」

 馨は武子に口づけをした。しかし唇を合わせただけの軽い儀礼的なものだった。

「よかった。それならば、お帰りなさい。僕はこのまま用事を済ますので」

「えっ」

「ここは本来、貴女のような人がいてはいけない場所。さっさと出ていってくれないか」

 そう言って、馨は武子を追い立てた。

 

 その後馨は窓から武子が帰るのを確認していた。

 昨夜自分の腕の中で、違う男の名を呼んだ女を、妻にすることになるとは。

 ここに来たときには考えもよらなかった状態だった。これは自分の胸に収めておくしか無いだろう。武子が視野から消えるのを確かめて、馨も引き上げた。


 武子は馨の申し出にうれしさを隠せなかった、でもならば忘れろといったのだろう。そういえば馨が決断を迫ったのは、結婚か別れるかだったと思い当たった。

 武子から別れると、言わせるつもりだったのだろうか。


 望まれていないかもしれないのに、喜んだ自分を軽薄だと思った。そうだあの時、名誉を守るためと言っていた。一夜の行為の責任をとるということか。

 ただ恋のためではなかったのだ。馨の言葉遣いもそれを裏付けていた。そう思うと涙が出てきた。


 ちょうど橋をわたるところだったので、川の方を眺めて涙が止まるのを待った。それでもこのドキドキが、自分の心に大切な事ははっきりしていた。

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