第10話 条件付きの花嫁

 屋敷に帰ると、すでに帰宅していた大隈と綾子が、難しい顔をして待っていた。

「武さん、食事が済んだら吾輩わがはいの部屋に来てくれ」

 大隈はそう言って立ち去った。


 綾子は台所の隅で説明をした。

「さっき帰ってきた書生さんが、あなたと井上様が、連れ込み茶屋に入るのを見たと、大隈に言ったの。私も聞かれたのだけど、よくわからないと言っておいた。今どうなっているかは、きかない。ただしっかり考えておいてね」

「綾ちゃん。ありがとう。大丈夫。気持ちは定まっているから」

「夕食の準備しなくては」

 そうこうしている間にかをるも帰ってきたようだった。

 大隈の馨を呼ぶ声が響く。


 武子は配膳を手伝うことはしなかった。

 馨の顔をまともに見ることができないからだった。

 一通り落ち着きを見ると、綾子が促した。

「大隈が待ってるって」

 綾子の後ろについて行って、大隈の部屋に入るとすでに馨は座っていた。綾子は気を使ったようで、馨の前に座り、武子が大隈の前に座った。

「馨、おぬし武子さんとどうするつもりか」

 馨は顔を上げて、武子の顔を見ながら言った。

「わしは武子さんと夫婦になる。そう決めたんじゃ。のう、武さん」

「はい。馨さんと夫婦になります。たしかに二人で決めました」

 気軽なふだんの言葉使いの馨に、武子は驚きながら、その顔を見た。

「私は馨さんをお慕いしています。ですからこの結婚をお二人には、祝っていただきたいのですが」

 大隈と綾子にも笑顔を見せていた。大隈は少し考えていたが、良い考えが浮かんだらしく笑みを浮かべた。

吾輩わがはいは良いことを考えついた。二人の祝言しゅうげんを吾輩と綾さんの仲人なこうどで挙げるぞ。もっとも馨には武さんとは、別れることはないと誓約してもらおう。どうじゃ、馨」

「隈にはかなわん。武さんとは別れんさ。誓約を書こう」

 馨は武子の顔を見ながら、笑っていた。


「あっそうじゃ。伊藤を呼びにやってくれんか」

「そうですね。大変なことになるところでした」

 間もなく、隣家の伊藤博文が、夫人の梅子も連れて駆けつけた。

 伊藤博文は井上馨にとって、幕末の攘夷活動じょういかつどうという外国勢力排斥活動がいこくせいりょくはいせきかつどうをしていたときからの親友だった。その後イギリスに国禁の密航をともにしたことから、単なる友人関係を超えるつながりを持っていた。


「大体は聞いた。聞多が武子さんと結婚すると。本当か」

「本当じゃ。二人で話して決めた。のう、武さん」

「はい、馨さんの申されるとおりでございます」

「中井とのことは、終わっているとも言えるが、本当のところはどうなっておるのか」

 大隈が皆がききたくても、ききずらいことを言ってきた。

「もうここまで、何も来ておりません、私の中ではもう終わっております。馨さんの妻となることに、なんの支障もございません」

 武子は毅然として言い放った。馨は、その表情を見つめていた。そして伊藤博文を見て、笑いかけながら言った。

「俊輔、祝ってはくれんのか」

「そんなことはない。ただ驚いているだけじゃ。梅さんもそうじゃろ」

「はい、そうです」

 大隈が考えている婚礼の話を延々聞かされて、疲れた頃伊藤夫妻は帰っていった。


 そして武子は綾子と、二人になった。

「武ちゃん、驚いた。何時からなの」

「馨さんが、山口からお帰りになった夜、庭の築山の近くで、涙するのを見てしまったの」

「そうだったの」

「西洋料理屋さんで、お話をして、もっとご一緒したいと、思ったのだけれど」

「それじゃ、お菓子を食べたときの話は、諌めたつもりが逆に」

「そうかもしれない。お会いしたくなって、東屋あずまやに行ってしまったの」

「そう。恋なのね」

「私は…。でも、本当のところはわからないの」

「どうして。井上様は真摯しんしに、お応えになったから妻にと」

「二人で話したとき、名誉を守ると、おっしゃられたのが気になって」

「それは大切なことでは」

「そうなのだけれど。何かちょっと。あの、ごめんなさい。疲れてしまったの。もう休みます」


 武子は昼間のことを思い返しては、馨に会わなくてはと、気が急いていた。明日には大阪に行ってしまう。

 馨の長屋は戸が開いていた。

「馨さん、おいでですか」

 浴衣姿の馨が出てきた。

「武さんこんな時間になぜ」

「お話を、きちんとお聞きしたくて」

 馨は武子の顎を手で持ち上げると、唇を合わせてきた。しかし武子は受け入れなかった。

「私は確かめに来たのです。貴方の本当の気持ちを」

 馨はキスを諦めた。


 こうなると武子は納得するまで帰らないだろう。荒っぽいが抱いてしまうか。夜のことを気にしているようだから、それが一番いいのだが。だが今は、それをしたくない、というかできない、ならば。


 馨は奥の座敷に武子を引き連れて行った。

「僕は武さんを、共に人生を歩みたい女子おなごだと、思うたからじゃが」

「ではなぜ、昨夜のことは忘れろとか、結婚するか別れるかの選択を」

「あれは僕の言い方が悪かった。試すようなことをしてしまった。僕は武さんに惚れとる。愛おしいと思っとる。それをわかっとるから武さんも」

「では、ここで夜を過ごしてもよろしいですね」

「それは… 屋敷内の人の目もあろう。僕も明日は早い。武さんは帰りなさい」

「わかりました。ご迷惑をおかけしました」

「待ってくれんか。武さんはわしの何を気にしちょるんじゃ。夫婦になるんじゃよ。わしは大隈の言う通り、死ぬまで別れぬと誓う、その気持ちに偽りはない」

「大丈夫です。こうしてお顔を見られたのです。お早い東京へのお戻りを、お待ちしています」

 武子は微笑んでみせて、歩きだしていた。馨は後ろから抱きしめて、耳元で囁く。

「しばらくしたら、一緒に暮らすことになろう」

「はい」

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