踏み出す時に

第11話 ともに生きること

 築地の大隈邸は相変わらずの状態で、開明派が集まる築地梁山泊つきじりょうざんぱくと異名を取るようになっていた。

「すまん、綾子。今日からしばらくかをるが寝泊まりすることになった」

「長屋の方は大丈夫です」

 出迎えた綾子が言った。

「綾さん、世話になります」

 馨は綾子に挨拶していた。


 居間のソファに座って、馨は大隈と話し始めた。

「はぁ、今日は大久保さんにも怒られたしの。やるせない一日じゃ」

 馨はため息をついて、また話を続けた。

造幣寮ぞうへいりょうもほぼ形になったことだし、造幣寮ぞうへいりょうを辞めて、他の通商や大阪府の仕事をするという話が、全て辞めて山口に帰るという、思い違いになっておったらしい。わしは大阪で大蔵大丞も兼任じゃからの。それで、大久保さんがそんな中途半端な状態での辞任は許さぬとお怒りだとな。まぁ山口に帰りたいと言うんは、ずっとあることじゃから間違いとは言い切れん」

「そげんな話初めて聞いた」

「まぁ木戸さんも山口に帰りたいとようゆうちょるらしい。実際度々山口に帰って、中々出てこないこともあるしの。それで、木戸さんといい、おぬしといい、全く長州は、みたいな言い方されてコツンと」

「切れたのか」

「いや、流石に人は選ぶ」

「おぬしでも大久保さんは不得手ふえてか」

「あの冷たい目で見られると、引き下がる方がええと、心の声がするんじゃ」

「そりゃええ感を、持っとるばい」

「誤解は解けたからええんじゃ」

「聞多は来てるか?」


 聞多と言う聞き慣れた声とともに、隣の住民の伊藤博文が現れた。

「俊輔、久しいのう」

 馨が答えた。バタバタと足音を立てながら、伊藤は馨の隣に座った。

「久しいのう、じゃない。まったく」

「俊輔、何を怒っとるんじゃ」


 少し離れたテーブルで、武子は綾子とともに三人の様子を見ていた。

 それにしてもこの二人、井上と伊藤は、年上の馨が奔放ほんぽうで、伊藤のほうが、たしなめているように見えるのが、可笑おかしい。


 ここでもまた馨に、説教しているように見える。

「聞多、どういうことだ。造幣寮の仕事が一段落したら、兵庫県知事に転任したいだと」

「誰から聞いた、では無いのう。岩倉さんに、内密の相談じゃったのだが。大久保さんか」

「大隈さんと話をして決めた。聞多には東京に出てきてもらう」

「随分突然の話じゃ。東京と山口は遠いのお。わしは家のことも考えないかんのじゃ」

「兄上のことか」

「そうじゃ、義姉上がなくなり、兄上も亡くなられた。母上がお一人で家のこと、家族のことをされて大変なんじゃ。母上も病いがちだしのう。おぬしだってお梅さんから聞いておるはずじゃろ」

「僕はアメリカに財政研究に行く。お許しも出た。大蔵で僕の後を頼めるのは、聞多しかいない」

「そうである。馨が東京に出てこんと、吾輩らの仕事が止まるのである」

 ようやく大隈の番が回ってきた。

「隈まで俊輔と一緒になぁ。大体大久保さん達に押し切られて、民部と大蔵が分離させられたしの。そんな中でわしに何ができる」

「聞多のことは、木戸さんだって期待してる」

「木戸さんかぁ、やるしかないかの」


 そして馨が、アメリカに視察に行く伊藤博文の代わりに、東京の大蔵省に異動することになったのだ。この期を逃さず、大隈は、井上と武子の婚礼をしてしまおうと、準備をしていた。


 夜、一通り落ち着くと、馨に伴われて、長屋に二人で入った。武子は、母屋から、茶と酒とつまみになりそうなものを、持って入った。


 座敷にそれを置くと、馨が話しだした。

「武さん、さっきの話聞こえていたかと思うがの」

「はい、兄上様がお亡くなりに」

「そうじゃ、義姉上も亡くなっておってなぁ。身体の弱い母上が、山口で4人の子達の面倒を見る、というのは無理じゃと思っちょるんじゃ。幸い兄上のお子の内二人は養子に行くことになっちょる」

 馨が武子に向き直って、続けていった。

「それでの、母上と二人の男子を東京に連れてくることにしたい。突然のことですまんが、よろしく頼む」

「何をおっしゃるかと思えば。私は大隈様や伊藤様から、馨さんのこと色々お聞きしました。お家のことも。御母上様とお子のお世話、私にさせてください」

 そう言って、武子は頭を下げていた。

「武さんのその言葉、とてもうれしいの」

「私達は共に歩んでいくのですよね。当然の事でございます」

「そうじゃ」

 おもわず馨は武子を抱き寄せた。

「武さんはわしの天女様じゃ」

「もう、東京と大阪の往復もなくなるの。これで、武さんとの生活の場を、決めることができる」

「東京で、お待ちしております」

 その言葉を聞いて、馨は武子を抱きしめていた。

「馨さん、苦しゅうございます」

「おぉ、すまん。力を入れすぎたようじゃ」

 馨は抱きしめていた手を離すと、武子に言った。

「もう遅いから、母屋おもやに帰ったらどうじゃ」

「えっ。はい。わかりました」

「また明日」

 玄関まで送って、武子が母屋に向かうのを見ていた。


 武子は振り向いて、馨がどういう顔をしているのか見たかった。

 しかし未練がましいと思われるのも嫌だったので、そのまま自分の部屋に向かった。綾子にも会わずに済んでよかったと思うしか無かった。

 なにしろ、自分は馨には、女として求められていないのかと、思ってしまうのが嫌になってくる。

 庭の築山や東屋に行くのも、物欲しげに思われたらと、心の中は雑念でいっぱいだった。どれだけ、自分は馨にドキドキすればいいのかと。以前のような、冷静な心に戻りたい。


 そして、馨は大阪に戻り、武子は約束された再会の日を待つことになった。

 伊藤のアメリカ行きの前に、引き継ぎと送別会と婚礼のために、上京することが決まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る