第13話 結ばれぬ夜から

 朝になって起きると、隣の布団は寝た跡すらなかった。

 綾子の協力を得て、女中もすでに置いていたので、共に朝食を用意し、まだ起きてこない「夫」を武子は呼びに行った。

「旦那様、起きてらっしゃいますか」

 この部屋には寝台も置かれていて、馨はまだ寝ていた。

「馨さん、朝食のご用意できております」

 そういって、顔を近づけた時、乱れた襟元から首筋の痣が見えた。

「えっ、これは…」

「うんあぁ、武さんか。すまんもう朝か」

 目を覚ました馨は、覗き込んだ武子の目線が、顔にないことに気付き、慌てて襟元を整えた。

「朝食ができてます。お顔を洗われたら、お召し上がりください」

「そうするかの」


 馨が食堂に行くと、一人分がテーブルに置かれていた。

「これは、わしの分か」

「はい、そうですが。どうかしましたか」

「武さんの分は、どうしたのじゃ」

「私の分は台所で」

「武さん、武さんもここで、一緒に食べるのじゃ。ここに持ってきなさい」

 そう言って、向かいの席に座らせた。

「そう、それでええ」

 にこやかに馨が笑いながら言った。

「今日は特に用事は無かったが、木戸さんのところに挨拶に行こうと思うちょる。武さんも一緒に。大丈夫か」

「はい、大丈夫です」

「それと、食事をなるべく洋食にしたいのだが。洋食の作り方といったものを、武さんには、築地の外国人のところに行って、学んで欲しい」

「はい、そのようにします」

 馨は食べ終わると、武子に向かって確認した。

「昼過ぎに出かけるからそのつもりで頼む」

 また書斎に行ってしまった。


 片付けながら、女中のまりに洋食って知ってる? とか色々話しかけていた。

 その後も馨が東京の家にいることを知った、三井の三野村が新居祝いと結婚祝いを持ってきたりして、あっという間に昼になった。


 木戸さんのところにいくというけれど、手土産とか持つべきではと思った。

武子は、贈り物の中から、珍しい菓子を選ぶときれいな風呂敷に包んでおいた。

「武さん、出かけるぞ。支度はできているかの」

「はい、ここにおります」

「それでは出かけるかの」


 木戸のところにつくと、武子は手土産を松子に渡し、挨拶をした。馨は松子に武子を紹介していた。

 木戸の部屋に二人で通されて、座った。

「聞多がやっと、身を固めるというから驚いたが、武子さんなら納得するな。あなたはまさに聞多の天女様だ」

「まぁ、皆様お話がお上手で驚きます。天女は無理でしょうが、しっかりお支えしていきたいと、思っております」

「木戸さん、わしのワイフは、しっかり者で助けられとる」

「確かに、聞多のそそっかしさは、天下一だからな」

「そげなことは、バラさないでほしいの。夫としての威厳がのうなる」

 馨は武子の方を向いて笑った。武子は笑い顔を見ることができて、ホッとしていた。武子も自然と笑顔になっていた。

「武子さん、旦那様方は本当に、引っきり無しにお会いになるの。負けないくらいのお友達になりましょう」

 松子はやさしくそれでいて、しっかりしている女性だと、武子にもすぐにわかった。

「はい、松子さんにそう言っていただけると、とても嬉しく思います」

「これは、私達も心せねば、奥方様たちに締められてしまうね」

「わしは大丈夫じゃと、思うとりますよ。武さんは優しいから」

 馨が武子をちらっと見て、笑って言った。木戸も馨と目を合わせて笑っていた。

「まぁそんな事を言っていられるのも、新婚のうちだろう。じきにつのを見ることになるだろうね」

「まぁ、松子さん。よろしいのですか」

「気になさることではないわ。旦那様を手のひらの上で転がすのも、妻の務めでございますよ」

「ありがたいお言葉として、頂戴いたします」

 松子の口ぶりに、笑いながら武子は答えた。ほっとするのと少し腹がすわるのと、勇気ももらえた気がした。

「井上様は、ご友情にも篤い方ですから色々と大変かと」

「伊藤様や山縣様大隈様とは、色々とお話をさせていただいております」

「それは、面白いでしょう」

「はい、こう言うのはすこし、ですが。悪ガキが遊んでいるまま、大人になったようです」

「木戸さん、酷くないかの。わしら悪ガキか」

「悪ガキだろう。私はいつも頭を痛めておったよ」

「木戸さんまで」

 馨はむくれて見せていたが、武子の方を見ると笑い出した。

「仕様がないの、武さんの手のひらで転がされるかの」

 夕食も御馳走になり、楽しく時間が過ぎた。木戸の屋敷を失礼して、二人で帰宅した。


「わしはまだ、やらにゃぁいけんことが、残っているので、書斎におる。武さんは疲れただろうから、先に休むとええ」

 馨は家につくと、昨晩と同じことを言っていた。

「わかりました」

 武子は答えると、明日の朝食の準備を確認して、寝室で本を読んでいた。


 結構時間は経ったのに、足音一つしない家の中で、武子は苛立っていた。もしかしたら、馨は首筋の痣を気にして、寝所をともにしたくないのではと、思いあたった。寝室を出て、台所で茶を入れると、書斎に向かった。


「馨さん、旦那様。入りますね」

「武さん、休んでいるんじゃ…」

「お茶をお持ちしました。休憩を」

 そう言うと、机の空いているところに、茶と菓子をのせた盆をおいた。


 武子は馨の目をじっと見て言った。

「私を避けておいでではないかと思いました。私をうとまれているのであれば、そのようにおっしゃっていただきたいです。ただ馨さんが、何をつけておられても、私は気になどいたしません。妻となったわけですから。それを申し上げに参りました」

 難しい顔をしていた馨が、武子を見上げて笑った。

「そもそもわしが、武さんをうとむなど、あり得んことじゃ。なぜそのようなことを」

「それは、あのときの夜以来…。私は馨さんの妻として…」

 さっきの勢いとは打って変わって、まばたきを繰り返し、顔を赤らめて口ごもる武子に、馨ははっとして言った。

「そうじゃったな。わしも夫となったのであったな」

「そうですとも、夫婦となって、共に生きていくことを、決めたのです。隠し事は無いものと、していただきたい」

「武さんも隠し事はせぬと」

「私には、秘すようなことはございません」

 きっぱりと武子は馨の目を見ていった。そうだった。武子の真っ直ぐさは、馨にとって得難いものに、思えていたのだった。あの夜のことは、自分が気にしなければ、良いことなのだ。武子を欲しいと思ったのも自分だろう。そう思うと、武子を抱きしめていた。


「武さんはわしの天女じゃ」

 馨は武子に口づけた。唇を離すと、抱き上げて寝台に運んだ。

「心配させたようで、すまんかった。ここから仕切り直しでええか」

「そのようなこと。嬉しゅうございます」

 武子も馨に抱きついていた。馨は武子の手を外し、また口づけをした。手は寝間着の帯を外し、胸の膨らみを辿っていた。キスをした唇は胸の膨らみを吸い、手は腹をなでてその下に。武子は声を上げるのを我慢していたように見えた。


「武さん、声を上げてくれんか。武さんの声が聞きたいんじゃ」

 武子は鳥のさえずりのような声を立て、ときどき馨の名を呼んだ。

「この声が聞きたかったのじゃ」

 思わず馨はつぶやき、己の恋が叶ったのを知った。一つになれた喜びは、今までにないものだった。体を離したあとも、馨は武子の感じやすいところを触るのをやめなかった。

 ふっと武子は頭を上げ、馨の左胸に吸い付いた。ここはドキドキのもとにある場所だと思った。

「私は馨さんの心の臓をいただきます。ここは私のものです」

「わしは切り刻まれるのか」

「それは、馨さん次第です」

「わしは、武さんのすべてが欲しい」

「私はそのつもりです」

 武子の黒い瞳が揺れた。馨は心の中の奥がうずくのを感じた。何があっても手離したくない人が、ここにいる。馨は武子に口づけをしていた。


 馨の唇が離れると武子は、馨の右頬にある傷痕きずあとを指でなぞっていた。

「結構大きな傷痕ですね。背中にもたくさん」

「長州の混乱の中心に居ったようじゃったからの。何度か死にかけたが、こうして命をつないだ」

「生きておられて、嬉しゅうございます。こうやって馨さんと」

「そうじゃな。おかげで不死身の聞多と呼ばれることもあるんじゃ」

「それは安心です。大隈様の屋敷では、怖い文を」

「大丈夫じゃ。心配することはないんじゃよ」

「本当ですね。お約束ですよ」

 武子はそう言うと、自ら馨に口づけをした。そして、その胸に顔を埋めた。呼吸や胸の音を感じることで、生きている馨を実感できるので安心だった。武子は馨に抱きしめられて眠った。この人のぬくもりが、自分の心を満たしてくれると知ったので、自分も馨の心を満たせるようになりたいと思った。

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