第14話 友と恋敵は

 翌朝、馨は寝台の端に手を伸ばしたが、武子はもういなかった。朝は早くからしなくてはならない事が、女主人にはあるのか。などと思いを巡らしていたら、客がやってきた。


「おはようございます、伊藤様。どうかなさいましたか」

 武子が応対している間に、馨は寝間着から着替えた。

「聞多いるか。入るぞ」

「俊輔、用は夜じゃなかったかの。行く約束は忘れとらんぞ」

「どういうことだ。中井と親密になっておいて、僕のことはどうでもええんか」

「何を言っとるんじゃ。俊輔でも、わしのことをそげな物言いするんは好まんぞ」

 怒り出した馨を見た博文は、肩を落としていた。

「その首筋の痣、中井がつけた物だろう。そう言っとった。中井が聞多と特別な関係を持ったと。聞多がそのようなことするはずないと思っても、痣があるんを知っとるから、確かめに来たんじゃ」

「確かにこれは中井がつけた。じゃが俊輔が妄想するようなことはないんじゃ。婚礼の準備中首筋にキスをされた。それだけじゃ。そもそも何じゃ特別な関係とは。薩摩ではあっても長州では無いじゃろ。まったく、俊輔が踊らされとるとは、情けないの」

「聞多、すまん」

 馨は仕方がないなと言いながら、博文のことをあやすように抱きしめていた。

「これでええか。そうじゃ、俊輔。せっかくだから朝飯食っていけ」

「良くない、僕も聞多に印を残すんじゃ」

「それはやめてくれんか。武さんに遊びにいったと疑われる」

「それもいいかもしれんの。武さんに愛想を尽かされたら、僕が守ってやるよ」


 博文の言葉を聞いて、ふっと思い出した。中井は自分のことを面倒見ると言ったのかもしれない。

 武子をはさんで、ある意味特別な関係になったのは確かなことなのだ。中井のところに行こう。いや行くべきだ。博文の言葉でそう決心したのは、皮肉なことかもしれなかった。

「貴方、伊藤様も朝ごはんを召し上がってください」

 武子が様子を見に来た。馨は少しホッとした。これで博文からは、される心配はなくなった。

「武さんが呼びに来たぞ。早う行かんと明日からの朝飯が無うなる」

「聞多の生活壊すわけにはいかんな。新婚じゃもの」


 こんな形で、博文と朝食を共にするなど、久々のことで新鮮だった。武子と二人で出仕する博文を見送ると、馨も外出する支度をした。

「馨さん、おでかけですか。今日は夜から伊藤様のところに行かれる以外のご予定は」

「ちょっと用事を思い出したのじゃ。では、でかけてくる。そのまま、俊輔の家に行くので、食事はいらん」

「行ってらっしゃいませ」

 武子は馨を見送った。これで、今晩遅くまで一人で過ごすのかと思うと、ほっとするのと、寂しさが両方やってきた。この時間を有意義に使うことが、妻としての務めでもあると思うと、やるべきことはと、動き出していた。


「たしか、ここで良かったはずだ」

 馨は見慣れない街で、中井の家と言われたところを訪ねていた。

「すまんが、どなたかおいでか」

 家の中に声をかけてみた。

でてきた女中らしき女性に、「ここは中井さんの家ですか」と聞いた。

「そうです」

「ご主人はご在宅ですか。井上というものですが」

 そう言うと、奥の方から出てくる影があった。

「聞多さん、こんなところにまで」

 中井弘が言った。

「中井、少し話をしとうて来てしもうた」

「どうぞ、お上がりください。本当になにもないですが」

 そう言うと、中井は応接間として使っているような部屋に招き入れた。


「すまんの、突然来たのに」

「いや、来てくれてうれしい」

「せっかくじゃ。ゆっくり話をしとうてな」

「おいは薩摩を引き払ろうて、政府へ出仕すっことにしたんじゃ」

「それでは東京住まいに」

「いずれは家族も呼ぼうと思っとる。そうは言っても妻とも別れたが」

 馨はこの言葉に驚いた。もしかして武子を迎えに来たのかと、思ったのだ。

「武子さんと、よりをもどすつもりじゃったのか」

 思わず出た言葉だった。

「そげんなことじゃなか。大隈さんの屋敷に行けば、仲間の顔が見られると思っただけだ」

 馨は中井の顔をまじまじと見つめていた。中井は笑いながら言った。

「聞多さん、おいは、薩摩では謹慎みたいな生活だった。じゃっで皆で語り合うた時が懐かしかった。いっばん会いたかったとが聞多さんだ。こうして話ができる日が待ち遠しかった」

「そうか、わしはかなり驚いたんじゃよ。武子さんを寝取った間男と、斬られるんじゃないかとな」

「彼女が選んだ以上、おいに口出しはできん。あのお人は自分で選び取る」

「たしかにそうじゃ。わしも武さんの意志の強さには勝てん」

「聞多さんも尻に敷かれるんか。それは面白い。そうじゃ大事な事を聞かんと」

「何じゃ」

「聞多さんは、東京にお勤めに」

「今は大阪じゃ。造幣局と大蔵大丞を兼任しちょる。じゃが今度東京に赴任が決まった。俊輔がアメリカに行くんで、代わりじゃ」

「それは楽しみじゃ。聞多さん宅に遊びに行ける」

「ぜひ来てくれ。おっすまん。こんな時間じゃ。そろそろ失礼せねば」

「そうですか。また聞多さんも気軽に来てください」

 そう言って二人は立ち上がった。


 中井は玄関まで見送ると、馨を抱きしめて耳元で囁いた。

「聞多さん。おいたちは特別な関係じゃ。他の人とは違う。おいにとって、こんなにうれしいことはない」

「中井、わしにとっては大切な友じゃ。それ以上でもそれ以下でもないぞ」

 馨は釘を差したつもりだった。

「聞多さんとハグができる人間など、そうはおらんやろう」

「そうじゃな」

 そう言って馨は中井から離れて行った。


 次に行った伊藤の家で、馨は渋沢栄一と出会った。

「おぬしが、渋沢か、わしが井上馨じゃ。これからよろしゅう頼む」

 渋沢が到着したところで、玄関に馨が迎えに行って、まず挨拶していた。

「渋沢栄一と申します。この度はご一緒することになります。ご挨拶ありがとうございます」

 一通り食事が済んで、酒も進んだ頃、そろそろお暇すると伊藤の屋敷を出た。

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