開花前夜 ―陳琳が曹操に降るまで― (2)

(2)184年(30歳)初めての戦争


 ぱっとしない家柄で官吏をやることの難しさをひしひしと感じている。

 まず発言権がない。俺は言葉で人の心を掴んで変える才能はある。逆に言えば、言葉を使えなきゃ俺は何もできない。家格のよろしい奴らがホイホイとエリート街道をゆくのを遠目に見ながら、エリートたちがやりたがらない地味で面倒な仕事を粛々とこなす。

「俺は帳簿つける為に仕官してんじゃねーんだよ」

「おおっ今日は荒れてるね」

 混み合った飲み屋の狭い机を同僚と挟む。ニラばかりの餃子を大して噛みもせずに酒で流し込む。故郷・射陽には無かった行儀の悪い食生活にもすっかり慣れてしまった。

「聞け、元義。俺は年明けから将作大匠の掾属だ。将作大匠って、宮大工だぜ。俺今度は設計図でも書くのかもしれねえな」

 その将作大匠になるのは、何逐高という地方豪族だ。妹が皇帝に見初められて何皇后になり、そのお陰で異例の出世を遂げている男だ。朝廷の連中はこういう家柄も実力もない奴がコネでのし上がることが嫌いだ。自分と正反対の存在だから。

 俺も家柄とか無い身分ではあるけれど、俺の葛藤なんざ分からねえんだろうなと思えばいい気はしない。

「孔璋は人事の運が無いな。そうか、次から別の部署か」

 同僚の馬元義は人の良さそうな眉を下げ、つまらなさそうに頬杖をつく。こいつの家格も経歴も分からないが、共に働いていて有能な奴だなと思う。けれどいち官吏に留まっている。既得権益にしがみつく貴族のせいで、俺たちみたいなぽっと出はいいように使い捨てられていくのだろう。

「でもよ。俺たちはいつか出世するんだ。目指すは大きく尚書令だ!」

「ああ、絶対に一旗揚げよう」

 杯をぶつけあう。もしかしたら、またどこかでこの同僚とは酌み交わせるかもしれない。

 年が明ける。何遂高は大柄で筋肉質、文官の恰好がてんで似合わないゴロツキのボスのような男だった。

「おい、陳。この工事の手配はどうした」

「そんなすぐやって欲しいんだったら、もっと前から言ってくれませんかね」

 仕事は宮大工の現場監督。人材や資材を運用することや、現場に行って指示を出すこともある。洛陽の都は常に新しい御殿や廟の工事が行われていて絶えることがない。絶えず何かの工事を続けていることが皇帝の威信を示す手段の一つになる。

「じゃあいつまでに出せと言え。俺は書類仕事のことは分からんと言ったはずだ」

「出るか分からないモンを出せとは言えません。とにかく早く言ってください」

 何逐高は想像以上に嫌われ者で、一方で何皇后のお陰か皇帝からの信頼は厚い。お陰で腫れ物だ。仕事に多少の差し支えが出ても、その日の自分の仕事が穏やかであればいい、という姿勢で多くの官吏が働いている。

 が、その姿勢でやられると皺寄せが現場監督の俺に来る。全部俺が被るなんてことは割に合わないので、何逐高に直談判することも増える。いくら俺は言葉の天才って言ったって、やってる事が諫言なのだから昇進に繋がる気もしない。本当に、割に合わない。

 とりあえず今日も何逐高をどうにか丸めこむ。全く俺の才能はこんな事に使いたいんじゃないんだ。二月に入り故郷より遠く北の洛陽は昼間でも空気が冷えきっている。ため息を殺して現場へ戻ろうとしたとき、「失礼します!」と緊迫した声がする。そちらを向けば、上質な衣服をまとったエリート風の男が拱手をして何逐高に対して頭を下げている。

「将作大匠。折り入ってご報告したいことがございます。人払いを」

 男の言葉を聞いて何逐高はあたりを見回す。するとその場に居合わせた官吏たちはみな弾かれたように立ち上がり、軽く礼をして退出していく。俺はその素早さにあっけに取られながら、波に乗ろうとする。

「陳。お前は留まれ」

 しかし何逐高に声をかけられ、一瞬人の波がぴたっと止まって俺を見る。なんでまた、この口うるさい男が。しかし身の安全が第一だ、官吏たちはまた流れを作って外へ出ていく。

「はい? 私ですか」

「この者が刺客の可能性もある。一人くらいよかろうな、伝令の者」

 ちょっといかめしい言葉遣いで男を睨むと、男は少し震えて「は、はいっ」と声を上げる。刺客だなんて、と思ってから、何逐高という男はそういう世界を生きているのかと気付く。伝令の男は部屋に何逐高、彼、俺の三人だけになったことを確かめて、声を潜める。

「内密の情報です。黄巾の幹部の一人から、洛陽襲撃の計について密告が入りました」

 あんぐり、口を開ける。黄巾って、最近各地で暴動を起こしているカルト教団か。遠くで起こっていることと思っていたが、洛陽襲撃の計と言ったか。

「承った。決行前に密偵を捕らえればよいのだな」

 頭が追いつかない。そうか、襲撃が首尾よくいくように、確かに密偵が入っている可能性はある。しかしここは宮大工の部署であり、俺たちは警邏でもない。伝令の男も目を丸くしている。

「いや、私の役目は襲撃に備えるようにお伝えせよというだけで」

「だが衛尉たちが動けば向こうに密告を知らせるようなもの。我々は広く宮中の土木工事を担う。つまりは最も宮中の地理に明るい」

 はっとする。これから起こるのは異常事態であり、ならば俺たちの動きだって常時とは異なるものになって然るべき。

「その幹部は密偵のことも言っていただろう、何か聞いているか」

 今まで人脈だけでと内心侮ってきた男の采配に目を奪われる。どういうことだ。こいつは数年前まで屠殺業で生計を立てるそこら辺の男だったはず。地域の指導者だったかもしれないが、豪族出身の俺と変わらないような身分だった筈なのだ。

「はい、密偵の名は馬元義といい、官吏としてどこかに潜伏しているようですが、場所までは」

「元義!?」

 思わず声を出す。先程までだんまりだった男が急に大声を張り上げたので伝令の男は肩を大きく震わせる。対する将作大匠は一度目を見開いて、それからまた威圧的な顔に戻る。

「知り合いか」

 俺は友人と呼ぶにふさわしい元同僚の顔を思い浮かべる。頭をガツンと殴られる感覚がする。ああ俺は驚愕と落胆で声が出せないかもしれないと思ったから、既に襲う驚愕をいなして落胆が迫る前に両手で頬を叩く。

「前部署の同僚です。まだ都水台に配属されているので、今行けば出勤しているかと」

 言い切って、落胆に追いつかれる。なあ元義、共に尚書令を目指すんじゃなかったのか。

 徒党千人と首謀者馬元義は速やかに捕らえられる。今の黄巾の勢力で一気に洛陽を攻めることは、すなわち国家を転覆させるということだ。反乱者たちは明日刑場の露となる。俺は落胆を振り切ることができずに昼間を過ごし、夜になる。このまま見送っていいんだろうか。元義は、確かに俺の元同僚であり友だった。

 繊月がやけに心細い。夜風は骨に沁みるほど冷えきっていて、皮膚を裂くような音が牢の小窓から見える。喉を震わすその前の、息を吸うために口を開く骨の軋みが囚人に聞こえやしないか怯えて、結局鼻で息を吸った。余計に凍った気が肺のすみずみに届いてしまう。肺のいちばん端に諦念が滲む。

「あんたを捕らえるなんざ思ってもいなかった」

 元義は大声を上げて笑う奴だった。いつだって目玉が飛び出るかと思うほど瞼をかっと開いた男だった。それが音もたてずに笑う。笑顔という表情がこんなにも夜闇を支配することがあるのだ。

「俺も、君の手で捕らえられるとは思っていなかったさ」

 唇には後悔も悲哀もなく、何か満足と期待が入り混じったように柔らかく弧を描いている。気付いてしまった。囚人は最初から同僚ではなく密偵だった。

「孔璋。蒼天は已に死んだ。死んだんだ」

「やめろよ」

「満ち足りた気分だ。俺はこの上ない鏑矢になるだろう?」

 囚人は短く息を吸った。多分これが俺に届く最後の呼吸音だ。

「死臭の蔓延るこの天を裂いて、革命を報せる鏑矢だ」

 満ち足りた奴の笑顔がそんなに闇に溶けるもんかよ。出かかった言葉を震わせる術を俺はまだ持ってはいなかった。


 刑は滞りなく執行された。一方で、馬元義捕縛を受けて更なる報復を想定した体制作りが進められる。

「陳。話がある」

 日ましに風は冷たく鋭くなっていく。将作大匠はこの度、対黄巾洛陽防衛の任のため非常職である大将軍に任命されることが決まっている。大層なことで。俺は俺でこの数日、文官には文官の戦争のやり方があることをひしひしと感じている。終業時刻を少し過ぎて尚粘ろうとする俺を、将作大匠は呼び出す。

「お前、大将軍主簿を務める気はないか」

 他の者は帰って静かになった執務室は、そのうちに埃も凍ってしまうかもしれない。

「主簿、私がですか」

 つまりは秘書官、文官の中では高級官僚にあたる。而立の三十を過ぎて数年の若輩が就ける役職ではない。大抜擢だった。今日まさに首都防衛のための工事現場へ出向いてきて、裾には払いきれなかった土がまだついている。

「他の文官も、モノを言わせて名士を集めてくる。孔文挙は分かるか、かの孔子の末裔だ」

 背筋が伸びる。司徒掾属として宦官の不正を暴く活躍をしてまだ日の浅い彼は、実はさほど歳が離れていない。家格も実力もある、エリート中のエリートだ。そんな彼と、俺は並び立つというのか。

「受けます。是非受けます。ですが、何故私なんですか」

 夢にまで見た出世だ。しかも主簿はあらゆる軍事文書を手掛ける。つまり俺の本領、言葉の力で戦える役職だ。あまりに、都合が良すぎる。将作大匠は背もたれに体重を預けて脱力したように見える。

「お前は俺が嫌いだろ?」

「はあ?」

「しかし俺がコネで出世したからじゃなく、ただの肉屋が重要なポストについているのが気に食わないと見える」

 閉口する。細かいことを言えばいくらでも反論はできたけれど、それよりも大枠を見破られていることへの衝撃が強い。

「嫌いというより、妬ましい、が近いですね」

 俺と何逐高の間にどれだけの違いがあるのか。いや、明確に違う何かがある。コネだけじゃない何かが。当たり障りなく官僚として生きていくにはここで会話を終わらせなくてはいけないけれど、今俺にはもう一つの選択肢がある。

「俺だっていち豪族の出ですがね、この乱世に矢を射る志を持って田舎を出てきてんです。それをあんた目の前でやられちゃあ、穏やかじゃいられませんや」

 それは賭けに近い。この何逐高と、腹を割って話す選択肢をあえて選ぶ。俺を見据えていた威圧的な目が、少し間を空けて弧を描く。

「屠殺業者は腕っ節が必要でな、そんな奴らをまとめ上げるには相当な力が要るもんだ」

 何逐高は勢いをつけて立ち上がり、大きな目で俺を見下ろした。

「お前は帳簿をつけるよりも、文官として戦争がやりたいんだろ?」

 見上げてめまいがする。指導者なんて崇高なものじゃない。元締めだ、こういうのは。

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