王粲の幻覚ツイート&解説(?)まとめ
①阮瑀の死後寡婦の賦を作る王粲いいね、奇才の兄弟子と師の蔵書を受け継ぐ天才の弟弟子
何がいいねだ人の死をおもちゃにしやがって。しかも王粲は蔡邕を尋ねてはいますが師事したかどうかは分かりません。勝手に二人に蔡邕と縁があるという共通点を見出しているだけです。けど事実王粲は阮瑀の死後にその死を悼む作品を書いています。文体が賦(ながうた)なのもいいですね。当時は古詩より賦の方がより韻文の中心でしたから。
②蔡邕の蔵書は王粲の甥に引き継がれるけど、その甥の子が王弼、玄学の祖じゃ!まあすぐ死んで断絶するけど…蔡邕の書は??
蔡邕から蔵書あげるよって言われてるけど本当に受け継いだかは分かりません。けど受け継いだことにしましょう。王業について、王粲の書を受け継いだ(王粲の実の子は王粲死後ちょっとして殺されている)との記述もあります。そんで多分王弼にだって伝わっています。けど王弼は早死にです。当時の玄学というか清流派の面々に引き継がれていったのでしょうか。でも誰に?阮咸とかですかね。結局はどこかで失われてしまうのでしょうが、出来るだけ長く継がれていってほしいものです。
③天才なのにハングリー精神あるのすごいね王粲
これは王粲のエピソードの「偉くなったけど夜になっても曹操の所に行って仕事をくれと喚いていた」というやつからです。とんでもない社畜根性ですね。曹操のもとに来るまでは徐州で重用されない不遇な時代を過ごしていたので、染み付いてしまったのかもしれない。ワーカーホリックもいいところですよ。よく言えば、いつだって向上心があるって事でしょうか。どこまでいったら満足するんですかね。
④王粲も一瞬軍謀祭酒だったのね、陳琳阮瑀の後輩だね、もっと遡れば孔融もいるよ、七子の系譜ってやつだね
王粲は208年に曹操の徐州攻略を手引きし、これをきっかけに曹操のもとにつきます。この直後曹操は丞相に就任。暫くは丞相の軍謀祭酒として働きます。軍謀祭酒とは何か、心構え等々を陳琳や阮瑀から聞いたりもしているかも。ところでこの「軍謀祭酒」という役職、郭嘉などが任じられた「軍師祭酒」の表記ゆれなのか別物なのかという話がちょこちょこされていますね。私は別物だったんじゃないかと思います。多分軍師祭酒って戦闘の作戦とかばんばん献策するじゃないですか。そんな諸葛亮みたいな才能は内政の才能とは別物だと思います。人材オタクの曹操がそこら辺十把ひとからげに祭酒!とするでしょうか?ただまあ当時は今と比べて全然分業という考え方も馴染みがあるものではなかったと思うので、何とも言えません。
⑤割と幼くして父を喪って、訪問しに行った蔡邕もとっとと死んで、荊州に行ったら荊州ぐちゃぐちゃになって、さてはお前疫病神か?
王粲の伝を読んでいつも思うこと。人生がドラマチックすぎるんですよね。
⑥蔡琰とはタメだし長安時代は天才同士よく言い合ったり認め合ったり束の間の青春しててほしい、その後二人とも苦渋の日々になるから
蔡琰が王粲の初恋の相手だったらエモくない?エモよりもつらみの方が勝つかも
二連続! 蔡琰は蔡邕の娘。蔡邕死後匈奴に嫁がされ、暫くして子が育ってきた頃に中原へ連れ戻され、その後は養子をとって暮らしています。悲劇のヒロインです。そんな蔡琰はなんと王粲とタメ。蔡邕が生きていた頃は平和に仲良くしていたかもしれません。束の間の青春をどうか謳歌していてほしいですね。
⑦劉備の叛詩、あれのゴーストライター王粲じゃね?
演義で登場する、劉備が書いたと紹介される詩は、結局劉備はこんなの書かないと不発に終わる訳ですが、そもそもあの詩は誰が考えて書いたのでしょうか? 王粲は徐州をさっさと曹操に引き渡したい一派の一人。劉備とは違う立場だったわけです。また王粲は厚遇されませんでしたので、ゴーストライターとかそういう名前が出ない仕事に充てられることもあったのでは。そうすると叛詩は王粲の作かもですし、何より叛詩に表れたクソくらえ的な心情は、まさしく王粲の気持ちだったかもしれません。
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