応瑒の幻覚ツイート&解説(?)まとめ

①応瑒の子は幼少(文脈的に三歳以下)で亡くなってるという記述を見た、どこ情報!?!?まじ!?!?


マジどこで見たんだっけ。卒論やりながら見ては!?!?!?となった記憶があります。急いで七子集の応瑒のとこ捲ったんすけどそれっぽい作品も見つけられず。出処どこですか!?教えてツイッター有識者!実際応瑒の子供についてはどこにも記述がありません。弟の応璩の子供三人はちゃんと名前残ってるのに。本当に子どもが夭折してしまっていて、引きずってその後もう子どもを作らなかったのかもしれません。



②応瑒は風俗通の応邵が叔父ってコンプレックスがあって、長男として没落しかけた家を支えて、弟の応璩を育て上げて、えらいね本当に


えらい!応氏は代々漢王朝に仕える学者の家なので漢王朝がズタボロになっていくにつれそれだけで応瑒も大変だったと思いますし、曹操のもとについてやってる事も学問ばかりじゃいられないですし(応瑒は劉楨と同じように曹操が司空だった頃に曹操のもとに来ているとのことです、七子集の年譜いわく)

あと応璩が生まれた190年は都が洛陽から長安に遷都した年です。董卓の洛陽破壊が事実か創作かはさて置くにしても、混乱期に弟ができたことになります。心労もひとしおだったのでは。私の中での応瑒は完全に不憫な苦労人キャラです。



③絶対に劉楨と応瑒にニコイチでいてほしい


伝で二人一気に紹介されているからなのですが、セットにされるには何か理由があったのでは? 現に陳琳と阮瑀は記室繋がりでセットになっています。対する劉楨と応瑒は役職も同じ時期があったのかどうか定かではない書き方です。けれど曹操のもとに来た時点ではヒラだった事、最終的に豆兄弟に仕えているところは同じです。よき友でありライバルであればいいと思います。



④ひいひいひいじいちゃんにあたる応順が東平国相やってる、運命か?


ここでいう運命とは劉楨との接点です。5代上まで遡れば誰かかんかそういう事もあるだろ。運命なんてなかったんだ。



⑤叔父や徐幹みたいに自分も著作を残したかったけど叶わなかったみたいな記述をどっかで見た、途中までは書いてたりしたのかな


応瑒について「学問を志したが書は残せなかった」みたいな説明文を見たことがあります。学者の家に育ちましたし、研究の道への興味があったっておかしくありません。多分応瑒は徐幹が羨ましくて仕方が無かったと思います。引きこもって学問してたら学問する職業についていたんですから。もし応瑒が論文を途中まで書いていたなら、どんな内容だったんでしょうか。



⑥多分若い頃からずっと曹操のもとにいたと思うんだけど、雁の詩とかでもずっと自分の立場の不安定さを言っていたりとかするよな


雁は文選に載ってるやつです。文人が謀叛のつもりがないことを示すため自身の不遇さや君主への恩義を詩中でうたう事は当時のスタンダードだったと思いますが、それにしてもふらふら根っこがない感じの詩が多い。曹丕たちといい人間関係にあったはずだと思いますが、それにしたって自分は不安定だと言葉を連ねます。相当コンプレックス抱えてたかメンヘラアピールかのどっちかだと思います。


⑦劉楨と応瑒は天才と秀才ってイメージ、もちろん応瑒だって十分天才なんだけど

 

そんな報われない兄が最後は流行り病という抗いようのない理不尽な原因で亡くなるさまを近くで見ていたのが弟の応璩です。217年の時点で28歳。流石に叔父の応邵も死んでます。応璩の話になりますが、彼は建安文学と竹林文学のちょうど中間的な作風だったそうです。高官となった応璩は諷喩詩を書きますが、この反権力的な要素は後々に続いていくことになります。そんな応璩本人の詩風は肩の力が抜けたようなかんじ。それは不遇さを嘆いてふらふらする兄の詩風にも似ているように思います。

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