開花前夜 ―陳琳が曹操に降るまで― (1)

(1)175年(21歳)郷里の秀才


 言葉で人の心を変えることができる才能があると思っている。

 口喧嘩で負けたことは無いし、近所の女の子を遊びに誘うのも得意だ。それどころか学問好きの少ない一族のみんなを丸めこんで討論の場へ顔を出したり、徐州じゅうを学び歩いたり、悠々と生きるのに役立っている。

「諱の話、やっぱり連中の半分も原典読んでなかったよな。子源もそう思うだろ?」

 長江は今日も川であることが信じられないほど広い。俺は渡ったことがあるから向こう岸があることを知っているけど、一族のチビすけは長江の向こうには何もないって思っている。水平線は少しも波立たず穏やかで、その川岸で友達とだらだら話すのが好きだ。

「いや、読んでいてもあそこまで覚えてないんじゃないか?」

「そうかぁ?」

 下流からゆっくり遡る風が友――臧子源の前髪を僅かに揺らす。射陽は長江下流域、外れへ行けば河口がある。河口のもっと東には、昏く浩い海がある。

 俺と子源は二人でよく徐州のあちこちへゆく。そうして徐州じゅうの秀才たちと議論を交わすのが好きだ。この前は張子布と王景興という弁の立つやべーやつの舌戦を見てきた。二人ともサシで飲むくらいの仲だが、相変わらずよくもまあその場でべらべらと思いつくものだと思う。論理展開も主張も鮮やかで見ているこちらが舌を巻く。

 こうやって学問の話をしたり聞いたり、俺はいつまでもそうやって過ごしていたいと思っているが。

「子布と言えば、聞いたか。孝廉を蹴った話」

「……聞いたよ」

 中華は俺の生まれた頃から少しずつうねり始めている。

 射陽の陳氏は聖帝舜の末裔と伝えられているが、実情はしがない地方豪族で代々広陵郡の役人をしている。同じ舜を祖に持つ下邳の陳氏が各地の太守や諸侯国相を務めるのに対して、なんともしがない。皇帝のおわす洛陽を踏むこともなく、ともすれば洛陽の位置すら分からずに死ぬ先祖たちのなんと多いことか。それでも豪族という家柄を何百年も続けていられるくらいには、中華は何年も安定していた。

 俺が加冠する前、罪のない清流派官吏が大量に拘禁される事件が起きた。朝廷の春が、夏と秋を飛び越えて長い冬に入る。天子にお仕えすることが男児一番の誉れである時代は終わり、皆それぞれに正義を標榜するような世の中へ変わってきている。

 孝廉は、在野において徳が高く志ある者を推薦して取り立てる制度だ。実際には地方の豪族が独占しているポストだが、それでも孝廉に挙げられることはこの上ない栄誉だったはず。

 それを、張子布という男は蹴った。

「孔璋、俺たちはどうする」

「どうするったってなあ」

 子布はうねる世の流れを見て、彼は仕えるべきは死にかけの朝廷ではないと感じたらしい。

「俺なら孝廉に乗る。いくら腐っていても俺の手で生き返らせてやる」

 子源はずっと、一刻も早く身を立て漢王朝に尽くしたいと言っている。元々野山で遊んでいた彼は、幼い頃に父が突如朝廷に推挙されたことで名家のような暮らしをするようになった。王朝への恩義は固い。

 一方で俺は天子サマへの恩義とか無いし、しかしこのまま学問だけやるのは穀潰しということになり、肩身が狭い。何より、近頃は徐州の中だけで学んで暮らすことに物足りなさを感じている。

「お前はその口八丁があるから詐欺師が向いているんじゃないか」

「馬鹿言えよ、他人事だと思って」

 確かに俺は、言葉で人の心を変えることができる才能があると思っている。しかしいくら人の心が変わっても、それだけじゃびくともしないように秩序ってもんはできている。ため息をつきながら川面に石を投げれば、ぼちゃんと音がして水紋が広がる。流れてきた草が巻き込まれてしばし滞留する。

「あっ」

 長江の流れも乱れればしばし止まることがある。人の心が変わってもびくともしない秩序は、世の中が秩序だっているから成り立つ。今この世は、秩序だっていると言えるか。俺の才能は、乱世だからこそ生かすことができるんじゃないか。

「俺、子布が蹴った孝廉貰いに行くわ」

「はぁ!?」

 思いついたらじっとしていられない。突然立ち上がった俺に子源は馬鹿でかい声で驚いているが、いちいち説明しているのも面倒くさい。

「お前が義で王朝を生き返らせるなら、俺は口八丁で乱世を終わらせるんだよ!」

「待て、行って貰えるものじゃあ……行っちまった」

 孝廉ってのは郡の太守が選出する。そうして俺には遥か遠い親戚に太守がいる。コネとも言えない薄すぎる人脈だが、俺には自信がある。口から紡ぎ筆で織る言葉でもって、俺は人の心を包んで掴むことができる。

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