新月の夜(徐幹と王粲)

 その日、蔡邕の屋敷を訪れた少年を、今でも覚えている。

 蔡邕は当時中華一の学者であった。地方に引きこもって学問を志していた俺とてその名声はよく知っている。その蔡邕が長安にいると聞き、俺は蔵書を読ませてもらいに訪れていた。

 彼は酷く痩せていて、眼は餓えた虎のようにぎょろぎょろとしていた。その名を聞いて、蔡邕は靴もまともに履かぬ間に、玄関を飛び出した。神童なのだと悟った。随分貪欲な神童だと、思ったものだった。


「徐偉長、きみ軍謀祭酒のくせに酒に弱いんだな」

 したり顔で話しかけてくる同僚を睨む。こんなつもりではなかったのだ。今日はこの同僚を労おうと思って酒屋に誘ったのに、激励の言葉ひとつ言えぬままこの有様になってしまった。机にぐったりと寄りかかり頬をつければ、少しひんやりとした感触が心地いい。閉じそうになる瞼をぎぎぎ、とこじ開けて、眉頭に力を入れる。

「きみこそ随分赤ら顔だぞ、王仲宣」

 なんとか肘をつき上体を起こすと、机が揺れて杯の酒がこぼれそうになった。同僚、王粲は慌てて杯を持ち上げる。難は起こらなかったようだ。

「だいたい私はなあ、きみの働きかたが気に食わないんだ」

「ほほう、何だっていうんだ」

 酔った勢いで思ってもないことが口に出る。しかし愚行をどこか遠いところで俯瞰して見ることしかできない。王粲も王粲だ、よせばいいのに持ち上げた杯をそのままに話を促してくる。まずいと思っているのに、きかない口は動く。

「きみはかつて神童で、今でも天下に轟く天才だ。なのに、だ!」

 王粲の手から杯を奪ってぐいと飲み干す。思っていたより多かった酒が脳天を焼く。衝動のままに杯を机にドンと叩きつけて、首を伸ばして王粲を見た。

「昼に夜に政治に詩作、きみは何故そこまで貪欲になれる!」

 張り上げた声に、ああ、と納得した。王粲を酒に誘ったのは、この答えが知りたかったからかもしれない。あの日の少年は、時を経てもその餓えた眼を失ってはいなかった。昇りつめ、金や力を手にして尚、どうしてその眼ができる。私がついぞ持ちえなかった、その眼を。

 王粲はぱちくりと瞬きをして、それから杯を奪われて宙づりになっていた両手を口元で組んだ。

「……私は荒れ果てた長安を見て、悟ったんだ。もう、王朝の春は来ないと」

 その目は机の上、いや、ずっと遠くを見ているようだ。

「なら今の力が何になる。名誉が何になる。それよりも私は、史書に名を残したい。文壇に詩を残したい」

 私は王粲の眼を見た。その瞬間、遠くにいた私は急に体に引き戻された。彼の両眼に満ちる飢餓の奥、瞳孔の底に、確かにその火は燃えていた。ただ欲するのでなく、腕を伸ばして掴み取ろうとする、野望の火が。

 ああ、この少年は炭となった長安の残り火をその瞳に宿して、燃やし続けてきたのだ。

「……大きくなったな、少年」

 ずっと抱えてきた塊がすっと溶けていくように、心がふわりと楽になる。その心地よさのままに、重い瞼をそっと降ろした。


 同僚は寝てしまったらしい。息を一つ吐いて、相手の杯に残った酒を飲む。

 徐幹は不思議な奴だ。曹操のもとに仕えてから知り合ったものだとばかり思っていたが、徐幹は幼少の自分を知っているらしい。しかしそれは言葉の端々から感じられることであって、今のように直接的に言われたのは初めてだった。

 幼少の私は、貴方にとってどう映っていたのだろうか。

 六歳上の同僚は、年長を敬う儒的空気の充満する朝廷の中で、まるで同い年のように接してくれる奴だ。そのくせ経典には誰よりも明るく、しかも道、仏にも通じる教養の男であった。私こそ、何故そこまで貪欲になれるのか聞きたいくらいだ。いや、貪欲というのは少し違うのかもしれない。徐幹は出世の機会を自ら辞する、地位に頓着しない男だ。

「私はきっと、貴方のようにはなれないのだろうな」

 こびりついた因習にも、物珍しい新興宗教にも拠らず、ただひたすらに心を、義を追求する貴方に、私は何度憧れたことだろう。

 相手が寝てでもいなければ恥ずかしくて思いもできないことだ。零した声は自分でも驚くほど自嘲的で、私は俗から抜け出せない、貴方のいる処には辿り着けないということを、まざまざと見せつけられる。諦めて一つ大きな息を吐いた。宴は終わりだ。この尊い殿方を、邸宅まで送り届けなければ。

 酒屋の主人に多めに払って、徐幹を担ぎ上げた。出不精の身体は簡単に持ち上がる。くそ、気持ちよさそうに寝息なんて立てて。それでも彼の火照った体温を腕で、背で、全身で感じると、彼と私は同じなのではないかと思えてくる。そんな訳はないのだが。

 でも、少しだけ、今だけは。この体温を感じさせてはくれないか。幸い今日は新月だ。

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