空を自由に飛びたいな(劉楨と応瑒)

 劉楨が左遷されることになった。曹丕殿の奥方に頭を下げず平視したからだ。その場には丞相もいたというので、よく死罪にならなかったものだと思ったが、なんでも曹丕殿が直々に助命嘆願をしてくださったそうだ。愛された奴め。革新的な丞相の率いる治世とはいえ、儀礼がすべて滅びた訳ではない。むしろ、我ら文人の手によって儀礼が再編成されているところだ。乱世の奸雄とまで呼ばれた丞相が、その乱世を終わらせるため礼を整えようとしている。そんな時に文人である劉楨が礼にもとる事をしでかすなど、あってはならない事だ。それは聡い彼なら分かっていた筈。

 暫く地方に飛ばされるという彼を、一目見舞っておこうと訪ねてきたものの、何と言えばいいか。通された客間でぼんやりと考えていた。年の近い旧友として愚痴でも言ってやろうか。お前が急にいなくなるお陰で、私に仕事が回ってくるんだ。今日だってさっきまで頭を抱えていたんだぞ。ああ、そう考えたら腹が立ってきた。半目になっていると、訪問を伝えた劉楨の家人がばたばたと戻ってきた。その後ろには、大層寛いでいたと見える、ぼさぼさ髪の同僚。

「おう、応瑒。よく来たな」

「……お前、本当に字というものが使えぬのだな」

 ケラケラと笑いながら劉楨は座る。こいつはいつもこうだ。大先輩の徐偉長殿にまで、諱を呼び捨てる。本当は字呼びだって失礼にあたるのだ。文人仲間の間だから許されているが、朝廷の中では流石に役職名をとって徐文学殿と呼ばざるを得ない。

「さしずめ、俺を労ってやろうって事だろう?」

 悩みのなさそうな顔だ。家人が出してくれた茶菓子を我が物顔で口に放り込んでいる。どこまでも自由、確かにそれはお前のいいところだ。

「……単刀直入に言わせてもらう」

 だが、私はそんなお前を見放せるほど、情を失った覚えはない。

「お前、文挙殿を追うつもりか」

 友の顔が分かりやすく凍った。孔文挙殿――友曰く孔融さんは、友の出世の道を拓いてくれた恩人。そして、敬ってやまない師だ。急に孔文挙殿の名前を出した私に、どうして、とでも問いたそうな目を向ける。私はありったけの眼力を込めて、友の目を見た。普段温室学者とからかってくる友に、少しでも私の心が伝わるように。

「彼はもはや鬼籍の人。お前とは違うのだぞ」

 いくら自他共に認める詩文家とはいえ、私は肝心なことを目でしか伝えられない未熟な男だ。それでも、この友には伝わると信じていた。

「孔融さんは……あれでいて義の男だった。お前も分かるだろ?」

 友はなるたけ軽く、いつもの調子で話そうと笑顔を作る。その顔が私――いや、俺は、一等気に食わない。

「お前が生き方まで引き継ぐ義理はない!」

「そんなんじゃねえよ……そんなんじゃねえんだ」

 なにがだ。俺は思わず友の襟元を掴んだ。友の瞳に俺の顔が映る。少しの余裕もない、血気の顔であった。

「笑うな。笑おうとするな」

 凍った劉楨の瞳が、微かに揺れる。

「……俺はさ、あそこまで不器用にやろうなんて思っちゃいねえよ」

 声が微かにかすれた。目の色がじわりじわりと変わっていく。

「でも、孔融さんは死んだ。お子さんだって殺された。じゃあ、俺が志を継がなきゃあ、誰が継ぐんだ」

 俺はその色をした友の目を見るのは初めてだった。絶望に似た深い哀しみの藍と、逆巻く怨恨と憤怒の紅が、ないまぜになったような色。こいつにとって孔文挙殿は、そこまでの方だったのか。俺には踏み入れられない、慰めようのない世界に、お前はいるのか。

 孔文挙殿は、かの孔子の末裔で幼少から名の知れた才子であったと聞く。聞く、というのは、俺は彼とまともに話したことがないからだ。なにせまともに話す暇もなく、彼は丞相に殺されたのだから。伝え聞く文挙殿は、慇懃無礼、何かと屁理屈を捏ねて丞相に文句をつける方だ。丞相に対して堂々と文句が言える方などそういない。よほどの捻くれ者か、心に固く義を掲げた方であったのだろうと思う。

 文挙殿の生き方を見れば、成程この友の生き方も分かる。劉楨もまた、漢朝の王族劉氏の末裔だ。この乱世に思う所もあるだろう。自身の心に背かないために友が選んだのは、まさしく文挙殿の生き方だったのか。

しかし、と俺は思う。

「継ぐことと、なぞらえることは違う」

 我ながら、地獄の底から出たような声だと思った。友の目に、微かに怯えが混じった。

「なにも為せず死ぬことを、文挙殿は望んでいるのか」

 友の目に、じわりと涙が浮かぶ。泣くな。俺だってお前が死ぬかもしれないと聞いた時、どれだけ泣きたかったか分からない。それでも耐えた。いま死に哭してしまえば、本当にお前がいなくなってしまうと思ったからだ。

「俺さ、ずっと考えてるんだよ。どう生きたら孔融さんに恩返しできるかなあ。なあ、応瑒。おれ、わかんねえよ」

 劉楨は、一粒だけ涙を流した。きっとそれは、文挙殿への涙。処刑された彼に対して流されることの許されなかった、哀別の涙。俺は、襟元を掴んだ手を、ゆっくりと離した。

 ああ天よ、北辰よ。ずっと見てきたのなら、どうして添ってやらないんだ。俺には友へ告げるべき答えが、なんにもない。

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