陳琳の幻覚ツイート&解説(?)まとめ
①臧洪の返書はもう何喋っても駄目ぜんぶクソデカ感情なにもかもおしまい、陳琳お前のせいだぞ何が足下だクソがよ
読んでもらった方が早い。袁紹へ降伏しない旨を記した返書のラスト60文字ほどを引用アンド適当な口語訳もつけちゃうぞ(引用はお馴染み中国哲学書電子化計画から)ラストの締めを個人への批判に費やしちゃうのはクソデカ感情じゃないですかね。
行矣孔璋!足下徼利於境外,臧洪投命於君親;吾子託身於盟主,臧洪策名於長安。子謂余身死而名滅,僕亦笑子生死而無聞焉。本同末離,努力努力,夫復何言!
行け孔璋!お前は境外に利を求め、俺は君親のため命を投げる、お前はその身を盟主に託し、俺は長安(漢王朝)にこの名を懸けて忠誠を誓う。貴方は私が死ねば名も滅びると言うが、私もまた貴方が生きようが死のうがどうせ名声を世に広めることができない事を笑っている。根元は同じでも梢は離れてしまった。せいぜい努力されよ、これ以上何をいう事があろうか。
(私は「努力努力夫復何言」を「努力努力って一体何のことを言っているんだろうな」てきに勝手に読んで(そうは読めんやろがい)(うるせー!)余計に苦しんでいます)
②爆音陳琳!年の初めに寒い宮廷の空気を裂いて通る陳琳の声!お国訛りの欠片もない、普段の話し方とは違う綺麗な発音!めっちゃ見たい
ツイッターで「年初めに文官のトップが大声でなんか喋る」みたいなツイートを見ました。何の本に書いてあったか有識者よければ教えてください。その時に、大事な行事だから訛りの無い完璧な標準語じゃなきゃいけなかったと見ました。陳琳は徐州、その当時の漢の領域で見れば南東のエリア出身です。勝手に三河弁てきな方言があったと思っています。普段の話し方にはもしかしたら方言が滲んでいたかも(「食べりん」とか)でもそんな陳琳が、年初めには完璧な韻律でばっちり役割をこなしたら、普段やれ尻軽だ薄情者だと貶している人だって見直してしまうんじゃないですかね。
③曹操と陳琳で詩風似てる所あったらアツくない?
これは私の印象ですが、曹操の詩は子供二人と比べると綺麗さと繊細さはそうでもなく、二人よりもしたたかで感情ゴリ押しといったイメージがあります。そうして陳琳は情緒ストレートなイメージ。なーんか探したら似てるところありそうじゃない?とかねがね思っています。
④みんなでいっぺんに死んだし感染症だからまともに葬式やれてないと思うし、葬儀の日は土砂降りであってほしい
司馬朗の伝では、司馬朗は戦場で死んでます。しかし七子のうちの五人が司馬朗と同じ南方の戦場に駆り出されていたかどうかは分かりません。陳琳の鞍替え人生は当時の価値観ではやはり決して手本となるものではなかったと思いますし、まともな死に方してないのでは。
⑤私の幻覚では陳琳と曹操は同世代なので何進の下にいた時にコンタクトあったかもね、つらいね、何進も臧洪も死に袁紹と曹操が噛んでる
陳琳は何進の主簿、文章起草係の長というか直属の文官のトップというか、面倒なので秘書みたいなもんだと思っているんですが、そんな立場だったら流石に袁紹・曹操と接点あるんじゃないですか? 何進が死んだ時点で逃げた冀州の太守は韓馥ですし、その後袁紹が冀州をとった時の心情ったら(とんでも)ないんじゃないですかね。
⑥筆で臧洪を戦場に殺した陳琳は呉で感染してその場で死んだのか、布団の上で死んだのか、どっちにしろそれぞれのつらみがあるね
また死に様の話です。陳琳の真意はさて置いて、臧洪は陳琳への返書をもって袁紹との決別を表明し、討たれることになります。陳琳が臧洪の死を決定づけたようなものです。もし陳琳自身がそのことを気にしていたとしたら、死ぬ瞬間にはその死に方に対して報いだ、とか思っているかもしれません。
⑦べつに文筆家として名を残すことに興味ないけどそれはそれとして自分の筆で世を動かしたい革命家タイプの陳琳
100幻覚です。陳琳の現存している文章は概ね戦争に関わるものです。まさに戦乱真っ只中の文人といったかんじ。穏便にヒラ官吏でありたい奴が歩みそうな道ではありませんし、本人が元々そういう野望を持っていたんじゃないですか?引き寄せの法則ってやつですよ。
⑧実は後世で文章がうまい奴の形容としても名前が挙げられている陳琳
実はもクソもですが、陳琳は後世の詩文の中に変節の代名詞として書かれる一方、文書や檄の名手としても名前を出されています。
分かりやすい所で言えば北宋の詩人楊億の「次韵和光禄黄少卿学士感恩書事十六韵」という詩の七句目に「陳琳巧書檄」とあります。
その他には戦乱に加担した文人としても名前を出されています。有名どころで言えば中唐の劉長卿の雑曲歌辞「太行苦熱行」の十・十一句目に「陳琳書記好、王粲従軍楽」と、王粲とセットで登場しています。
⑨陳琳は関羽のこと嫌いそう、鞍替えをしておきながら「義ですが?」という顔をしているから
個人的に陳琳は関羽を意識しているかもと思っています。陳琳にとってターニングポイントになる官渡では袁紹軍敗北の大きな要因になり、赤壁では曹操の行く手を阻みます。絶対的な武で全てをねじ伏せられる関羽は、筆で乱世に向かう陳琳にとって度し難い存在なのでは。それと当時関羽のこと「お前一回曹操についてるじゃん」って悪口は無かったんですかね?演義は関羽を甘やかしすぎ
⑩陳琳と阮瑀は、二人はプリキュア。陳琳にとって一番の理解者で最も背中を預けられる存在が阮瑀であってほしい。
勝手に陳琳は不遜な性格だと思っていますが、阮瑀の馬上起草エピはいくらなんでも従軍記者エピソードとして強すぎます。流石に陳琳だって尊敬せずにはいられなかったでしょ。阮瑀は204年、陳琳は205年に曹操に降ったと思っているんですが、205年から208年までの3年間は二人で司空軍謀祭酒をしていたし、曹操が司空から丞相になった後は、どれくらいか分かりませんが最長211年までの4年間、記室としてまた文書作成を担っていたので、もう陳琳のラスト十年の中で一番のビジネスパートナーだしライバルだし戦友だったと思いますよ。
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