開花前夜 ―陳琳が曹操に降るまで― (3)

(3)189年(35歳)官僚からの転落

 権力には人間を狂わせる魔力がある、という言説は権力自体に責任を求めるものであり、実際的ではない。権力は人が作り、行使し、利用するものだ。

「ですから作戦を決行するだけの人数は大将軍府と殿中侍衛で十分賄えます。どうして群雄を待つ必要があるんですか」

「いや、しかしな」

 何逐高が大将軍となり五年経つ。黄巾の親玉張角は既に討ったが、依然として各国で反乱や蜂起は続いている。その間に各地の豪族や名士たちが武装化し、群雄と呼ばれるに至っている。

「聞いてください。理にかなっていれば多少の外法も世間に通りますが、朝廷で指揮を取っているんでもない群雄が暗殺を行うのはただの反乱でしょう。始まりは大将軍からにしても、次第に声の大きい奴に主導権を取られちまいます。矛を逆さに持って柄の方を相手に渡すようなもの。革命を起こすなら迅速に事を運ぶのが常道です」

 宮中は今真っ二つに割れている。現帝を仰ぐ者。幼帝を担ごうとする者。それぞれに信念や思惑が絡んでいる。誰はこちら側で誰が敵なのか。ため息ひとつも皆聞き耳を立てていて、うかつに世間話をすることもできない。せめて俺は直言できる立場として何大将軍を諫めなければならない。しかし。

「大勢で成し遂げた方が天子にも印象が強いだろう。なんせ十常侍の抹殺だ」

 日増しに、暴走していると感じることが増える。権力への油断か、それとも老いにより精細さを欠いてしまったのか。俺がやりたいのは文官としての戦争であって、上司の暴走を止めることじゃない。俺がやりたい戦争ってのはこんな内ゲバじみたいさかいじゃない。

 進言が聞き入れられるかどうかは怪しい。五年前、嫌われ者の成り上がりだった大将軍は今や群雄たちに担ぎ上げられて神輿の上のやしろのようだ。ワッショイと騒ぎ立てる声だけが大きく聞こえ、沿道からの声は遥かに遠い。畜生、俺は言葉で人の心を変えられる才能があると思っていたのに。

 その日は手ずから庭に水をやりたい気分だった。豪邸とは言えないまでも随分大きくなってしまった我が家を眺め、妻や使用人たちのことを考える。俺は今たぶん人生の岐路に立たされている。これからどうすればいいのだろう。特に妻は同郷の友である臧子源の親族だったが、その子源は俺の少し後に孝廉に挙げられ、数年前に辞めていった。同じように何将軍が牛耳る朝廷を快く思わず下野した若手官吏は多い。俺は義理の父に顔向けできない。

「用のついでに寄ってみれば……随分と腐った顔をしているな」

 前庭で水をやっていると、耳馴染みのある懐かしい声が聞こえる。顔を上げれば声の通りの自信気な表情がそこにある。

「これは、孔文挙殿。久しくしております」

「よせ。お前が慇懃にしていると可笑しくて笑いそうだ」

 急いで使用人を呼び、客間に案内する。孔文挙は大将軍に召し出された後、上とそりが合わずに結局は一年ほどで辞めてしまった。それでも俺にとっては、歳は近いが乱世の処世術を俺に叩き込んだ師匠のような人だ。

「直言がね。俺なら面子のために辞めるな、なにも同じ泥船で沈むことはない」

 あの孔子の末裔に、当代きっての才人に、うちの粗茶を出している。百姓生まれではないにしても取るに足らない育ちをしている自覚はあるので、自分の生活空間に風格のある人間がいる不自然さに目の奥がちかちかする。

「貴方は辞めても引く手あまただからそう言えるんですよ。俺は先のキャリアが掛かってるんで」

「孔璋。前も言ったが今はどれだけ先を見通しても簡単に世がひっくり返るぞ」

 今は適当な病を理由に故郷で暮らし、教鞭をとって生計を立てているらしい。都の用事はさっさと終わってしまったが、折角来たので旧知を訪ねて回っているとのこと。彼の記憶に俺が残っていたことは光栄だ。けど、何も今じゃなくたっていいじゃないか。

「貴方はよくご存知でしょうが、今大将軍に一番取り入っている袁本初。特に奴は腹に何を抱えているか読めないところがあるでしょう。全く、どうして大将軍はあんな奴らの声にばかり」

「何だ、女を寝取られたみたいな言い草だな」

 ギョっとする。目の前の有名人は孔子の直系にあたる末裔であり、儒の体現者たる血統の人だ。しかし時に言葉選びが俗っぽく過激になる。俺はこの人だって読めない。

「袁本初は貪欲な男だ。名家らしく生まれながらに貴族との繋がりもある。教養もある。それらに胡坐をかかず、当主としての矜持もある。持っている物を全て使える権力と、汚い手段を選べる度胸もあるだろうな」

 群雄は群と呼ぶにふさわしいほど何百家とこの中華にはびこっている。現在その群雄たちの筆頭とも呼べるのが、袁家の分家でありながら圧倒的な軍事力を持つ袁本初だ。現在の位置に辿り着くまでにどれだけの事をしたのだろうか。俺と同世代である筈なのに、想像が及ばない。

「自然なものだろう。何将軍とて元は群雄の一人だったようなもの。立場が近い者の言葉は実感として沁みやすいものだ」

 孔文挙はまだ熱い湯吞みをぐいと呷ってから、湯吞みで俺を指す。

「お前が起用されたのも朝廷において無派閥だからだ。違うか?」

 俺は無言で急須を差し出す。彼は俺を見ながら机に湯吞みを置くので、俺は湯吞みに目を移して茶を淹れる。

「そうですよ。これから朝廷の実権を得ようという時に従来のしがらみは障壁でしかない。十常侍はしがらみの最たるものですから」

 最初から俺と将軍の間には信頼とか好感とか、そういった血の通ったものは存在していない。しかし、互いに共有しうる感覚はある。地方の指導者という出自から来る旧態依然の貴族どもへの反感と、この小さなきっかけを決して離してなるものかという意地だ。

「実のところ、俺はもう大将軍も永くないと踏んでおります。信の置けない群雄どもの中には十常侍と繋がりのある奴らもいる。大将軍が先か十常侍どもが先か、それだけです」

 急須を置いて孔文挙に向き直る。彼は熱くなった湯吞みを指先でつまみ、ずず、と音を立ててすする。

「大将軍が先に殺された時に俺は現在の職務を全うして混乱鎮圧に尽力すべきか、あるいは……いっそ大将軍府の人々を見捨てて亡命してしまうか」

 そうして孔文挙が湯吞みから口を離す前につけ加える。

「貴方なら亡命を選ぶでしょうがね」

 自分が苦笑いになったのが分かる。対照的に目の前の彼は依然気難しい顔のまま俺をじっと見る。

「当然だ」

 カン! と音を立てて湯吞みが机に置かれる。

「みな思い違いしている。そもそも孔子は遊説家だ。一国に忠誠を誓うのが仁であり礼であると言うのなら、孔子とてそうしていたはず。君臣の義と言うが、君が仁を持ち合わせていないのであれば最初から関係は成立しない。それに、」

 目が鋭い。この人は儒家であり、時代の俊才であり、そうしてやはり孔子の直系なのだと脳よりも深いところで理解する。

「お前にとっての君とは何だ?」

 窮する。俺の上司と言えば何大将軍で、その大将軍が仕える、という建前になっているのは皇帝で、しかし今やその皇帝も当てにならない。俺は誰に仕えているんだ。俺はただ言葉で人の心を変え……乱世を終わらせたかった。

「天帝、とでも言っておきましょうか」

 神仙の世界には宇宙を統べる天帝がおり、皇帝は天帝を祀ることによって中華を統べることができる。恐らく皇帝の地位を明確にするための考え方なのだろうが、逆手に取れば皇帝もまた天帝に仕える臣と捉えることもできる。だから易姓革命は成り立つ。

 儒家は答えに満足した訳では無さそうだったが、しかし反駁もせずに再び茶を啜った。

 孔文挙が去って数日後、何逐高は十常侍の刺客に暗殺される。俺は妻と使用人を射陽に帰し、一人冀州へと向かう。冀州は黄巾党・張角の出生地であり、それ故に鎮圧した後も群雄たちが居座っている場所だった。俺は大将軍の主簿だから、群雄どもへのツテはある。内心信用ができないと蔑んでいた群雄どもを頼って亡命する。

 半ばやけっぱちだ。畜生、これが乱世だっていうのかよ。それなら俺だって生き延びるためなら何だってやってやる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る