開花前夜 ―陳琳が曹操に降るまで― (4)

(4)200年(46歳)開花前夜

 臧子源が死んだ。俺の筆が殺した。俺の才能は言葉によって人を殺すこともできる。

「はあ、嫌に風が強いですね」

 俺の後をついてくる若者が風に圧されてくぐもった声を出す。俺が主簿になった歳よりもいくらか若い秀才だ。ちらりと声のした方を見ると、彼は馬上で声に似合ったしかめっ面をしている。

 子源が死んでから四年経った。文官は机上から飛び出して馬に乗り、従軍記者となっている。乱世は混迷を増していて、文官の戦争の仕方も刻々と変化する。俺は記者の筆頭として、若い文官と共に戦場を見晴らす丘に立っていた。

「見ろよ徳璉。ここからだと騎兵も蟻みたいだ」

「本当そういうこと袁将軍の前で言わないでくださいよ」

 応瑒徳璉は後漢初期から代々朝廷に仕える名家の出だが、当主である伯父が董卓の遷都を機に朝廷を見限り、同じ汝南が本貫の群雄・袁本初の下に一族で身を寄せている。生真面目で騎乗が下手で、本当は学問に耽っていたいんだろうな、と簡単に予想できるような性情をしている。

 俺たちは戦場の様子を記録したり、大将の言葉を記して各隊の隊長へ届けたり、諸々の文書を起草したりなど、とにかく書くことに関わるあらゆる仕事をしている。こき使われていると言えばそれまでだが、ここは俺の本領を発揮できる場でもある。広い戦場にあまねく言葉を行き渡らせるためには伝達の速さだけでは足りない。鮮烈な印象を与える言葉である必要がある。

「でも、蟻にしては歩みが遅くはありませんか」

「お前いい性格してるよな」

 これから袁紹本初が率いる連合軍は、今や献帝を擁して勢いを増す曹操孟徳の軍とぶつかる事になる。袁紹軍は群雄の筆頭として一線を担い続けてきたが、しかし今大義名分は向こうにある。

「ま、大義に対抗し得るくらい士気を高める必要はある」

 お前ならどうする、と徳璉へ顎をしゃくる。生真面目な若者は手綱を持ったまま顎を撫でる。

「檄文を起草しましょうか。開戦の前に、袁将軍が各隊へ届けるものです。自分たちの正当性を明らかにして主張すれば、兵たちの自信に繋がるんじゃ」

「檄文はいいな。でもそれなら、俺はちょっと違う内容にする」

 俺は手綱を離して馬の背を撫で、腕組みをして敵陣へ向かう。

「例えばどんなですか」

「曹操の悪口だ」

「はあ?」

 生真面目な声が裏返る。思わず笑みを漏らして、その表情のまま上体を捻って徳璉へ振り返る。

「相手の正当性を嘘にしちまうんだ。徹底的に相手を貶して、そんな奴らをこれから叩く俺たちって間違いなく英雄だろ?」

 やっぱり徳璉は眉を寄せている。そりゃあそうだ、世の中名文と言われる物は大体が自身の正当性、ともすれば道徳性を主張するもの。そもそも相手をこき下ろす事自体が道徳性にもとる。しかしここは戦場で、檄文は隊長が兵士たちへ声によって届けるもの。道理に敵った素晴らしさより、一人一人の感情を動かした方が勝ちだ。

「徳璉、お互いに檄を起草してみようぜ。勿論お前の書く檄の方が合っている隊もあるだろう。そこは将軍に委ねればいいさ」

 腰から木簡を取り出して見せると、徳璉はすぐに馬上から降りて馬を近くの木に繋ぐ。そうして近くの石に腰掛けて木簡と筆を手に取った。その貪欲さには好感が持てる。俺は再度敵陣の方向を見やって、馬上のまま筆を進める。


 戦場で筆を執ることに今ではすっかり慣れてしまった。四年前のあの頃は、平気な顔をしながら内心緊張で心臓が破けそうなものだった。

「俺が子源への降伏勧告を書くんですか」

「同郷の貴方が適任かと思うが、どうだ。陳主簿よ」

「やめてください、俺はもう主簿じゃあない」

 臧洪子源は朝廷の官吏を辞めた後、育った広陵の太守である張超に拾われて彼の右腕を担っていた。何進が殺されて董卓が権勢を握った際には義兵を挙げたりとその義侠心の評判は高く、中華を駆け回る中で袁紹に買われて東郡太守を任されていた。俺も袁紹の開いた酒宴で何度か子源と会っている。

「孔璋、何年ぶりだ。よく生きてたな」

 笑顔で盃を向けてはきたが、しかし俺も子源も、もう郷里にいた頃から変わってしまっている。

「お前こそ戦い続きだろ。評判は聞いてるぜ」

「よせよ。俺は俺のするべき事をしているだけだ」

 子源の言葉の端々からは、俺への非難が感じ取れた。そもそも何進の権勢の中で、俺は何進の下につき、子源は異を唱えて辞めている。共に川辺で将来を語った時には漢王朝の力になりたいと話していた子源は、今や漢王朝の脅威たる群雄の一人だ。皮膚は乾いた風に晒され続けて硬く、腕には生々しい傷跡が残っている。

 四年前はまだ袁紹と曹操は友好関係にあった。そんな中、曹操は広陵のある徐州で大虐殺を行う。その矛先は張超にも向けられ、子源は恩義のある張超へ加勢しようとする。しかし袁紹がこれを妨害し、遂に張超一族は全滅する。子源は袁紹と絶交を宣言し、反旗を翻した。

「私は臧子源を買っている。彼を喪う訳にはいかない。今までも文書を送っているが、一向に返事さえ来ないのだ。陳孔璋、貴方の言葉なら彼は聞き入れるはずだ」

 そりゃあ絶交したんだから返事はしないだろう。袁紹は名声のある臧洪子源という人物が袂を分けたのを重く見て、彼の城を包囲した。傘下に戻れ、さもなくば殺す。血生臭いやり方だ。

 袁紹の下にいる俺が書いても結局は同じじゃないのか。そう思いながら、俺は確かお手本みたいな降伏勧告文を書いた。袁紹と関わりを断つことは、袁紹への恩義に反することだとか、そういう事を書いたように記憶している。

 子源は俺に宛てて返書を書いた。それは鮮烈な拒絶だった。俺が返書を読んだ時には既に徳璉によって写しが書かれ、袁紹へ届いていたようだ。俺が勧告を書かなければ子源は死ななかったかもしれない。言葉によって人を動かす俺の才能が、よりにもよって友へ引導を渡したのかもしれない。

 お前は目先の利益ばかり見ているが、俺は天子にこの身を捧げるんだ、せいぜい努力しろと子源は返書を締める。俺は文官の戦争を分かった気でいたけれど、その本質を理解してはいなかった。筆の先には義ではなく、人間がいる。


 開戦を目前に控えた軍議の空気は重そうだ。こういう時は一際強烈さがあった方がいい。護衛の兵に偽造した許可証を見せる。大体この許可証を書くのも俺たちの仕事だから、許可を貰っていないだけで偽造でも何でもないとも言える。しれっとした顔をして、諸将のみが立ち入りを許された本陣の幕を木簡でめくる。

「どら、ここは一つ檄なんかいかがでしょう」

 急に現れたくたびれた男に、難しい顔をした諸将たちは膠着した状況をなすりつけるべく火を吹く。

「何だ陳琳! 文官ごときが出る幕では無いぞ!」

 おいおい、親でもないのに名を呼ぶなよ。内心の呼び方は自由だが、最低限の礼節も気に出来ないほど切羽詰まっているらしいな。

「数字の上での兵力は上々、それでも不安が拭えないんなら、殺意が足りないんじゃないですか」

 何やら駒の乗っている机の奥に総大将、袁紹本初がいる。そちらに文字が向くように、俺は二つの束を机に広げる。

「一つは俺たちの義を唱えるもの。もう一つは向こうの不義を謳うもの」

 心臓が破けそうだ。今度は緊張や重圧ではなく、高揚のために鼓動が早くなっている。

「わざと向こうさんに流したっていい。折角ドンパチやるんです、よく鳴るかぶら矢にしましょうや」

 俺へ向けられた怒号が、次第に小さくなっていく。二つの檄文に、この空間にいる全員の意識が吸われている。

「義を唱える方は、貴方の文ではないな」

 それまでだんまりだった総大将が、木簡へ目を向けたまま低い声で口を開く。

「ええ。文官ごときにもいい才がいるもんで」

「そうだな、起草と呼ぶに相応しい。私の意図に沿って筆を加えられる余地がある」

 そうして袁紹は俺へ顔を上げる。

「不義を謳う方は、完成されすぎている。本当にこれを相手に流してもいいのか」

 問いかけながらも腹は決まっているように見えた。俺も歯を見せて笑う。檄には曹操の祖父まで遡って不義を書き連ねている。生まれながらに悪い奴だと思えば兵たちの容赦も無くなるだろうし、奴の徐州大虐殺は、徐州で父親が殺されたことによる。肉親は奴の逆鱗である筈だ。感情の昂ぶりはいい方向にも悪い方向にも転ぶ。博打の要素も強いが、しかし開戦に相応しい起爆剤になる。

 やるなら徹底的にやる。子源が死んだ時に決めたことだ。

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七子にまつわる幻覚まとめ ほずみ @kamome398

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