おくすり出しときますね(陳琳と曹操)
冬から春へと季節が移ろうこの時期は、往々にして天気が崩れやすい。
「丞相~~仕事の時間ですよ~~!」
「嫌じゃ~~余は今日働かんぞ~~!」
今朝の許都は雨。それが伝播したのか、曹操は今朝から頭痛に見舞われていた。
「あっ殿! 壺投げないでください危ないから!」
「やめろキャッチするな! おぬしインドアの癖にその反射神経どっから来たんじゃ!」
自室から頑として動かぬと強硬姿勢の曹操は、さっきから部屋の入り口で彼を伺う文官たちに手につくものをとりあえず全部投げている。要はとんでもなく機嫌が悪い。曹操の私物はいちいち高価であるので、文官たちも気が気ではない。どうにか手分けしてキャッチしているが、いつ失敗するか分からない。割ったら割ったで曹操は怒るに決まっているので、本当に文官たちは死ぬ思いでキャッチしていた。ちなみに武官連中は機嫌の悪い曹操が面倒なことをよく分かっているので、絶対に近づかないことにしている。
ここまでして文官たちが曹操を引き摺り出そうとしているのには理由がある。曹操が最近北だ南だ自分で進軍しすぎて書類仕事がびっくりするほど溜まっているためだ。
「別に今日一日くらい仕事せんでもよかろうが!」
「今日やらないとどーーせ明日進軍しに行くじゃないですか!」
もう文官たちの筆頭である荀彧は涙目だ。そりゃあ大抵の書類は丞相までは行かずに文官たちだけで処理できる。トップまでいくのはほんの僅かだ。そいつが山のように積もっているから、大問題なのだ。だっていうのにこの我が君は。もう、今日はそっとしておこうか、と荀彧は諦めかける。
「はいはーい、お薬出しときますね」
その時、文官たちの後ろの方から気の抜けた声が通った。思わず文官たちは動きを止める。荀彧の顔面にクッションがぶち当たって「うぐっ」という声が漏れた以外は、その一瞬に沈黙が降りる。
「今日っておくすり手帳あります? 丞相」
「……陳琳、君か」
曹操は次の瓶を振りかぶった腕を、ゆっくり下ろした。
陳琳は文官の間をすり抜け、ずかずかと曹操の自室へ踏み入れる。
「あっ陳記室!」
荀彧の静止も聞かずに陳琳は曹操の前に出て、ずい、と木片を差し出す。
「今日のお薬は春の風ですよ」
曹操は無言で瓶を床へ置き、木片を静かに受け取る。そうして目の前に掲げ、息を吸い込んだ。
「春天潤九野(春のそらは大地のすみずみまでを潤す)」
曹操はその通る声で、詩を詠じた。荀彧は驚きつつ、しかし納得した。木片には詩。陳琳は、当代きっての詩文家だ。
「卉木涣油油、紅華紛曄曄、(草木は明るくつやつや、紅花はあふれていきいき)」
荀彧は不思議な感覚を覚えた。自分は今、曹操の声を聞いているだけ。けれども、冬の終わりのさびしい風にひとふき、春の草花が薫る。
曹操は陳琳の目を見る。陳琳はウインクして、その続きを受け取る。
「發秀曜中衢(芽吹いた花は大通りを照らす)」
曹操はじっと陳琳の目を見、そうして小さく笑った。
「今回もよく効いたぞ、薬師」
「へへ、お大事に~」
陳琳はニヤニヤ笑って、また文官たちの間を通って戻っていった。置いていかれた文官たちは、去って行った陳琳のほうと曹操とを見比べるばかり。曹操はすっかり注目を集めきってから、口を開いた。
「よし荀彧。硯を用意しろ」
「はい?」
「すっかり頭痛も吹き飛んだ」
うぅんと伸びをして一迅の風が吹く。雨の香りの片隅に、かすかに土のにおいがする。
「書類をやると言っているんだ」
得意げな君主のえくぼに荀彧たちは目をまるまるとさせ、それぞれ一目散に仕事の準備へ駆けていった。それを見届けて、曹操もまた支度に手をつける。許都の賑やかな一日が、今日もまた始まる。
引用
――失題詩(春天潤九野)『建安七子集』巻二
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