第4話 蘇る日々

(影)


 震える手で開けた金庫には、月日によって酸化し黄ばんだ封筒が入っていた。封筒の頭はしっかりと糊付けされた上に、封印をするかのように、ひばりのトレードマークである小鳥が描かれている。トレードマークがある以上、贋作ではないはずだ。

 心臓がバクバクと鼓動を刻み、身体中の血液が脈打つ音まで聞こえてくる。十数年ぶりにひばりが生きていた痕跡を、そして思い出を見つけたのだ。いや、ひばりが伝えに来てくれたのかもしれない。忘れもしない懐かしい匂いにひばりの温もりが胸を過る。ひばりからの大切な手紙に違いない。一刻も早く見たいが決して破損しないよう焦る心を押さえつけ慎重に開封する。手紙を封筒から取り出すと、見慣れたひばりの文字が見え全身の緊張が幾分かほどけてくる。間違いない。ひばり本人が書いた手紙だ。

 

「この手紙を見つけたということは、一人前の医師になれたのだね。本当に、本当におめでとう。とても嬉しいです。貴方の努力はすごい! 誰よりも努力し・頑張り・精進したのだね。そんな貴方は私のとても大切な人です」


 ひばりと過ごした大切な日々が、脳裏に鮮やかに蘇る。手紙は一枚しかない。何度も文章を読み返すが、首を傾げる。この文字はひばりの文字ではあるが、心の奥底で何かが引っかかる。

 まずは、ひばりの手紙の書き方ではない。ひばりは最後に必ずはずの小鳥のマークが見当たらない。そして、手の込んだ仕掛けの割には大した内容が書かれていない。何を見逃しているのだろうか? 何度も繰り返し見返すが、深読みや行間に隠された言葉はない。

「わからない。ひばりは、私に何を伝えたいのだ?」

 希望は瞬く間に失望となり力なく手紙を机に置いた。やっと、最後のつながりを見つけ出した興奮は消え失せ全身の筋肉のこわばりが解けてしまった。

「あっ」

 机に放りだされた手紙を見ていた井上看護師長が声をあげている。何だというのだ? 「裏側に何か書いてある? 透明の? 光の反射で何かが?」

 その瞬間、記憶が時を遡る。 

「電気を消せ!」

 私は思わず叫ぶと、井上看護師長は首を傾げながら照明を落とすと部屋は暗闇に包まれた。ポケットの中から取り出した紫外線ライトのスイッチを入れると、暗闇に青白い光りが放たれる。ひばりは、私だけに何かを伝えたい時には、特殊なインクで文字を書いた。私の予想が正しければ……  紫外線ライトで手紙を照らすと月日のせいか発光具合は悪いが文字が照らし出された。再び、期待が膨らみ血圧が上昇してくる。


「思い出しましたね。二人の約束を。

 おかえりなさい。貴方。

 覚えていてくれて嬉しい。本当にありがとう。

 貴方は、今でも私の事を大切に思ってくれていると思う。

 この手紙を読むのは三十歳の誕生日。だから今日は金曜日。

 明日、時の旅に出ましょう。問題は解けるかな?

 通いなれた部屋 いつもの枕で夢見る 私の誕生日」


 今度こそ最後にひばりの名前と小鳥のマークがある。ひばりが伝えたい事は別の場所にあるということか。きっと手紙の向こうには、ひばりが私だけに伝えたかった何かが残されているのだろう。心かよわせながら二人で辿った日々。決して忘れることのない懐かしい声で『おかえりなさい』と昔のように迎え入れてくれるに違いない。そう、ひばりが待つ日々へ。未だに見つけえぬ答えを二人で探し求める日々が蘇る。ひばりが待つ世界へ旅立たなければならない。


(光)


 暑い。ひたすら暑い。先日まで続いた梅雨寒が恋しい。七月ともなれば暑いのは当然かもしれない。しかし、今年の暑さはそんな生易しいものではない。庭の雑草さえ枯れてしまい新たな芽も出てこないほど暑い。辛うじて生きている庭草の息も絶え絶えだ。街路樹さえ枯れ始めている。

「最近、機嫌が良いよな」

 クラスの男子学生が話しかけてくる。

「夏だからな。夏は最高の季節だ」

普段人とあまり関わらない私は、何故か冬が好きだと思われがちだ。しかし、趣味の鉱物採取に出かけられる夏は最高の季節だ。フィールディングと呼ばれる野外調査は、積雪があると鉱物を見つけられない上に滑落の危険があるため行わない。何より『夏休み』これが良い。他の休みに比べ圧倒的な長さの休校期間。毎日好きなだけ調査に行くことができる。そのために、夏休みに向けてお小遣いを貯め込んでいる。今年もパンパンに膨らんだ財布の紐を開放し、鉱物と心行くまで語り合う季節がやってくる。その上、今年はボーナスまで付いてくる。高校行事の林間学校に行われる登山。ここで鉱物を採取せず何をする? 私のテンションは林間学校に向けて駆け上がっている。

「これだけ暑いのに、夏が好き?」

「暑さは問題ではない。夏には楽しみが多いからな」

「意外だな。海でナンパしたりするの」

「女に興味ない」

 そんな、愚問はスパッと切り捨てる。下賤な会話を膨らませても、何も有益な会話は生まれない。

「じゃあ、ひばりさんって? 何なの?」

「私も聞きた―― い。ほらほら答えて! その答えを聞いたことない。言っても良いのだよ。好きだよとか、愛しているとか。きゃっ恥ずかしい」

 私たちの会話を聞きつけたのか、ひばりが駆け寄って勝手に自爆しているが相手をするだけ無駄であろう。

「少女漫画の読みすぎだ」

 恥ずかしいのならば言わなければ良いのにと思いつつ、後々拗ねられても面倒なので最低限の返答はしておく。

「恥ずかしがらずに、答えていいのだよ」

「だから、みんな見ているだろ」

 いつの間にか、クラス全員の学生に注目されている。

「じゃあ、二人きりなら教えてくれるの?」

 もう少しで触れ合ってしまう距離まで顔を近づけ、目を見つめてくる。周りでクラスメイトが見ているのを忘れているのであろうか? いや二人きりでも、こんなに近寄られると困ってしまう……

「お―― っ」

「ひゅ― ひゅ―」

「さあ、答えて」

 いつの間にか、私を囲うようにクラスメイトが集まり囃し立てている。ひばりの顔からは、優しさが消え真剣な表情となり、本音を聞くまでは逃がさないと言外に伝わってくる。

「……」

「もう一度、聞くよ。二人きりなら答えてくれるの?」

 その声には、微かな苛立ちが混じっているようだ。

「答えられないんだよ。だって、付き合わされているだけなんだろ。ひばりさんを大切になんて思ってないんだよ。こんな奴のどこがいいの? まともに会話もできない。運動もできない。休み時間は孤独に読書。友達もいないんじゃないの? だから、いいかげん、俺と付き合えよ。絶対その方が楽しいぜ」

 長谷川が、私たちの横に現れ、ひばりを私の目の前にして口説き始めている。予想外の出来事に教室には時の静寂が訪れ、静まり返る。私だけでなくクラスメイトも、視線をひばりに移し、どんな返答をするか待ち構えているようだ。

「私は…… 長谷川君と付き合いたいなんて思わないわ」

「だから、何で俺ではいけないんだよ!」

 長谷川は、いつものチャラチャラした感じから一転し、大声を張り上げる。

「長谷川君はかっこいいわ。一年にしてサッカー部のレギュラー。女の子にもモテる。でも、長谷川君が求めているのはトロフィー。だから、私である必要なんか全くない。私は、お互いに本当に相手の事を理解し、大切にできる人と付き合いたい」

「クラスメイトだけでなく、ひばりさんの顔も覚えない奴が、理解している? 今、この状況でも黙り込んでいる奴が、ひばりさんを大切にしている? 冗談じゃない。君は騙されている」

 その瞬間、ひばりの目が吊り上がったと思った瞬間、ひばりの手が長谷川の頬に打ち出されるが、無意識に私の右手はひばりの手を掴み制止する。

「何で止めるの? 私だけじゃなくて、貴方の事もバカにしたのよ。悔しくないの?  情けなくないの?」

「お前は、ひばりさんのことなんて思っているの? 言えるなら言ってみろよ」

 長谷川は、私の胸倉を右手で掴み、更に私に返答を押し迫ってくる。

「答えろって、言ってんだろ!」

「ごめん。上手く言えない」

「ほらな、この程度の男だぜ。大切になんて思ってもいない」

 長谷川は、私を見下したように手を放した。周囲からはため息が漏れ、放たれる視線が身に刺さる。

「なんでそんなことを言うの? どうして?」

「上手く言えないから」

 泣き崩れるひばりを横目で見ながら、適切な回答をする。それは、私の本心であり、決して偽っていない。

「ほらな。この程度の男なんだよ」

「ひばりさんは、勘違いをしている。今、気付くべきだと思う。本当に大切にしてくれるのは誰なのか」

 ひばりは、いつの間にか座り込み顔を両手で覆い泣き始めてしまっている。小刻みに震えているひばりを、女子学生が前から抱きしめて慰めている。その女子学生が、鋭い眼光を放ちつつ、私に聞いてくる。

「あんた、本当にそれでいいのね? その答えでいいのね? ひばりの気持ちを分かって言っているのね」

「それでいい。私は上手く言えない」

「最低」

 女子学生にビンタされ、右の頬に痛みが走る。高校生活でビンタをされる予定はなかった…… と他人事のように考えてしまうが、今はそれどころではない。

「もういい。ひばりに近づかないで」

「ひばりさん、もう泣かないで」

 長谷川もひばりの前に座り込んで慰めている。私が、何も言わないことをいい事に、第三者が勝手に話を進めている。段々と苛立ちを通り過ぎ怒りが湧いてくる。

「本当になんて言えばいいのか分からない。ただ、君たちは誤解している。私は上手く表現できないと言ったつもりだ」

「だったら、何なの? はっきりしなさいよ」

「君たちの前で、気持ちを言う必要はない」

「ほんと、最低な奴ね」

 周囲に集まった面々からは軽蔑した表情がありありと示されているが私には関係はない。クラスメイトにプライベートまで関与されるのか? クラスメイトに私の心情を表現する必要性があるのか? これは、私たち二人の問題であり、第三者が関わるべき問題ではない。ひばりも私の性格を知っているはずなのに……

 しかしながら、ここまで事態が拗れた以上、何らかの対応を行わなければならないか…… クラスメイトの前で気持ちを表現するのは、納得がいかないがやむを得ない。私は、ひばりの後ろに回り、小刻みに震える両肩に手を置くと小さな声で答える。ひばりだけに聞こえれば良いのである。

「私の物だ」

「えっ?」

 私の声を聞き取れなかったのか? 声を大きくすれば周りにも聞こえてしまうが、言うしかないのであろうか。

「ひばりは…… 渡さない。それが私の意思だ」

「お――」

 その瞬間、クラス中が歓声に包まれている。ひばりは泣き続けている。

 今まで自分の気持ちを表現することを、頑なに避けてきたのに、クラスメイトの前で、意思表示してしまった。羞恥心と後悔の念が入り混じった不思議な気持ちで立ち尽くす。

「ありがとう」

 ひばりは、私の胸に額を押し付けた。


 その日の授業が終わると、早々に席を立つ。いつもなら一人で部室に向かうが、今日はひばりの席に向かう。

「帰ろう。部活は休む」

 と言うと、クラスメイトから

「ひゅ―― ひゅ―― 熱いね」

「急にキャラ変したよね」

 偶然聞いていたクラスメイトにからかわれて、始めて思慮が浅い行動をとってしまったと気が付いた。あまりの恥ずかしさに思考が停止する。

「今日は紅里と遊ぶ約束が……」

「帰ろう。部活もなしだ」

「わがままを言わないで。明日なら一緒に帰れるから」

「今日だ」

 ひばりは、チラッと雑談をしていた女子学生の方に視線を送り、何かを探っているようだ。彼女は、私にビンタをした学生として顔を覚えた。名前は紅里と言うらしい。

「ほら、ひばり。行ってあげたら。音無君が誘うのって、ひばりから聞いたことがない。多分、初めてじゃない?」

 紅里は、ひばりの背中をポンッと押しだす。

「その代わり、これ以上、泣かしたら許さないからね。音無君」

「……」

「ありがとう。今度、埋め合わせをするから」

「気にしなくて良いよ。埋め合わせは…… そうね、ケーキで良いよ」

「ありがとう。じゃあ一緒に帰ろうか。誘われるのって照れるね」

 そう話すと、既にひばりは歩き出している。一言もデートの誘いをしたつもりはないが…… この状況でそれを指摘するとまた面倒なことになってしまう。今は適切な説明しないのが最適解であろう。

「じゃあ。デート行ってくるね」

「でも、彼女との約束は?」

「断らしといて何言っているの? もう…… さあ、行くよ」

 ひばりに手を引かれながら教室を出る。

「どこに連れて言ってくれるのかな? 楽しみ」

「いやっ、その…… 特に決めていないのだが」

「だよね。貴方が決めていたら、びっくり! どこにしようかな? カラオケに行く?」

「いや。カラオケはちょっと」

「貴方の歌声、聞いてみたい」

「いや、音痴だし。曲知らないし。行ったこともないし……」

「うそ? カラオケに行ったこともないの? じゃあ、行こう。貴方との記念すべき高校初デートは、貴方の初カラオケ。大丈夫。私が一緒に歌ってあげるから」

 ひばりは、勝手に盛り上がってしまっている。カラオケなんて想定していなかったが、ここは、素直に従うしかない。


 自転車置き場まで歩き、鞄をカゴに放り込むと自転車にまたがる。ひばりがクイ研に入部したことで、最近は一緒に帰宅することが多くなってきている。いつもは、高校から西方向に向かって帰宅するが、今日は南の岐阜駅方向に自転車を走らせる。放課後になっても気温は下がらないせいで、自転車から感じる走行風は熱風と化しているのに、ひばりは鼻歌を歌いながら漕いでいる。


 岐阜駅に到着すると、駐輪場に自転車を停める。岐阜駅前の広場には、信長像が設置されている。岐阜県と言えば斎藤道三が有名であるが、織田信長は斎藤道三の娘である濃姫と結婚した十年ほどのちに、ここを岐阜と改名している。その岐阜が県名にまで発展しているのだから驚きである。さらに、一般的には愛知県の武将と認識されているのを承知の上で、織田信長の像を県内で最大の駅である岐阜駅に作ってしまった。信長像は台座を含めると十mを超え、しかも金色で塗装されているので、初めて岐阜駅に降り立った県外者はその異様さに驚く。

「初めてのデートだから、写真いっぱい撮ろう」

 ひばりは携帯電話で、信長像を背景にしたツーショットを器用に撮影している。

「次は、こっち」

 なぜか、岐阜駅近くの銀行の本店前に連れていかれる。この銀行は、岐阜県では最大規模の地方銀行だ。入り口の前には、銀行名が彫刻された石が、存在感を示すかのように置かれている。しかし、銀行に来る意味が分からない。

「なんで銀行に?」

「お父さんの職場なの。帰ってこの写真を見せたらびっくりするよ」

 ひばりのお父さんが銀行員だとは知らなかった。

「えっ。お父さんに見せるの?」

「驚くだろうな。貴方と勤務先の入り口で写真を撮ったなんて知ったら」

「大丈夫?」

「心配ないよ。二人とも貴方の顔を知っているし」

「私は知らないけど」

「貴方が、覚えなさすぎなのです。ちなみに中学の時、貴方は両親と話したことがあるからね」

 そう言われるが、記憶の片隅にもない。

「ごめん、覚えていない」

「わかっているから良いよ。蛍石をくれた夫婦と言えば分かる」

「覚えている! 本物の蛍石だった。でも、顔は覚えていない」

「も~~ 覚えておいてよ。でも仕方ないよね。彼女の顔すら認識できなかった人が、両親の顔だけ覚えていてもショックだし」

 ひばりは、悪戯っ子のように笑顔でいる。下手をすると、また怒らせるところだったが、ホッと胸をなでおろした。

「さてさて、メインイベントのカラオケで楽しみましょう」

「どうして、そんなに陽気になれる?」

「その方が、楽しいでしょ」

 十分ほど会話しながら歩いているとカラオケ店に着く。ひばりは慣れた様子で入店し、

「高校生二人。二時間コースで」

 と店員さんに注文している。まだ、気温の下がっていないこの時間に、早歩きをすると汗が止まらないが、空調の効いた店内は心地よくスーッと汗が引いていく。

「さあ、行くよ」

 受付を終えると、ひばりはフロアー案内も確認せず歩き始めている。その様子から何回もこの店に来たことがあるのが見て取れる。ひばりの案内で部屋に入ると、ソファーに座るが慣れていない私は落ち着かない。ひばりは私の左隣に座っている。

「さあ、何を歌おうかな? 初デートで初カラオケだから、初デュエットかな?」

「いや、だから、歌は知らないんだ」

「大丈夫。私が選んであげるから。心配しなくても良いよ」

 ひばりは、検索する手を止めない。歌を知らないと言っているのに何が大丈夫なのだろうか?

「よし、これなら歌えるはず」

 ひばりは、素早く何かを入力し送信した。

「何を入れたの」

「大丈夫。ほらマイクを持って。一緒に歌おう」

 スピーカーから前奏が流れてくると少し安心した。この曲なら知っている。テレビ番組の最後に流れる有名な曲だ。私でも知っている。

 ひばりは、リズムをとりながら歌い始めている。上手に歌うなと思いつつ聞いていると、ひばりはマイクを顔の前まで持ってくる。一緒に歌えということか。音楽の授業以外で歌ことなど、普段なら考えたこともないが、この曲なら歌えそうだ。

「うそっ。上手すぎ。歌えないのじゃなくて、曲を知らないんだ」

「歌えないのも、歌える曲がないのも結果は同じだ。カラオケに行っても楽しめない点で」

「も―― 相変わらずネガティブなのだから。それは、全然違うよ。私が教えてあげる」

 ひばりは、次の曲を送信している。画面に表示されている歌手名や曲名は、全く聞いたこともないものである。

「この曲知っている?」

「知らない」

「じゃあ、私が一番歌うから、二番から一緒に歌って」

 ひばりは、歌い始める。テンポの速い曲だ。テンポが速すぎて付いていけない。二番に差し掛かると、ひばりは私の持っているマイクを指さし、歌うように促す。挑戦してみるがスピードに付いていけない。そんなことを何回も繰り返すと一時間が経過していた。

「わかった。貴方の音域は広くて、声は伸びるけど。テンポの速い曲になるとリズムがとれなくなって、音程も狂うのね。じゃあ、この曲ならどう?」

 画面には『永遠にともに』と表示されえている。

「一曲通して私が歌うから、二回目に一緒に歌って」

 と言うと歌い始めた。

 どんなジャンルの曲でも器用に歌いこなすようだ。私もこの曲のテンポなら歌えそうな気もしなくはない。

「次は、一緒にね」

 ひばりと一緒に歌い始めると、ひばりの右手がそっと私の左手に添えられ、目と目があうが、なにか恥ずかしくなり、わざと視線をモニターに移した。歌う前はシンプルで歌いやすい曲に思えたが、実際に歌ってみるとシンプルなだけに、ごまかしが効かず難しい。初耳の曲なので、上手く歌えない部分もあったが、かろうじて歌い終える事ができた。


「いっぱい歌ったから、もう喉が限界。少し休もうか」

 テーブルに置かれたお茶を、ひばりはゴクゴクと飲んでいる。私も慣れないカラオケで若干の疲労を感じつつ、ソファーの背もたれに体をあずける。

「今日は、ありがとう。たくさんの初めてがあった。初めて貴方が私のことを自分の物だと言ってくれた。名前を呼んでくれた。貴方から帰ろうと声をかけてくれたし、一緒に歌えて嬉しかった。今度は、貴方の時間。何か話をしたかったのでしょう?」

 ひばりのいつもの優しい目で私を見つめている。ひばりには、私の考えていることは、全てお見通しということか。分かった上で一緒に帰ろうという誘いを、デートに変換したのかと今更ながら気が付いた。今日も、手のひらで転がされてしまったようである。

「なぜ、話をしようと思っていたのがわかるの」

「いつも見ていれば、そのくらいは分かるよ。なになに? 別れ話? それとも、愛の告白? それとも~~ いきなりプロポーズ?」

 ひばりは、口元をクッションで隠しながら私の様子を窺っているようだ。

「いや、そんな話じゃないのだけど」

「じゃあ、なに? 何でも聞いて良いよ。嘘はつかない」

「最近、苛立って、余裕がないことが多い気がする」

「女の子なら苛立つ日だってあるよ。そのくらい分かって……」

「そうじゃない。生理のことなんか言っていない」

 婉曲に表現できない私は、ど真ん中の直球を放り込む。どうせ気の利いたセリフなど、私の口からは出てこないのだから、変化球など暴投になるだけだ。

「も~~ デリカシーが、ないのだから」

「今日だってそうだ。学校で急に怒り始めた」

「それは、貴方の事をバカにしたから」

「いつもなら、どんなことでも上手くかわしていたと思う。どう表現すればいいのか? 今日は、切羽詰まっている感じがした」

「あれだけ言われれば、私だって怒ることもあるよ」

「怒っても当然なのだけど、いつもと違う言葉、雰囲気に違和感がある。放課後だってそうだ。焦って無理やり、記念を作っている気がした」

「だから?」

 ひばりは、表情を読まれたくないのか、顔をクッションで完全に隠している。

「だから、この違和感の原因を知りたい。気のせいならそう言ってくれればいい」

「その前に教えて。私にとって貴方は、大事な人。今は彼氏だけど、法律や両親が許してくれるならば、今すぐ結婚してもいいと思っているよ」

 クッションを下に置いたひばりの表情が一変し、私を真剣な眼差しで見つめている。逃げることを許さないと言わんばかりの目を、一日に二度も見ることになるとは思ってもいなかったので、思わず狼狽えてしまう。

「愛だとか、結婚だとかは、私にはまだわからない」

「そうか…… 私ってその程度なんだ」

 ひばりは、視線を外すと悲しげに俯いた。私は、自分自身の気持ちを見い出そうと天井を見つめる。ぼんやりとした気持ちはあるが、それが何であるか言い現せられない 今まで、自分の気持ちを表現することを頑なに拒絶してきたせいであろうか? 

 そんな私でも、今の気持ちを敢えて表現するのであれば、黄色味がかった、まだ磨かれていない気持ち。シトリンの原石のような気持ちであろうか。ただ、それが何であるのか? と言う明確な答えはまだ出ていない。

「適切な言葉は、出てこないけど、大切だと思っているよ」

「だから、自分の物なの?」

「物という表現も適切ではなかった。他に表現できなかったから」

「大丈夫。貴方は、自分の気持ちを表現するのが下手で恥ずかしがりやさん。行間に何が入るかなんて、私には分かるから。でも、これだけは覚えておいて。口に出して言わないと伝わらないこともあるの。言葉にしてもらえないと傷つくこともあるの」

「ごめん」

「大丈夫。少しずつ変われば」

「そうだな。時間はたくさんある」

 きっと、『そうだね』と返事が返ってくると思っていたが、帰ってきた答えは沈黙だった。不思議に思いつつ次の言葉が見つからない。別の話題を探すが、何時もひばりが話題を提供してくれることが当たり前だったので簡単には思いつかない。

「でも、驚いたな。貴方の事はわかっているつもりだった。私の事も貴方は、分かっていたのね。さっき、約束したね。嘘はつかないと」

 ひばりの声は、急に沈み込み重くなった気がする。

「何かあったの?」

「隠していることがあります。だけど、今はまだ言えません」

「えっ?」

 思っていた以上に、重い意味を含んでいそうな答えだ。何かおかしいと感じつつも、風邪をひいた程度の答えを予想していた。しかし、ひばりの目眼差しから嘘や誤魔化しは感じられない。

「隠してはいることはあるけど、もう少し待って。あと少しだけ時間が欲しい。約束します。何があっても、嘘はつかない。貴方を裏切らない。だから、もう少しだけ待って」

 何か深刻な状況を暗示しているかのように思える。気にはなるが、ひばりが口を開く時が来るまで待つしかない。

「分かった。でも、隠そうとしている貧血に関連していると予想している」

「それも、分かっていましたか…… そうよ」

 ひばりはそれだけ言うと、肩に顔を乗せてきた。

「だから、大丈夫。浮気なんかしていない。心配しないで」

 浮気ではないという答えに、どことなく安堵する自分に意外さを感じつつも、貧血程度で隠そうとするのは疑問が残る。まさか、死ぬなんてことはないと思うが、大病であった場合にどうすれば良いのであろうか? 未だかつて私にはそのような経験はなく、自身に対応マニュアルを持ち合わせていない。

『プルルルル……』

 つかの間の柔らかく静かなひと時を部屋に備え付けられたインターホンが終わらせてしまう。そろそろ、二時間が経ったようだ。もう少し、このままでいたい。

「帰ろうか」

 そんな私の思いとは裏腹に、ひばりはあっさりと席を立ってしまった。

 

 帰り道、ゆったりと自転車を漕ぐ。水田に反射する西日が眩しい。稲は青々と茂り、暑さに負けてはいないと主張するように影が伸びている。

「夏の匂いがするね」

 ひばりが一人ことのように呟いた。

「散歩や自転車の良いところは、春夏秋冬を五感で感じられる」

「そうか。分かった気がする。貴方は人の顔を覚えない。代わりに五感を使って人を感じているのね」

「言っている意味がよくわからないが、その人の雰囲気を大切にしているよ」

「貴方は、感受性が豊かなのね」

「感受性が豊かだったら、今日も豊かな表現力を発揮していたと思うよ」

「本当にね」

 ありふれた日々の会話に過ぎないが、それでも二人とっては特別な瞬間なのかもしれない。ひばりの家に着くと手を振って、そのまま私も帰路につく。後から風に乗ってひばりの声が聞こえた気がしたが、気のせいだろうと振り向くことなくも家路を急いだ。

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