第13話 明日への手紙

(影)


約束の時間に高校へ到着すると、既に紅里は到着していた。私は、カルテを何度も読み返していたので徹夜明けだ。流石に三十にもなると無茶は出来ないことを実感する。

「おはよう。紅里」

「おはよう。問題は解けているの?」

「簡単な問題だ」

 ひばりからの問題は「通いなれた教室 いつもの枕で夢見る 私の誕生日」である。この答えは容易だ。

『通いなれた教室』は、ひばりと濃厚に接した時期の教室。そして思い入れのある場所つまり一年生の時の教室かクイ研の教室。『いつもの枕で夢見る』は私が枕にしていったクイ研の問題集。『私の誕生日』は、恐らく問題集のページかひばりの誕生日が答えとなる問題。しかし、あの問題集では答えからの逆引きはできないから、多分ひばりの誕生日の百二十三ページに答えがある。

私たちはクイ研の部室へと続く廊下をあるく。私たちが過ごした時代と大きくは変わっていない。セピア色の記憶が脳裏に蘇る。

「問題が一つある。枕にしていた問題集が残っているかだ」

「不謹慎にも問題集を枕にしていたわね。私も先輩に言われたわ。超大物が来たってね」

「大物の意味を測りかねるが、あの枕は私専用で誰も触れなかった」

「触りたくなかったの間違いでしょ」

「そこは、どうでもいい。問題は、私の汗にまみれた問題集が現存しているかだ。通常クイ研では十年以上経過した問題集は破棄される」

「確かに私たちも古い問題集は、捨てていたわね」

「私が枕に選んだ時点で、破棄される直前だった。それが今更残っているか不安になる」

「残っていなかった場合は?」

 不安そうな顔を紅里はしている。

「迷宮入りだ。ただし、ひばりの事だ。何らかの方策を立てているはずだ」

「それでは、間違いなく残っているの?」

「残っている可能性が大きい。そして、紅里と二人でと指定した以上、それぞれにメッセージを残したのではなく、私と紅里に二人で何かをしてほしいのだろう」

「少し違うと思う」

「どうして?」

 私よりも紅里は、ひばりを理解しているのだろうか?

「それは、すぐに分かるわ」

 昨晩からの紅里の様子が気になる。何か隠しているのかもしれない。

「紅里、ひばりからのメッセージを見る前に、私に何か話すべき事があるんじゃないか?」

「それは、ひばりのメッセージを確認した後に伝えます」

 紅里からは僅かに迷いが感じられるが、簡単には隠しごとは出てこない。しかし、後で伝えるのであれば、今すぐに聞き出す必要はないだろう。それよりも先に、ひばりからのメッセ―ジを早く確認したい。


 部室の扉は簡単に開く。施錠しないのは昔から変わらない。部室のレイアウトもそれほど変化はないようだ。紅里と二人きりの部室で、問題集が山積みされている書籍棚に近寄ると、お気に入りの枕だった問題集を探し始めた。問題集は発行年で順番に並べられている。一番古い年の横には茶色の包装紙で包まれた物があった。それを手に取ると『石の王のみ封印を解くことを許可する』と書かれている。

「何だ?」

思わず首を傾げると

「先生の事ね」

 紅里は苦笑いしている。苦笑いしつつ包装紙を解き始めると、懐かしい日々が溢れだしてくるかのように問題集が出てきた。

「ひばりの誕生日は一月二十三日。きっと百二十三ページに何かある」

 急いで私はページをめくる。あと少しでひばりからのメッセージが届く。私に何を伝えたいのか? 約束の確認だろうか?

 百二十三ページを開くと、手紙が差し込まれていた。やっと会えた懐かしい、ひばりが生きた証だ。裏面にはひばりの名前と小鳥のマークが書いてある。間違いなくひばりの手紙。懐かしい筆跡だ。ふと気づくと、ひばりが淡く透き通るような姿で微笑みながら私の横に寄り添っていた。ひばりと目をあわせると慎重に開封し、三人で手紙を読み始める。


「大切な旦那様へ

 

 元気でいますか。

 大事な人はできましたか。

 貴方を残して、先立った私を許してください。

 神様が許してくれるのならば、貴方と添い遂げたかった。

 でも、それは認めてくださらなかった。

 それでも自信をもって言えます。

 私の人生は幸せでした」


「私もひばりと、共に過ごせた時は幸せだった。今は人生の途中であり、新たな幸せを生成しようとしている。どんな結晶が生成されるかはまだ分からないけどね」

 私はひばりに語りかけると、ひばりは微笑んでいる気がする。


「貴方の横には私と紅里がいます。

 三人で話し合いましょう。親友にも幸せになってほしいから。

 紅里は、夏休みが終わった頃から貴方の事が好きだったのだと思います。そして、その気持ちと友情の狭間で苦しんでいました。でも、紅里は絶対に言いませんでした。私は、貴方との幸せを生成するのに夢中で紅里の気持ちを気付く事ができなかった。

 紅里、気付いてあげられなくてごめんね。私が気付いていれば、いっぱいケンカして、泣いて、奪い合って、そしてまた一緒に泣けたのに。ごめんね。紅里から言い出せるわけないよね」


 手紙を読み進めていくと紅里の顔は蒼白になっている。私もひばりが何を言いたいのか理解できない。紅里が私のことを想うなど想像もしたことがない。驚き戸惑う私たちをよそ眼にひばりは、ただただ見守っているだけである。

「私は、最初は自分の勘違いと思っていた。そんなはずはない。何かの間違いだと。でも、日に日に気持ちが大きくなってきてしまった。でも、余命幾ばくもない親友を、楽しそうに幸せについて話すひばりを裏切れなかった。二人が羨ましかった。そして、親友なのに私の気落ちに気付いてくれないと恨みもした」

 紅里の声は震えている。ひばりも目を伏せるだけで何も言わない。


「私が気付いたのは、長谷川事件の後です。『二人が無事で良かったわ。』紅里が私にかけてくれていたこの言葉に違和感を覚えました。紅里が私だけではなく、貴方のことも心配した事にです。その瞬間全てが繋がりました。紅里の気持ちを。そして、紅里のした事も」


「ひばりはあの時、不満を漏らしていた。もっと一緒に居たい。でも重いと思われたくない。そんな葛藤を私は聞いていた。そんな時、私の中で悪魔が囁いた。これはチャンスだと。私は長谷川君の気持ちを知っていたので、『そんなに好きなら強引にでも取ってみなさいよ』と、彼を焚きつけてしまった。そして彼に期待してしまった。でも、すぐに後悔に変わった。善意と悪意の狭間で放ってしまった言葉は、あまりにも大きな代償をもたらしてしまった。そして、『それでも、紅里は私の親友だから』と言われた時、心の底から凍り付いた。全て気づかれている。それでもそう言ってくれた時、私は負けたと思った。そして、せめてもの償いにとひばりの残りの人生に少しでも力添えをしようと決心した」

 蒼白な顔色の紅里に、半透明のひばりは前から抱きしめるかのように手を回している。紅里の告白に私は、ただただ驚く。あの事件は、全て調べ上げた上で完璧な対処を行っていたと思い込んでいたが、本当の真実はまだ残っていた。


「私は、紅里を許しました。だって、かけがえのない親友ですから。たった一度の過ちで、私たちの積み上げてきた友情を失いたくなかったから。それでも、私は貴方を失いたくなかった。せっかく貴方と生成しかけた幸せを、失いたくなかった。そして、私には別の幸せを見つける時間は残されていませんでした。その日から紅里は親友でもあり、私のライバルでもありました。紅里は二度と同じ事を繰り返さないと信じつつ、私は決心しました。二度と他の人に付け入る隙を与えないと」


 ひばりは、泣きながら告白している紅里を包み込むように抱きしめている。私は、初めてひばりがベタベタとくっ付いてきた本当の理由を知る。当時の私はそんな心配をひばりにさせていたとは思いもしなかった。

「私は、決心しました。紅里が本当に貴方の事を大切に思うのであれば、貴方が一人前の医師になった時に結婚してもらおうと。紅里は、貴方と添い遂げられる数少ない女性と直感しましたから。

 貴方。三年以内に素敵な女性を、私が探す約束をしましたね。遅れてしまってごめんなさい。その代わりに、知る限りの最高の女性を、貴方に紹介します。紅里、私は貴方を許しています。だから、いつまでも自分を責め続けるのは止めてください。自分を許す勇気も大切です。人は迷いながら揺れながら生きていきます。でも、明日を描くために、もがきながらでも進まなければいけません。私の望みは、二人が前に進んでほしい。そして、二人に見つけてほしい。新しい本当の幸せを。

 

 大切な貴方。

 私の大切な夫。

 私たちの旅は、これでお終い。

 明日からは、紅里との旅が始まります。

 離婚届を同封します。

 署名したら燃やして、私に届けてください。


 もう一度言います。


 私は幸せでした。

だから、貴方たちも幸せになってほしい」


 ひばりの手紙の最後には、白紙の離婚届が同封されていた。いつものインクで書いてあるのだなと即座に理解し紫外線ライトで照らすと、ひばりの署名浮き上がる。所々文字がかすれて読みづらい。恐らくひばりの涙でかすれてしまったのかもしれない。カバンの中からボールペンを取り出し署名する。ひばりは、今まで妻であり続けていてくれた。

「ありがとう」

 窓を開けて離婚届に持っていたライターで点火する。離婚届はさも当然と言わんばかりに、何ら抵抗も示さず燃え上がる。全体に火が回ると勢いよく燃え上がり、数秒で燃えカスになる。立ち上がった煙を天上の配達員が受け取り、一筋の風に乗せて送り届けて行くかのように消えてしまった。


「私は、あなたの事がずっと好きでした。でも、ずっと後悔してきた。自分が許せなかった。それでも、あなたの事が好きです。結婚するのは無理であるのならば、せめて傍で見守らせてほしい。ただ、それだけです」

 今まで紅里は、後悔との狭間でもがき苦しんでいたのか。この十数年の間の苦しみは筆舌に尽くしがたいのであろう。その思いが痛いくらいに伝わってくる。しかし、

「紅里。結婚できない」

 例えひばりの望みでも、受け入れる事は不可能である。紅里は全身から力が抜け呆然としてしまった。私は、ポケットから二つの水晶を取り出す。手のひらの上の水晶は無色透明ではなく、いつもより赤見がかっている。部室内を見渡すと、室内の色が変化し紫がかった茜色に代わっていた。懐かしい、幻想的で、全てを優しく包み込む色。でもどこか威厳のある色。ひばりが『神様の色』と呼んでいたことを思い出す。

 窓の外は日光が燦燦と照らしているのに、室内の光だけが不思議と変化している。紅里は光の変化に気が付いていないのか、ただ茫然と立ちすくんでいる。

「昔ひばりが、神様の色と言っていた色だ」

 私はひばりに向かって話しかけると、ひばりは無言のまま頷く。

「ひばりとの約束は果たされていない。いや、果たそうとしていない。私は、その努力を怠ってきた。ひばりの勧める相手でも、その努力を怠った私に結婚の資格はない」

 この十数年を振り返ると、本気で幸せを考えたことは一度もないと思う。

「紅里。ひばりが伝えたい事は少し違う。結婚しろと言う事ではない。二人で幸せになれと言うことだ」

 紅里は、無言で私を見つめている。

「だから、今は結婚できるとは言えない。二人で進む道の方向性すら定まっていない私たちが、結婚しても幸せにはなれないと思う」

「卒業後は、あまり話したこともなかったものね」

「ひばりとの幸せは、水晶のように結晶化するものだった。紅里との幸せは、結晶化する物なのか、育む物なのか、共に歩んで探し出す物なのか分からない。いろいろな方法があっていいと思う」

「私は、あなたと結婚する事だけを夢見ていた。何故、ひばりがあんなに真剣に幸せを追い求めていたのか、今なら分かる」

「二人で新たな幸せを考えてみようか。そして、二人の幸せを見つけるために必要となれば結婚しよう」

「そうね。二人で歩ける道を見つけられたら嬉しいわ」

「これが、ひばりからの大切な手紙の意味だと思う」

 ひばりが伝えたいことを、私たちは受け取れたかと、確認するためにひばりを見ると、いつの間にか、ひばりは透けて薄くなっている。ひばりの手が水晶を持った私の手に重ねてくる。試しに手を握ってみるが、通り抜けてしまって握れない。しかし、心なしか手のひらが、ほんのりと温かい気がする。いつの日か感じたひばりの暖かさ。そして、久しく忘れてしまっていた温もりだ。

 ゆっくりと、ひばりと私の手が、離れていくと感じる温もりも薄れていくみたいだ。二つの水晶からは緑色の淡い光がゆっくりと放たれている。その光は、一筋となりひばりの手に集まっていく。ひばりの手には、若草色の美しい結晶が現れている。やがて、水晶から放たれる光が、徐々に弱くなり消える。

『貴方たちなら、大丈夫』

と、ひばりは伝えている気がする。やがてひばりの姿は、若草色の結晶から形のない輝きへと変わる。その輝きは私たちをそっと抱きしめるかのように、私たちを包み込んでくれる。ひばりとの本当の最後が近づいている。

「ひばり、また会えるかな?」

 ひばりに尋ねると、私たちを包み込む光は、一点に凝縮し淡黄色のオーブへと変化する。光のオーブは、私たちの間に浮かんでいる。

「ひばり」

 紅里はオーブに触れようとするが、触れることはできない。

「私たちに必要な時は、いつでも横に来てくれるよ。ひばりは昔そう約束してくれた」

「そう。見守ってくれているのね」

 紅里は、オーブの意味を理解したようである。

「私には、また大切な人ができたのかもしれない。いつかの夢を叶えるために、この道の先を進んでみようと思う」

 オーブに語り掛ける。オーブは、私の顔の前にふわふわと浮かんでくると唇に触れる。まるで、お別れのキスをするように。

 やがて、オーブは私から離れると拡散し、神様の色の光に溶け込んでいく。そして、ヴェールとなった光は窓から、天へと進んでいく。ひばりは、二人の心の地図が指し示す地へ向かい、そこで待っていてくれるのであろう。

 私の手には、いつも通りの透明な二つの水晶が残っている。いや、いつもより輝きを増しているように見えるのは、私の気のせいであろうか。


(光)


 ぼんやりとした意識の中で『何て騒々しい天国なのだろう』と思いながら目を開けると、神様ではなく、興奮した谷川先生が見える。最後に見えた顔が先生になるのは嫌だわ、と思っていると耳元で何かをがなり立てている。

「今から心臓移植するから。このまま眠ってもらうからね」

耳が避けるくらいの大声が何かを言い続けていたけど途中から記憶がない。

 意識が再び戻った時には集中治療室に病室は変わっていた。その日から、痛みや苦しみと戦いながら少しずつ体調を取り戻し、衰えてしまった体力を取り戻すリハビリにも耐えてみせた。

 今日は、手術後初めて外出が許可され、病衣から私服に着替えた所だ。病室の窓からは桜が開花し春の訪れを感じるのに、父親が持ってきた服は白のブラウスに、黒のズボン。おまけに、グレーのカーディガン…… センスの欠片もない。センスの悪さは母親も知っていたはずなのに…… と愚痴ってしまった。そのせいか、両親の雰囲気は重苦しい。父親は苛立っており母親に何かと当たり散らしている。準備が整うと両親に連れられて、車で病院を出る。

 楽しみにしていた外出なのに、この服と険悪な雰囲気のせいで最悪の外出になってしまいそうだ。土曜日の八時という早い時間のせいかすれ違う車はそれほど多くはない。自宅の前を通り過ぎてしまうと、

「彼に会いに行く」

 父親は短く説明し黙りこくってしまう。夫に会えるとわかり嬉しくなる。会うのは、いやメールも含めて二カ月近く全く連絡をしていない。せっかく大手術を乗り越えて元気になったのに、お見舞いに来ないなんて非常な夫だ! と文句を言って駄々っ子になってやろう。手術してからの二か月間は鉱物に夢中になって私の事なんて忘れていたに決まっている。その償いも含めて、甘えてみるのも良いかもしれない。悪戯っ子になってみるのも良いかもしれないと、考えているうちに夫の家に到着した。

 母親の介助で車から降りる。夫に早く会いたいと気は焦るが、体はまだまだ自由が利かない。

「さあ、ゆっくりと行きましょう」

 家へと入ると夫の両親が待つリビングのソファーに座る。入院生活で体力が落ち、十分には回復していないのに夫は玄関まで迎えに来なかった。ますます不届きものである。

 自ら話し始めようとする者が誰もおらず室内に広がる静寂がふと不安になる。夫に限って浮気などできないはずだ。会えないうちに気持ちが離れてしまったのか?  夫はそんな簡単に心が離れる人ではない。だとしたら、私から連絡をしなかったから、拗ねてしまったのか? そうであれば、温かく抱きしめてあげよう。そうすれば、必ず戻ってきてくれる。両親に介助されながらリビングに到着する。

「さあ、行こう。私たちは何も言わない」

 父親の無機質な言葉が不安を無性に駆り立てる。『何も言わない』ってどんな意味か? 夫の心の変化は、不可逆的なものになってしまっているのだろうか? もしかすると本気で夫に話さなければないかもしれない。夫の両親は和室に案内してくれる。行く先が夫の部屋ではないことも変だ。もしかすると心の問題ではないのか? 夫に限ってフラッシュモブや、ドッキリを仕掛けるなんて豊かな発想は出てこない。私の不安とは裏腹に、鼓動は恐ろしく安定している。

 リビングから、和室へ少しずつ歩を進めると、襖の前で自然と立ち止まった。この先に私の不安の正体が待ち受けているようで、重くのしかかるような威圧感が伝わってくる。この先に待ち受ける何かと対峙しようとするが、その正体は皆目見当もつかない。このまま襖を開けなければ、逃げる事も可能かもしれない。しかし、戸籍では認められなくても、心の中で私は『妻』である。どんなことが待ち受けようとも、私は襖の奥で待ち受けている真実を確認し、『夫』と二人で立ち向かわなければならない。

 襖を引く手が重い。更に力を加え、少しだけ開いた隙間に私の全てが突風となり吸い込まれそうになる。暗い何か。悪意や恨みではではない何か。もっと、深い地の奥底。そう、虚無。いや、虚無ですらない。感情も何もない完全な『無』へと引き込み私を侵食しようとしている。『早く閉めて』私の本能が必死に訴える。開けたが最後、全ての現実と向き合う強さがあるの? 受け入れる事ができるの? と。

 『無』によって世界を侵食され完全に包み込まれる前に、そして覚悟を決める前に反射的に襖を完全に開けてしまった。


 そう

 そこには、『無』が広がっていた

 絶望すら許されない『無』が……


 恐ろしいまでの沈黙。いや、色彩や気配どころか光陰すら存在しない。闇の静寂が私を包み込む。それは『無』だ。『無』は音もなく私を侵食する。抗う事などできない。魂の中まで侵入し思考は停止する。『無』は何の感情もなく、ただ、ただ私を侵食してきた。

 どれくらいの時間が経ったのであろう。『無』は、私を完全に侵食しつくし、空っぽになったのを見届けると圧力を弱めたようだ。ぼんやりとではあるが、視覚と思考が戻ってくる。生まれたての乳児のように世界はボヤけている。頭の中では、人間の根本とも言える疑問が浮かんでは消える。


 私は誰?


 ここはどこ?


 私はなに?


 何をしているの?


そうだ。思い出した。


私は、ひばり


 ここは貴方の家


 私は、貴方の妻


 そう、貴方に会いに来た


「いや―― っ」

 言葉にならない悲鳴が世界を切り刻む。襖の向こうには、祭壇に蝋燭、そしてお供え物と共に夫の遺影と遺骨が置かれている。『無』が作り出した全身の空虚に、虎視眈々と待っていた『恐怖』が侵入してくる。そして、私を苛烈に蹂躙しながら嬉々として踊り狂う。

 そう。侵入してきた『恐怖』には思考や感情など存在しない。情動、いや本能として生物が感じる生命の危機。純粋な脅威しか存在しない。『恐怖』に打ちのめされ、私の人格は崩壊し視界は一気に暗転してしまった。


「ひばり! 目を覚ませ!」

 気が付くと廊下に横たわり、私の父親に体を揺さぶられている。私の母親は横ですすり泣いていた。

「いや。何? どうして? 何で?」

 夫が亡くなったなんて信じられない。いや、信じたくもない。

「嘘でしょ。悪ノリし過ぎでしょ。お父さん。どうして? みんな、何も言ってくれないの? 私、頑張ったよ。頑張って手術に耐えて、苦しいリハビリもしたよ。それなのに、どうして? こんなことをするの?」

 それでも私の心臓の鼓動は恐ろしく安定している。私は、恐怖に支配されつつも、夫の部屋へと這いずり回る。

「出てきてよ。悪いことをしたのなら、謝るから出てきてっ」

 夫の部屋には静寂しかない。隠れているのかとベッドの下やクローゼットの中を確認するが、どこにも気配は感じられない。携帯電話で夫に電話する。夫の机の上では聞きなれた着信音が鳴動しているが、その持ち主は現れない。

「お願いだから、顔を見せて。私、何でもするから」

「嘘ではない。現実だ」

 私の父親は、ゆっくりと話した。

「そんなの認めない。私は見つけ出す。あなた達がどこに隠しても」

 私は息が絶え絶えになりながらも和室へ降りると、夫の遺影を抱きしめる。

「待っていてね。私は…… 必ず貴方を見つけ出す」

 絶対に認めない。そんな残酷なことがあって良いはずがない。

「ひばり」

 母親が私を抱きしめてくる。

「手術の前日にお見舞いに来てくれた。話をしたし、手も握りしめてくれた。そして、緑色の石を私にプレゼントしてくれた」

「何故それを……」

「誰か、話したのか?」

 私の言葉に全員が凍り付いたように固まりつつ小声で話し合っている声が漏れてくる。

「息子は、ひばりさんへのプレゼントを探すための、鉱物採取の途中で事故にあった。これは、ひばりさんへの手紙だ」

 血塗られたノートを、夫の父親は私に手渡す。このノートには見覚えがある。夫が鉱石採取の時には持ち歩く観察ノートのだ。必死にノートを開いたのだろうか、夫にしては珍しく、空白のページの間に書かれている。


 私は幸せだった。

 この石 ひばりに

 さいごまで

 けっしょうをつく


 間違いなく夫の筆跡だ。見間違うはずなど決してない。手紙は途中で終わっている。夫はここで力尽きたのだ。否定しようのない真実を、まざまざと見せつけられ認めざる得ない。

 『恐怖』は私を完全に支配し終えると、『絶望』が音もなく近づいてくる。私を圧し潰す絶対的な存在感がひしひしと伝わってくる。

「奴は死んだのに、何故お前は手術を受けたのか?」

 心を芯まで凍らせるような冷たい声で『絶望』は語りかけてくる。

「それは知らなかった」

「何のために生きている?」

「それは……」

「お前だけ生きながらえて良いのか?」

「違う。死ぬのは私だったはず」

「でも奴は死に、お前は生きている。お前は奴に同じ苦痛を味合わせたかったのだろう? 自分の幸せ。いや自己満足のために」

 『絶望』に、じわり、じわりと少しずつ淡々と締め上げられる。

「違う。私が死んだ後も、夫は生きていけるように二人で準備した。全ては完成した」

「二人で準備し完成したのなら、何故お前は我と話している?」

「それは……」

「お前と出会うことで、奴は幸せになれたのか? むしろ、お前のせいで彼は死んだのだろう? 幸せな未来を奪ったんだろう?」

「……」

「身勝手な行動だったのだ? そして、お前は自身に秘められた黒い思いに気が付いていた。それを勝手に美化し、奴の為と偽ろうとしたんだろう?」

「そんな……」

「そう、お前は思い上がっていたのだ。自らを神と勘違いし、未来をコントロールしようとしていた。浅はかな考えしかできぬのにな」

「そう。私は、思い上がっていたのかもしれない。不幸で病弱な少女を演じていたのかもしれない」

 既に『無』と『恐怖』に人格を崩壊させられたせいで、いとも簡単に『絶望』の締め付けに屈服してしまう。

「つまり、お前は奴を愛していなかった。都合のいい、思い通りに動く役者でしかなかった。いや、役者ですらない。奴は…… お前の傀儡だ」

「そう、貴方は役者。夫ではなく傀儡。傀儡…… 傀儡……」

 いつの間にか、傀儡が私の目の前に首を垂れて力なく座っている。次の指示を待っているかのようだ。

「動け」

 傀儡に指示を出すが、傀儡は微動だにしない。

「哀れなものだな。傀儡にすら見捨てられた。我の元に来い。そして跪け。お前の望むものを、望む世界をくれてやる」

 私は、ふらふらと吸い寄せられるように『絶望』の前に進む。『絶望』に従えば、傀儡は再び私に従う。私の元に帰ってくる。傀儡と共に幸せになれる。

 幸せ? 遠い昔。遥か彼方。幸せなどと言う、取るに足らないものを追い求めていたこともあった気がする。そう傀儡と共に描いた幸せ。

 私の心にあった淡黄の結晶は、私の胸から常闇の世界へ吸い出されるように浮かび目の前に浮かんでいる。

「その結晶を差し出せ」

 結晶を差し出すために浮かんでいる結晶を手に取る。温かい。忘れていた温かさを思い出す。しかし、私には、もう必要のないものだ。

「さあ、それを差し出せば望みは叶う」

 淡黄の結晶を差し出すために手を伸ばすと、澄んだ若草色の日本式双晶が私の前にどこからかふわふわと漂ってきた。この結晶は? そうか…… 傀儡の結晶か。

 若草色の結晶は、『絶望』へ淡黄の結晶を差し出すのを阻むかのように浮かび私に触れる。若草色の結晶からは、柔らかい優しさを感じる。何だろう? 


 この暖かさ。忘れていた何か。

 この優しさ。忘れてしまった誰か。

 傀儡?

 いや、違う

 役者?

 何か、違う

 彼?

 それも、違う

 そう、貴方

 そう、私の夫


 抑圧されていた全ての記憶が、二つの結晶から光りの奔流となって、私の中に流れ込んできた。誕生から現在に至るまでの記憶。そして感情が。全てが無秩序に入り込み闇を照らし上げる。

「大丈夫」

 いつもの私の言葉を、夫が私に語りかけている気がする。

「大丈夫。一人じゃない。私は側にいる」

 その瞬間、悪夢から覚めるように、意識が回復し現実世界へと引き戻された。


 今の世界は? 私の闇? それとも悪霊が跋扈する世界? 『無』、『恐怖』、『絶望』たちの支配が弱まり、夫や家族と温もりや優しさに包まれてきた日々を思い出す。それは、神様が与えてくれた闇を照らす光。生きるための光りなのかもしれない。闇の支配は、永遠に続くかと思うような、永い時であった気がする。しかし、それは一瞬の出来事であったようだ。


 目の前では夫の父親が、ノートの説明をしようとしている。

「ノートと一緒に、この石を息子は握りしめていたそうだ。ひばりさんは始めて見るはずだ」

 夫の父親は、そう話すと若草色の石を私に渡す。いや、この石は夫が病室に持ってきてくれた石。私が夫からのプレゼントを見間違えるはずがない。

「息子は、鉱石採取から帰る途中、落ちてきた岩が頭部に当たり致命傷を負った。後から下山してきた老夫婦が発見したときは、既に虫の息だったそうだ」

 夫の母親はすすり泣いている。

「すぐに大学病院に運ばれたが、治療は不可能だった」

 夫の父親の説明に、悲しみがじわりと押し寄せ、私を飲み込む。全ては現実なのだ。

「死んでしまった」

「息子の死を秘密にしていたのはお詫びします。今日、無理を承知で外出していただいたのは、息子の四十九日法要に妻として出ていただくためです。高校生であるひばりさんには酷な事かもしれないが、妻としての責務、そして権利を果たしていただきたい。二人のために」

 妻としての責務と言われると、いつまでも呆然とはしていられない。

「分かりました」

 返事と裏腹に、私は夫の遺影を抱きしめ泣きじゃくる。涙は止まることなく、次から次へと流れ落ちる。ちょっとやそっとの涙では悲しみを洗い流すことはできない。

「法要まで二時間ほど時間があります。息子の部屋で休んでいてください」

 夫の母親に付き添われながら、夫の部屋のベッドに横になると、思い出、温もりが走馬灯のように駆け巡る。夫はこの部屋で生きていたのだ。


 法要が終わると家に集まった親族も続々と帰り、夫と私の家族が残された。

「なぜ貴方は、死ななければいけなかったの?」

 独り言のように私は、呟く。

「理由はないと思う。寿命であったのかどうかも、分からない」

 夫の父親は、静かに続ける。

「不慮の事故ではあったが、息子は幸せだったと思う。ひばりさんに出会ってから、息子は本当に楽しそうであった。感情を見せない息子であったが、それでも充実した毎日を送っているのが息子の言動から溢れ出していた。息子を幸せにしてくれて本当にありがとうございました」

 夫の父親の『ありがとうございました』という言葉が、私の胸に深く突き刺さる。これは現実であると、望みもしないのに再確認させられる。

「幸せだったのでしょうか?」

 私の中で暗く渦巻き、近寄ることすら許されない問いである。

「息子は、幸せでしたよ」

 夫の母親から迷いを感じない。

「でも、私は死への準備が整い。彼は次の一歩を踏み出す準備をしていた。それなのに、逆になってしまった」

「母親として断言できます。息子は幸せでした。それに、よく考えて。ひばりさんが、息子の立場だったらどう考えるかを。きっと、生き残った息子が心配で、心配で成仏できないはずよ。だから、私の息子が成仏するためには、ひばりさんが幸せになる必要があるの」

 夫の母親の言葉は少し違う。私たち二人は、私が旅立つ準備を完了させていた。だから、私は躊躇うことなく成仏していたに違いない。私は病室で夫とした会話を、何となく思い出した。私は、夫と約束した、『もし、逆の立場になったとしても同じ約束をしてほしい』と。でも、本当に夫が先に亡くなることなど、微塵も考えてもいなかった。しかし、この現実に直面し、二人でした約束の重大さが初めて私にのしかかってくる。夫は、どれほどの覚悟で私と向き合い、約束を果たそうと努力してきたのか。私が、夫の立場だったら、とても耐えきれないかもしれない。夫が私をどれほど大切に想っていてくれたのか、今になって本当に分かる。


「ひばりさんには、息子の最後について話をしておこう。ひばりさんの今後のためにも…… ご両親もいいですか?」

 夫の父親が話すと、私の両親は無言で頷いている。

「息子が山に入ったのは、ひばりさんの手術の四日前だった」

「それならば、山にではなく、私の病室に来てほしかった」

 私は、夫と最後にもう一度、話しをしたかった。ただ、それだけでよかった。

「石を採取したら、ひばりさんに渡しに行くと話していた」

「石なんていらなかった。ただ、顔を見たかっただけなのに…… 」

「繰り返し、冬山は危険だから行くなと常日頃から息子に言っていた。しかし、『その石が必要なんだ』と言って聞かなかった」

「そして貴方は…… 透輝石を病室に持ってきてくれた」

 呼吸が苦しく意識が朦朧としていた中、『この石は、透輝石と言う。癒しを与えてくれると共に、この石が道しるべになってくれる』と教えてくれた。


 そう


確かに、来てくれた


 確かに、二人で会話した


 貴方は、透輝石をくれた


 そう……


 夢では、なかった


 その瞬間、『一度だけドンッと大きく心臓が鼓動』した。

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