第14話 エピローグ

 周囲を振り返ると元診療所の入り口に戻ってきていた。屋外では、相変わらず天から地まで全てを破壊し尽くすかのように、激しい雷光が縦横無尽に荒れ狂い、雷鳴が耳をつんざいている。魂が侵食されてしまっていた若者を思い出し慌てて確認する。若者の肩には若草色のオーブがちょこんと乗り、夫の淡い光りで顔が映し出されている。

「私が死ぬはずだった。でも、神様は残酷だった」

「どうなったの?」

 若者が初めて言葉を口にした。その声から、まだ年齢の割には幼さが伝わってくる。そして、『時の扉』の世界を共に追体験しても、人格が崩壊していなかったと安堵した。きっと、貴方が若者を守ってくれたのね。

「彼は、病院に搬送されたけれど、手の施しようもなく脳死と判定されたそうよ。彼は、臓器提供カードで全ての臓器の提供意思を示していた。だから、彼の臓器は全て摘出されたわ」

 若者が抱いている『恐怖』『絶望』『無』。それら『黒』たちが未だに天空をかき乱しているのであろうか。屋外では、捕えた獲物で遊ぶ猛獣が狂喜乱舞し、最後の止めをいつ刺そうかと、狙いを定めて近づいてくるかのように、激しく風雨が吹き荒び、雷光と雷鳴が激しく踊り狂っている。

「暫くの間は、ショックで寝込んだわ。高校に通えるようになっても、引きずっていた。時々、やけになろうとした事もあったわ。でも何故か、その度に心臓が一度だけドンッと大きく鼓動したわ。落ち着けとね」

「立ち直れたの?」

 若者の無表情で生気が欠片も感じられない姿から、かつての自分を思い出す。あの時の私の顔も同じであったに違いない。

「私には、彼との大切な約束があったわ」

「約束?」

「ええ、彼に『もし、逆の立場になったとしても同じ約束をしてほしい』と約束したの」

「その約束に縛られていたの?」

「そうじゃないわ。縛られていた時期もあったけど、むしろ守られていた気がする」

「約束に守られる?」

 若者は私たちが、交わした約束の本当の意味を理解してない。

「ええ。約束を守るために。そして、心臓外科医を目指そうとしたのか知るために、狂ったように勉強したわ」

 ただただ、夫の軌跡を追っていただけだった。夫の軌跡を追うことで、繋がりを保とうとしていた。夫と繋がっていれれば勉強だろうが、不良行為だろうが、何でもよかった。

「そうなんだ」

「医学部に入学して、最初は夫が描くはずだった軌跡を追い続けられると感謝していたわ。でも、それは長くは続かなかったわ。次第に、私は何をしているのだろう? こんなことに意味はあるのか? と疑問を感じ、彼の写真の前で毎日泣いていた。そんな大学一年の冬に、彼の七回忌に呼ばれたわ」

「そう」

 若者からは、相変わらず生気のない返事しか返ってこない。

「彼の七回忌で彼の父親に教えてもらったの。二年ほど前に彼の心臓を移植された患者から手紙が来たこと。そして、その手紙には、『これからの人生は、幸せに向かって全力でやり遂げます』と書いてあったとね」

 私は大学生活の中で手紙を臓器提供者(ドナー)の家族に手紙を書いていた。何故なら、どうしても知りたかった疑問。四年もの間心の中で問い続けていた。もしかして、この心臓は彼の心臓ではないのか?

 しかし、今の日本では、その答えを知る方法は用意されていない。なぜならば、臓器提供を受けた人は、ドナーの家族とは連絡を取ることは許されていないからだ。唯一の方法は、手紙を日本臓器移植ネットワークを介して送ることができる。ただし、個人情報は特定できないよう処理されてしまう。ドナーの家族も手紙を返せるが、同様である。

「だから、私は手紙の中に合言葉を入れたの。彼の両親が読めば、必ず私が書いたと分かるように」

 彼の父親は、手紙を読んで合言葉に気が付いてくれたのだと思う。そして、レシピエントとドナーで個人情報を伝え合うのは、禁止されているのを承知の上で、こっそりと教えてくれた。多分、私が少しでも早く立ち直れるようにと。

「つまり、その人の心臓を移植されたの?」

「多分そうよ。そして、その事実を知った時、気絶する程大きく『心臓が一度だけドンッと大きく鼓動』したわ」

「……」

 少しずつ言葉を発するようになった若者の肩から、オーブはふわりと浮き上がると、私の胸にとまり、優しくまたたいている。まるで『正解』と彼が教えてくれているようだ。

「私は、その時に気が付いたの。約束の本当の意味を」

「本当の意味?」

 夫との約束『もし、逆の立場になったとしても同じ約束をしてほしい』とは、立ち直って、新たな人生を歩むことだと思っていた。でも、真の意味は、さらに残酷だった。

「私たちが交わした約束の意味は、私たちの『夢を完結させる』だったの」

「完結させる?」

「そう。例え望まない結末でも夢は終わらせなければいけない」

「そんなこと出来ない!」

 それまで青白く生気の欠片も感じ取れなかった若者の表情は一変し顔は紅潮している。

「そうね。夢が叶わなくても『夢を完結させる』のは大事な事よ」

「夢を諦めろというのか!」

「そう、『夢を追う』ことは、人にしかできない大切なこと。『夢を追う』ことで、本当の努力を行い、持っている能力を出し切ることが出来るわ」

「だったら、『夢』はあきらめず追い続けなければならない。例え『かなわない夢』であっても」

 『夢をあきらめない』努力は確かに大切であろう。人から何と言われようが、何と評価されようが『夢』を追い続けることでしか達成できないこともある。しかし、現実は残酷でもある。

「そうね。『夢を追う』ことは大切だと思う。でも、『夢を完結させる』べき時もあるわ」

 私たちは、望まざる結果を突きつけられることがある。夫の突然の死のように。

「その『夢』が全てだった。必死に『夢』を追っていた。だから、なくなってしまった今、生きている価値はないんだ」

 若者は、『夢を追う』ことが許されない状況に陥りながらも、認めることができていないようだ。

「私も、彼の死を知るまで『夢』を追っていたわ。けれどもね、『私たちの夢を完結させる』ことが必要となってしまったわ。あなたも、見たでしょう。私の『時の扉』を。なぜ、あんな古びた監獄のような扉をしていたと思う?」

「それは、『夢をあきらめた』からだ」

 私の問いに若者は寸分の躊躇いもなく答える。

「そうね。あきらめたとも言えるわ」

「あきらめて、幸せになれたのか? 心の奥底にしまい込み、幸せな振りをしただけでしょ。そんな、偽りの幸せに価値はない」

「違うわ。あの扉の中にあるのは、完璧を求めた『夢』でしかないの。例えば、マラソン選手が県大会で優勝したら、次は地方大会、全国、そしてオリンピックへと『夢』が広がっていく。そうして、より『完璧な夢』を実現しようとするわ。」

「当たり前だ」

「より『完璧な夢』の実現を目指すのは良いことと思うわ。私も同じだった。私の夢は『彼の幸せ』だった。だから、未来の彼ならこうすると決めつけ合言葉や手紙を残し、少しでも彼が『幸せ』になれるよう種をまいたわ」

「夢を手放していないじゃないか!」

 私の願う幸せは、私の描く夫を実現しようとする『エゴ』でしかなかった。私の『完璧な夢』でしかなかった。考え蒔いた種は『こうしたら幸せになる』、『こうするべきだ』と独りよがりな考えの元に生まれた結果だった。黒たちの言った『お前は思い上がっていたのだ』とは、私が勝手に思い描いた『完璧な夢』でしかなかった。そして、夫を縛ろうとしていた。黒たちは巧みに私を締め付けてきたと思っていたけど、本当は『夢を完結させる』のを拒否した私自身が黒たちを生み出し、自分で自分を締め付けていたのだ。

「七回忌の時に気絶するほど『心臓が一度だけドンッと大きく鼓動』した時に、彼に怒られたと思ったわ。『夢を完結させるのが、約束だろ』とね」

「そんなの詭弁だ」

「『夢を追う』のと『夢を完結させる』は地球と月の関係よ。互いに影響を与えながら、寄り添い決して切り離すことはできない。『夢を追う』ことは幸せになるための手段であり、目的ではないわ。だから、夢が実現できなくなってしまった時には、夢に縛られるのではなく、手放さなければ幸せになれない。だから、死ぬ時まで二度と開けまいと、重く固い扉の向こうに封印したの」

 どんなに華々しい世界で活躍する選手でも結果を残せない選手でも、引退という『夢を完了させる』時は必ず訪れる。十分な結果を残すことが出来なかった選手ほど『夢を簡潔させる』のは難しいのかもしれない。これは、スポーツに限らず受験や恋愛、仕事でも同じことが言えるかもしれない。

 しかし、人間は全ての夢を叶えることなど決して出来ない。それぞれが、望んだ結果や望まざる結果になった夢を数多く抱えて生きている。例え望まざる結果になってしまった夢でも幕を引き思い出としなければならない。

「でも、叶わない夢を完了させることなんて……」

「私も添い遂げることは、できなかったけど彼との約束を守ったわ。恋をして結婚、出産もして、幸せになったわ」

 若者の両手を、私は優しく握りしめる。

「あなたにも分かってほしい。人生は思い描いた通りには進まない。どんな人も迷いながら揺れながらも、歩いて行かなければならないわ」

「でも…… もう何もない。家族も幸せも。そして目標さえも。そんな私に幸せなんて見つからない」

 今の若者は、人生への希望や歩んで行くべき道筋を、完全に見失ったあの時の私と同じなのであろう。

「あなたにとって、不幸な経験があったのかもしれない。でもね。人生はやり直せるの」

「皆、同じことを言うけれども人生にリセットボタンはない。本当にやり直せるんだったら、あの時に戻してよ」

 人生には多くの岐路があり、その岐路には幾つかの扉がある。どの扉を開けるかによって人生は大きく変化してしまうことがある。また、扉を開けて進むまでは、その先に何が待ち受けているか見通すことはできないし、強く望んだ扉であっても固く閉ざされて通ることが許されない扉もある。そして扉は一度開けてしまうと後戻りできないことが殆どである。

この若者は、固く閉ざされ完結してしまった過去の扉の向こうにしか生きる場所がないと信じている。完全に過去の物となってしまった『夢』は、呪縛へと変わり、若者は囚人として捕えられてしまっている。若者は。『夢を完結させる』事を出来ないまま、決して再び開くことのない扉をこじ開けようと、幾度となくぶち当たり、その度に地べたに打ち付けられたに違いない。そして、傷つき、やがて魂まで削り取ってしまったのかもしれない。そうして、開かれない扉を呆然と眺め続け、過ぎ去った『夢』にしか生きる意味がないと考えてしまうようになってしまったのも仕方がない。

「ごめんね。表現が良くなかったわ。あなたの言う通り人生にリセットボタンはないわ。でも、夢を完結させれば今まで以上に幸せになる事は可能よ」

「私には、そんな世界はない」

「私にも、あの時は本当に辛かった。彼を失った今、私は二度と幸せにはなれないと思っていた。でもね『夢を完結させる』ことで、新たに幸せになることも可能よ」

 若者から視線を外に移し、遠くの景色をぼんやりと見つめると、あの時の辛さを思い出す。今、若者もあの時の私と同じように、もがき苦しんでいるのであろう。もしかすると、自死してしまうかもしれないし、荒れた生活を送ってしまうかもしれない。しかし、私も苦しんだことがあるだけに何か若者に伝えたい。

 オーブは、私の胸からふわりと浮き上がると、拡散し若草色のヴェールとなる。私の夢で描いた光景だけど、彼も同じように私と若者を包み込んでくれている。

「仮に夢を諦めてもも、暗い影は影。決して光とならない」

「違うわ。諦めるのじゃないの。完結させるの。そして、思い出としてとっておくの」

 叶わなかった夢は完結させ、思い出として見られるよう視点を変えなければならない。どんなに美しい結晶でも結晶の底には影があるように、角度によって『幸せ』としても『不幸』としても見ることができる。そして、影があるからこそ光りは輝ける。

「だからと言って、私が幸せになれる保証はない」

 若者の言葉は真実である。例え、今どんな話をしても、捕らわれている若者を解放し、視点を変える魔法の言葉なんて世の中に存在しない。「そうね。再び立ち上がるまでには、本当に時間がかかると思う。そして、『夢を完結させる』ことは本当に辛いと思う。でも、『夢を完結させる』準備ができた時のために、私は伝えているの。未来のあなたに」

「そんな時が来るとは、とても思えない」

 若者は、絶望という深淵に振り落とされ、息も止まってしまいそうな衝撃に全身の骨が砕け散り、痛みと苦しみで悶え苦しんでいる。今、立ち上がろうとしたところで傷と痛みで立ち上がる事なんて不可能に違いない。むしろ、傷口を広げてしまい、大量出血を起こしてしまうだろう。そんな若者に日にち薬だから、じっとしていれば良くなると伝えた所で何の価値があるのであろうか?

 私も悲しみの中で幾度となく、なぜ私も死なせてくれなかったのかと両親に泣き叫んだ。運命を呪った。閉ざされてしまった扉の向こうに戻れない未来なんて、必要がなくなり全てがどうでもよくなってしまった。

 やがて、何もできなくなり自死を考えるようにもなった。そのうち、自暴自棄となり不良行為をして、敢えて自分自身を傷付けようともした。そうすることで、辛いことから逃げるだけでなく、新たな自分に生まれ変われると錯覚にも陥った。

 でも、私には夫がいた。夫は死の瞬間まで、いや死後も私に寄り添ってくれていた。その事実が私を助けてくれた。自暴自棄になりそうな私を夢の中で何度も諭し、留めてくれていた。どんなに怒っても、泣いても、彼はただただ優しく包み込んでくれた。そして、フラフラながらも立ち上がろうとした時、背中を支え歩き出せるように、そっと押してくれた。だから、今の私がここにある。

 目の前の若者には、私のように寄り添ってくれる人は居ないのかもしれない。孤独に苦しみ、再び立ち上がる辛さは、想像を絶するものに違いない。

 号泣している若者から『青』が見て取れる。少しずつ他の色も戻りつつあるのね。今は好きなだけ泣けばいい。その涙は、きっと若者を固く捕えている縄を少しずつ溶かしてくれるだろう。

 しかし、私は間もなく彼と夫が待つ世界へ飛び立たなければならない。若者が深淵から再び立ち上がろうとする時までの時間は残されていない。でも、若者が『夢を完結させる』準備ができた時に、少しでも手助けとなるよう『明日への手紙』として何かを伝えたい。

「いつか、あなたも『夢を完結させる』のが出来るわ。その時まで、休みなさい。そして、覚えていてほしいの。『幸せ』はね、世界のどこかにあって見つけ出すものや、取り戻すものでもないの。あなたの心に生成される物なの。形のない輝きが、あなたの心にもあるはず。それを、そっと抱きしめて進むの」

 私の隣では、若者の号泣がいつまでも続いている。

「枯れるまで泣きなさい。真剣に努力して叶わなかった時の涙は、決して恥ずかしいものではないわ」

「本当に出来るの?」

 少しずつでいい。時々、後ずさってもいい。揺れながら、迷いながらでも再び歩き出してほしい。そう。黒く沈んでいる若者にも『黄』や『緑』などの他の色も必ず存在する。厳冬期が終わり啓蟄となれば必ずそれらの色は目覚めてくる。そして、様々な色の光り織り交ざり初めて『白』となる。

「できるわ。そして、新しい明日を描けるようになるわ」


 だって


 自信を持って言えるもの


 私の人生は


 幸せでした


 いつまでも俯いていた若者の視線が上がり、初めて私を捉えると『心臓が一度だけドンッと大きく鼓動する』。外では、一際大きな雷鳴を伴いながら稲妻が落ちたようだ。その雷光で小鳥のペンダントがキラリと輝き、『時の扉』へと反射する。その光が鍵となったかのように蝶番についた錆が太く低い音を軋ませながら、扉がゆっくりと閉まり始めている。いつの間にか若草色のヴェールはオーブの姿に戻り、私の胸にとまっていた。オーブを手のひらに乗せると、ふと思った。もしかしたら、老年期の幸せは…… 『全ての幸せを完結させる』ことなのかもしれない。

「私も、まだまだ成長が必要ね」

 私は、若者に聞こえない大きさでオーブに語りかける。オーブは私の手のひらから、ふんわりと飛び立ち、私の唇に触れる。まるでオーブが『正解。よくわかったね』と言ってくれているようだ。

 オーブは私の唇から離れると、別れを惜しむように回っている。私には、ドラマにあるような記憶転移は起きなかった。なぜなら、私たちは夫婦だった。記憶なんて転移させなくても、私には夫が考えていること、そして何を望むかは分かる。だから、夫は必要ないと考えたのだろう。その代わりに私に何かを伝えたい時には、『心臓が一度だけドンッと大きく鼓動』させて、落ち着いて、よく考えよと教えてくれていた。夫はいつも、そうやって私に寄り添ってくれていると信じている。夫は私が死ぬまで共に生き続けてくれる。例え手放した夢であっても、かけがえのない思い出として。

 やがて、オーブは、ゆっくりと閉じつつある扉の向こうに、ふわふわと飛んで行く。途中で振り返るように止まるかと期待したが、止まることもなく扉の向こうに行ってしまった。相変わらずねと思いつつ『私を見てくれていて、ありがとう』と囁く。そしてオーブの姿が見えなくなると、扉は完全に閉じられた。

 この扉が開けられることは、二度とないかもしれない。貴方の姿をもう一度見られなくて、残念だったわ。でも、オーブのままで大丈夫と思ってくれたのね。ありがとう、貴方。

 元診療所の外では雷雨は止み、一面を覆っていた雲の隙間から陽の光が漏れたしている。稜線にある雲間から光りが舞い降り、幾筋もの軌跡が照らし出されている。


 人には


 幾つもの


 美しい結晶がある


 それを思い出すの





『失敗だ』

『致し方ない』

  若者の中で我らはうごめき続けている。若者がどれだけ幸せになろうが光のある所に影は必ず存在する。そう、光りのない世界は存在し得るが、影のない世界など決してない。生命が存在する限り、我らの存在が無くなることなど決してない。


『闇はどこにでもある』


『目の前にもな』


『ああ』


『次は、お前だ』

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明日への手紙 長良 圭太 @nagarakta

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