第12話 心の地図
(影)
「彼女の誕生日前には、人工呼吸器を付けるタイミングが近づいていた。しかし、一度付けたら二度と外せない。それに、二度と会話が不可能になるので先延ばしにしていた」
谷川先生は何の感情も示さず淡々と、ひばりの最後を語っている。
「つまり、看取りの段階だったのですね」
「その通りだ。ドナーが現れれば躊躇わずに付けるが、その見込みがないため看取りの方向であった」
「そんな状況でも、彼女は心穏やかでした。普通なら、せん妄を起こしても仕方ない状況なのに。私たち看護師には、何もしてあげられることはなかった」
ひばりは、旅たちへの準備を完了させていた。だから、心理的なケアは必要なかったのだ。
「私の心残りと言えば一つ。お見舞いに行くべきかと悩んでいた。臨終の間際まで行かなかったのは、正解なのか分からない」
年が変わると同時に容体が急激に悪化したと、ひばりの両親から聞いていた。桜の季節にはほど遠いが、二月までは生きられないとも。しかし、私は顔を見せた途端、最後の願いが叶ったと思い、安心して旅立ってしまうのではないかと恐れていた。
「ひばりは、お見舞いに来ないのは私を信じているからだと言っていました。そして、『私たちは離れていても心の地図で繋がっている。だから、顔を合わせる必要はないの』と言っていました」
紅里は幾度となくお見舞い通っていたのであろう。
「これから先は、薬剤で意識レベルを落としていたので、彼女の様子で特に伝えるべき事はない。最後の様子はカルテを見れば分かると思う。そのためにカルテは破棄させず保存するように指示を出してあった」
谷川先生は、全てを語り切ったかのように話しを打ち切る。
「分かりました。ありがとうございました」
谷川先生たちにお礼を言うとカルテを持ち、席を立とうとする。
「待ちなさい。思い出した事がある。『先生の周りに私のペンダントを付けた親友が現れると思います。その人も一緒に訪れるよう伝えてほしい』と言っていた。明日は、吉川と二人で訪れなさい。彼女の指定する場所へ」
谷川先生の言葉に息をのむ。二人だけの思い出の道。遠く離れた時から私に贈ろうとしている大切な宝物に、紅里は関係がないのではないか? 紅里も困惑しているようだ。
「彼女との約束だ。約束を守るように」
そう話すと谷川先生と、井上看護師長は部屋から出て行ってしまう。紅里と二人きりにされた。
「手紙に書いてあった問題の答えは簡単だ。明日十時に高校の正門前に来てくれ」
紅里に伝えるが返事は返ってこない。聞こえなかったのだろうか?
「ひばりは怒っている。私は怖い」
しばらく間を置くと、紅里は震えながら口を開いた。
「心配ない。ひばりは怒っている相手を連れて行けと私に指示しない。明日十時だ」
私は、そう伝えるとカルテを持って部屋を出た。
(光)
誰かに呼ばれた気がして目を開けた。
「貴方。来てくれたのね」
話そうとするが思うように声は出ない。貴方の顔が見えた瞬間、心から安堵する。意識が保てている間に、最後に一度だけでも良いから話しがしたかった。神様、最後に私の願いを叶えてくれてありがとう。
「話さなくても良いよ。何を言いたいのか分かるから」
貴方は私の頭を優しく撫でてくれている。私の両親から病状が思わしくないのを聞いて、駆けつけてくれたのだろう。でも、ごめんね。息が苦しくて、すぐには気が付けなかった。私の体からは多くのチューブが伸びているし、思うように話すことも、抱きしめてあげることも難しいの。
「私たちは幸せだった。そして、約束は必ず守るから安心して。もし、逆の立場になったとしても同じ約束をしてほしい。ひばりは約束を守るだろ」
「約束 しま す」
私が、貴方の立場になっても約束は守るわ。だから、貴方は必ず約束を守ってくれると信じている。人生に『if』や、『リセットボタン』はないけれど、もしやり直せたとしても、これ以上の成果はないと思うわ。貴方が教えてくれた、貴方の父親の言葉『全力で突き進め。後悔する者は全力でやらなかった人間と、己で道を決めなかった人間だ。どんな結末でも、やり遂げた二人には後悔は生じない』は、その通りだと思う。私たちは全力で頑張った。だから、私たちなりの『幸せ』の答えを見出すことができたと思うし、後悔することはないわ。私が居なくなった後、貴方が再び立ち直れるよう寄り添えないのは申し訳ないけど、貴方は必ず、幸せになってくれるはず。
「ひばり。私たちの幸せは二人で作る結晶かもしれない。そして、綺麗に結晶化した」
そうね。二人で集めた材料が最後の反応を起こして急速に結晶化したと思うわ。私たちの幸せは見つける物でもなく、育む物でもなかった。水晶の結晶のように材料に反応条件が整った時に生成される。今がその時かもしれないわ。幸せの最終段階は、無欲と感謝なのかもしれない。必要以上に欲を持たず、今、ある物に『ありがとう』と感謝することかもしれないわ。 私は、目を一瞬閉じたのち、ゆっくり開けて深く頷く。
「短すぎる時間だけど、この上なく貴重で美しい時を過ごせた。これ以上、望むことはない」
貴方の言葉に、私の目からは自然と涙が零れていく。
「あいし て いま す」
辛うじて聞き取れる言葉になっているかな? 伝わると嬉しいな。
「ひばり。私も愛しているよ」
貴方は、期待通り答えてくれた。良かった。ちゃんと伝わっている。ごめんね。少し、朦朧としてきたので目を閉じるわ。
「嬉しい。初めて愛していると言ってくれた。でしょ」
貴方は、私の心を読んでいてくれる。いつもは私が貴方の想いを読むのに、いつの間にか貴方は行間だけでなく想いまで読めるようになってくれた。きっと、貴方は成人するまでに、もっと素敵な男性になっているはず。貴方の成長を見守り一緒に時を過ごせないのは残念。でも、もう何も思い残すことは何もないわ。零れ続ける涙は止まらないけど、悲しいわけではないの。悔しいわけでもないわ。この涙は、ただ感情が溢れているだけ。
貴方は涙を指ですくうと、頬にキスをしてくれた。最後にもう一度だけ、キスをしたい。酸素マスクを取りたけど、力が入らなくてマスクをつかめない。何回か繰り返すと、貴方はマスクを外しキスしてくれた。ゆっくりと優しく。これまでの日々を振り返りながら。私たちの宝物を二人で確認するかのように。このセカンドキスは、お別れのキスになってしまうかもしれない。
酸素モニターからポーン・ポーンと音がなっている。貴方は、再び酸素マスクをはめてくれた。ゆっくり、大きく息をすると徐々に、意識は明瞭となり貴方の顔が見えてくる。
「私たちは、二人の心の地図を見つけられたかな?」
「は い」
お互いの心の地図を重ね合わせる事で初めて見つけられる場所。そこは懐かしく、心のふるさとに帰ってきたかのような、柔らかい光が差し込む新緑の草原。小鳥たちがさえずる中で、私たちはいつまでも会話を楽しみ二人で過ごせる。決して誰も入ってくることのない大切な思い出の場所。心の地図を見つけてしまったから、契約は完了してしまう。でも…… きっと貴方は、ずっと一緒に居てくれると思う。
貴方は、石を見せてくれた。色は少し薄いけれども、透き通って優しい若草色。綺麗だわ。まるで貴方みたい。
「この石は、透輝石と言う。癒しを与えてくれるだけでなく、この石が道しるべになってくれる」
きっと旅立つ私が、寄り道したり、迷ったりしないよう持ってきてくれたのだろう。だから『ありがとう』と言いたいけれども、息苦しくて伝えられないの。でも、貴方は本当の透輝石をまだ知らない。まだまだ成長が必要だわ。
「ベッドの横の床頭台にかけてある袋に入れておくね」
貴方の言葉に、無言のまま頷く。床頭台に釣り下がった袋には、小鳥のペンダントと水晶の玉が、大切に入っているはず。私の宝物が、また一つ増えた。
「呼んだら隣に来てくれると思うと安心する」
貴方は、そう話すと私の手を握りしめてくれる。私も握り返す。安心して。どんな時でも、貴方に呼ばれれば寄り添うわ。
もう一度、『ありがとう』と口を動かすけど、やっぱり声が出ないわ。それでも、貴方は、理解してくれているはず。また、疲れてしまったみたい。意識が遠のいて、貴方が見えなくなってしまったわ。
今日、交わした言葉は多くはなかったわ。でも、行間に散りばめられた無数の想いを、二人で噛みしめていたと思う。伝えたいことは全て伝えたわ。私たちの乗った列車は終着駅が近づき、徐行運転となっている。あと僅かな減速を加えるだけで完全に停止してしまう。
きっと、これが夫とのお別れになるのだろう。
でも、思い残すことは何もないわ。
だから、私は、安心して目を閉じられるの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます