第11話 落果

(影)


「彼女の心臓は、クリスマスを過ぎたころから急激に悪化した。心臓移植しか手立てはないが、ドナーはいつ現れるかは不透明だった。当初、春まで持つかも彼女には伝えていたが徐々に暗雲が立ち込めてきていた。正直な話しクリスマスの外泊は、最後になってしまったのだなと思っていた」

谷川先生の表情が少し曇っている。

「彼女は、不思議と落ち着き、死を受け入れている感じがしました。『恐怖」や『絶望』をまるで知らないかのようで、私たち看護師の方がどう接していいのか迷っていました」

「ひばりは言っていた。『私は今、とても幸せ。蕾が次々と花咲くようにこの幸せが、一日でもいい。長く続いてほしい』と。なぜ、そんなに幸せなの? と聞いても彼女は、『彼は、私を幸せにしてくれた』としか教えてくれませんでした」

「理由は分かるが、誰にも話さない約束だから言えない。ただ、私は考え得る事の全てをやり切ったつもりだ。そして、最後の仕上げに鉱物を採取してひばりに届けようと思っていた。私の代わりとして。そして、お守りとして」


(光)


 一月はひばりの誕生日である。私は、誕生日プレゼントとして透輝石を採取しようとしていた。透輝石はダイオプサイトとも呼ばれる緑色の鉱石である。岐阜県内で採取できる場所があり、過去にも何度か出かけたことがある。しかし、全て空振りに終わっている。山道の途中には坑道が幾つかあり、その中では採取可能かもしれないが落盤等の危険があるため立ち入ることは絶対にしない。

 例年一月に降雪することもあるが積もる事は少ない。しかし、今年は先週から珍しく大雪となった。降り積もった雪は、三日前から始まった雨により完全に溶けてなくなった。透輝石の採取は半ば不可能と考えていたが、今日の天候は不安定ながらも、夕方まで雨は降らない予報だ。明日以降は、また雨マークが並んでいる。今日を逃すとチャンスは、当分来ないかもしれない。

 実際に採取に来てみると、予想外に温かく汗がじっとりと出てくる。山道はぬかるみ滑りやすいが、この程度であれば歩くのに支障はない。草木が視界を遮ることがなく効率よく鉱物を見つけられそうだ。登山道を歩いていると、何組かの登山客とすれ違った。私は、目当ての鉱物を探しながら登っていくために、歩く速度は非常に遅い。その反面、他の登山客が見逃すような石でも視界の片隅に入れば自然と体が止まる。

「見つからないな」

 ため息が漏れる。ふと空を見上げる、今にも降り出しそうな雲が、いつの間にか近づいてきている。遠からず雨になりそうだ。ここは早めに下山すべきか。

「あら、今日は一人なの?」

 下山を始めて二百メートルも歩かないうちに、すれ違う二人組の登山客が声をかけてくる。愛想のいい老夫婦である。見知らぬ顔であるが、人の顔を覚えない私にとってはいつもの事だ。

「今日は一人ですが。以前お会いしましたか?」

 下手に分かった振りをすると後で大変になる。

「忘れてしまったかな? 鵜飼の時、隣に座っていたのだが」

 お爺さんが答える。

「あの時の! またお会いできるとは、思ってもいませんでした。あの時、水晶を頂きありがとうございました」

 私は、ポケットから水晶を一つ取り出すと老夫婦に見せる。お爺さんは、右手でつまみながら取り出した水晶を空にかざしながら見ている。水晶からは透明感が、微妙に失われている気もするが、それは天候のせいだろう。

「もう一つは、彼女が持っているのかな?」

「はい。入院中もベッドの横に置いてあるはずです」

 最近はお見舞いに行ってないが、必ず側に置いてあるに違いない。

「そう。彼女さんの具合はどう?」

 お婆さんは、お爺さんにひばりのことを心配しているようだ。

「良くないみたいです。長くても桜の時期まで持つかどうか」

「君は、幸せについて考えたかな?」

 お爺さんの柔らかな表情が、真剣な表情に一変している。

「色々考えました。幸せとは作るものでもなく、探し出すものでもない。様々な経験や思考が材料になって水晶のように生成されるものではないかと考えています」

「それで。その先は?」

「生成された幸せを、そのまま受容すべきか、最終的に加工すべきかを悩んでいます」

「ふむ。あと少しかな」

 お爺さんは右手で顎を触りながら頷いている。

「しかし、最後がどうしても見えません」

「若い二人が、ここまで考えたのは素晴らしい事じゃありませんか。私たちがこの年齢の時は、考えもしませんでしたから。お爺さん」

「それで君は、今ここで何をしておる?  彼女に寄り添いもせずに」

 お爺さんの表情は、徐々に険しくなってきている。

「最後の誕生日プレゼントに、透輝石を探しに来ました」

「そうか……」

「やっぱり。素敵な二人じゃありませんか」

「確かにな。この二人がどのような旅を続けるのか見てみたい気はするが、病だけは何ともならん。お婆さんや、袋を出してくれるか」

 お婆さんがリュックから袋を取り出す。中からはガチャガチャと幾つもの鉱物がぶつかり合うような音がする。お爺さんは中から若草色の石を取り出すと摘まみ上げた。

「凄い!」

 大きめの透輝石の原石である。

「昔、お婆さんが採取した透輝石だ。彼らにあげようと思うのだがいいか?」

「良いですけど、もっと色の濃い物もありませんでしたか?」

「いや、この色が良いのだと思う」

 差し出された透輝石と受け取りつつ

「ありがとうございます」

 深々と頭を下げる。本当は自分で採取したかったのだが、今日と言う日に限っては手ぶらでは帰りたくない。

「若者は素直な方がいい。変に遠慮するくらいなら、スパッと受け取る方がこちらとしても気持ちいい」

「お爺さん…… 」

 お婆さんが、お爺さんの耳元で何か囁いている。

「私もお婆さんの意見と同じだ。私は朝から機嫌が悪い。この季節外れの雷鳴も、君に会ったことも、そしてこの水晶の色もだ」

 そう言われれば、上空から微かに遠雷が聞こえてくるような気がする。一月は日本海側では冬季雷が発生するが、この地域には発生しないはずである。

「実に不快な気分だ。彼女の具合が悪いのか? 彼女が亡くなった後、君の旅が荒れるのか? 理由は分からないが実に不快だ。君は透輝石という目的は達したのだから、直ぐに彼女の病院へ行きなさい。脇目も振らずにだ」

 そう話しつつ、水晶を返すお爺さんの強い口調には、何故か有無を言わさぬような厳格な雰囲気がある。確かに、空は既に雲で覆われ始めている。まだ急いで下山すれば、降り始める前に降りられるかもしれない。

「お爺さん達は、大丈夫ですか?」

 老夫婦も降り始める前に、降りられるか心配になる。

「私たちは、何十年も山に入っている。この程度の天気では焦ることはないよ」

「そうね。でも、夕飯の支度もありますし、ゆるゆる降り始めますか」

「君は、早く病院に行きなさい。私たちは、ゆっくり降りるから」

「分かりました。すぐに降ります。ありがとうございました」

 受け取った鉱物をポケットにしまうと急いで引き返し始めた。引き返す間にも、雨雲はますますその厚さを増し辺りが暗くなってくる。雨具の準備はしてあるがまだ早い。もしかすると、山を下りきるまでにはギリギリ間に合うかもしれない。歩速を速めながらも視線は透輝石を探してしまう。

 山全体からから鳴り響く、低く鈍い雷鳴のような音は徐々に大きくなってきているが、その距離はまだ十分にある。風も吹き始め、揺れる木々の隙間から漏れる微かな光もザワザワと揺れ動いている。


 通常より速足で下山する。この速度なら一時間半位で麓に辿り着ける。額から零れ落ちる汗を拭きとるために顔を上に向けた時、微かな光を見た気がした。間違いなく、斜面の枯れた草木の間から微かに緑色の光が漏れている。透輝石にやっと出会えたのかもしれない。嬉しさのあまりにガッツポーズをとる。私が採取した透輝石をひばりに贈れるのだ。そう思うと精神は高揚し、居ても立っても居られない。

 早速、ハンマーとタガネを取り出し光の元へと近づく。空を見上げると雨雲が山々を飲み込み始め、辺りは薄暗くなってきている。風の勢いも増すばかりだ。いつまでも脱力していては雨雲に追いつかれてしまう。早々に麓まで下山した方がいい。そう思い登山道に視線を戻し歩き始めようとした時、頭上で山々が震えた。

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