第10話 誓い

(影)


「ひばりは、長谷川事件から先生に我慢をしなくなった」

 紅里の言葉に私は、

「我慢しなくなった? 纏わりつくようになったこと?」

「そう、ひばりはずっと我慢していた。本当のあの子は甘えん坊。ずっと二人でいたかったし、もっと話しをして触れ合いたかった。でも、先生にそれをしてしまうと、重くなりすぎると考えて我慢していた。そして、あの事件で我慢の限界を超えてしまった。反動で過剰なほど纏わりついたけど、先生はそれを受け入れた」

「あの時は、本当に大変だったけどね」

「そのおかげで、心の器に幸せが見る見る間に満たされていった。死ぬまで満たされないと半ば諦めていた器が満たされたとき、ひばりは全てを受け入れた。その顔は、本当に幸せそうだった」

「満たされたのは、ひばりだけでない。私も同じだ。あんなに温かい気持ちになったのは初めてだったような気がする」

 思い返すと、私はそれまで孤独というものを知らなかった。しかし、ひばりと関わってからは、人との関わり合いを知り充実した高校生活になったと思う。その反面、否応無しに孤独ということも知ってしまった。そして、その孤独に耐えられるようになったのは、何時からか? その記憶は定かではない。

 合間を見て谷川先生は、再び説明を始める。

「十一月に入ると彼女の病状は、確実に進行してきた。通常ならば入院加療を行っていたが、彼女と両親の強い希望により外来治療を行っていた。その代わりに、先生と会う時間以外は心臓の負担を極力減らす努力を彼女はしていた」

「そうそう、ひばりさんが嬉しそうに話していました。定期試験で学年二位になったと。先生に勝ったと看護師に自慢していました」

 看護師長がひばりの様子を教えてくれる。

「そう。その時、私は四位だった。初めてひばりに負けたと思う」

「ひばりさんは、願掛けをしていました。もし、勝てたら先生の一生は幸せになると」

「知らなかった。だから、あんなに必死に勉強会をしていたのか」

「そう。ひばりは言っていたわ。『私の幸せは、二人が幸せになること。私は、もう少しで幸せになれる。本当の幸せに』とね」


(光)


 十二月、ひばりの病状が悪化し入院となったがお見舞いには行っていない。夏休みの入院以来、それが暗黙の了解となっているからだ。ただ違うのは、病状の悪化に伴いメールも手紙も減り、ひばりの病状を知りにくくなっている。

 それでも、調子の良い時は外泊を許可されている。教室に私服姿のひばりがひょっこりと現れると、クラス中から歓声と共に迎え入れられている。私が彼女の立場だったら、『あの子、誰?』とクラスメイトは反応するに違いない。そして何度シミュレーションを行っても、クラスから歓迎される『私』は想定できないのは悲しくもある。学校でひばりの顔を見ると妙に嬉しくなるが、教室の中では他の学生に囲まれていて話せる時間はない。外泊した日の放課後に、彼女の家で過ごす他愛もないお喋り。これは私たちに与えられた唯一の貴重な時間だ。


「ひばり。心臓外科医になるよ。決めた」

 ガラガラッと病室のドアを開けるなり宣言する。

「駄目です」

「私の人生が終わった後も、私たちの軌跡を追い続けてはいけません。貴方は、新たな幸せを見つけるのが約束のはずです。貴方は地質学を専攻するのでしょ?」

「ずっと考えていた。地質学を専攻してしまったら、私はその世界にどっぷりと浸かってしまう。そして、他の人と関わりを持たず、結婚も家庭を持つことも忘れてしまう。そして、ひばりとの約束は、守れなくなってしまう」

 今日の私は引くつもりはない。ひばりが反対するのは、既に織り込み済みだ。そのために、昨晩から繰り返しひばり対策を練り、繰り返しシミュレーションを行ってきた。想定問答集が完成している私が、負けるはずがない。シミュレーション通り、私の完璧な解答に反論できず、ひばりは少々考え込んでいる。

「フラッシュバックするよ。そして、それを繰り返すと、どんどん過去に囚われてしまいます。私は、それが怖い」

「でもね。絶望や孤独を隠し通すために人と関わりを持たず、鉱物の世界に浸かってしまうのが、ひばりの望む姿?」

「それは違う。でも、心臓外科医になるのは私に縛られている気がする」

「逆の立場だったらどう考える? ひばりはどうする」

「他の職業に就きます。わざわざ、傷口に塩を塗り込む必要はありません」

「でも、決めたことだ」

 ここで言い切れば、ひばりは承知するしかないだろう。ひばりの顔は、少々困り気味になっている。急襲作戦は成功だ。

「一旦この件については棚上げにします。それよりも、女性の病室に入って第一声が心臓外科医になる! ってどうなの? あまりに突拍子もない事だったので、ついつい相手をしてしまったけど…… それよりも、お見舞いに来るのであれば、先に連絡してください。私にだって準備があるんだから」

 急に布団で顔を隠し抗議する。そうか、その手があったか。このまま、時間稼ぎをされると、対策を練られるばかりか棚上げされてしまい、急襲は失敗となってしまう。何としてもこの勢いで攻め切らねば作戦が崩壊する。想定外の反撃に困惑しつつも、ひばりは布団をかぶってしまい、中の様子をうかがい知ることはできない。よく見ると、布団からはみ出ていたひばりの髪は確かにボサボサである。髪を整える時間は必要であったか! と思うが、今回の作戦の重大さに比べれば、そんな些細な事はどうでもいい。

「大丈夫。ボサボサでも気にしないから」

「最低」

 私なりに精一杯にフォローしたつもりであったが、墓穴を掘ってしまったようだ。この失言で機嫌を損ねてしまったかもしれない。日常生活なら、慌ててコンビニへケーキでも買いに走れば機嫌が直るかもしれないが如何せんここは病院だ。ケーキの持ち込みなんて不可能であろう。世の中の男性は、このような危機をどのように対処しているのだろうか?

「兎に角、三十分後に来てください。準備するから」

 ひばりから与えられた休戦協定に感謝する。この三十分間で、ひばりは多少なりとも沈静化するであろう。しかるべき第二ラウンドへ作戦の立て直しを図らなければならない。

「わかった」

 と答えると、すごすごと病室から一時撤退を行った。


 三十分後、ひばりの病室に顔を出す。

「三十分経ったよ」

 私は声をかけながら病室に入ると、ひばりはベッドに座っていた。髪は揃えられ、微かにピンクの口紅が塗られている。

「もう少しまともな挨拶はないの?」

「えっ?」

 今度は、機嫌を損ねないように挨拶をしながら、指定された時間を一秒たりとも間違えることなく部屋に入ったはずなのに怒られてしまった。予想外の先制パンチをくらい思わず狼狽えてしまう。

「例えば、『心配になって来ちゃったよ』とか、『どうしても顔が見たくて』と言われると女の子は喜ぶんだよ」

「しまった。それは考えていなかった。どのように説得するか、仮説と検証を繰り返していた」

「でしょうね……」

 もしかすると、度重なる失言を更に重ねてしまったのか? ひばりの表情は、怒りを通り越してしまったのか諦めになってしまっている。昨日からのシミュレーションは完全に無駄になってしまったようだ。今日の勝敗ラインは、説得から機嫌を直すに変えなければならない。

「さっきの話だけど。それで良いよ。でも、約束は守ってね」

「へっ? 良いの?」

「駄目と言っても、考えを変える気はないのでしょう。それにね、私が死んだ後、勉強に打ち込んでくれた方が良いと思います。それよりも、ありがとう。私が死んだ後の事も考え始めてくれた。これで安心して死ねます」

 ひばりは、ホッとした表情になっている。どうやら、見かけ上では勝利したが、実質的には完全に敗北してしまった気分だ。またもや、手のひらの上でコロコロと転がされている。

 そう言えば両親も父親が決めているように見えるが、本質は母の決定が最終判断だ。最も父の思い付きが突拍子もなさ過ぎて、母が諦めてしまうことも多いが……

「いや、まだ死んでもらうと困るけど」

「まだ、死にませんけどね。最後の最後まで貴方と一緒に幸せになりますから」

「安心したよ。明日にも死にそうな感じで話すから」

「大丈夫。まだ、時間は残っています。そうそう、クリスマス一時外泊します。当然、時間は空けてあるでしょうね?」

「他の人との予定が入るはずがない」

 この点に関しては、一点の曇りもない。

「一度くらい、浮気を疑って、不安な夜を過ごす少女になってみたい……」

「なかなか、私に近寄ってくる変人はいないからな」

 私は胸を張り自慢げに話す。学業と鉱物そして、ひばりとの約束に全ての時間を費やしている私に、他の人との予定が入るはずがない。

「私は、変人ではありません。人を見る目を持っているの。本当の価値を見る目を」

 自慢げに両手を腰に当てている。

「じゃあ、ひばりのように鑑定眼を持つ女性が、我が校には居ないんだな」

「そうでもないかもよ。ある日、告白されて浮つくことがあるかもしれない」

 何故か悲しげな顔となり、窓の外に視線を向けている。

「安心してくれ。その願いだけは、叶えられる事はない。何十年たっても。何故なら私は他人に興味がない」

 自信を持って言い切るが、ひばりは絶望したような顔になっている。

「貴方。本当に約束守れる? 誰かと結婚できる? する気ある?」

「日本には、お見合いという世界に誇るべき制度がある。安心してくれ」

 私の完璧な未来予想図に、ひばりは開いた口が塞がらない様子だ。

「貴方…… 最初からそのつもりで?」

「私を好きになる変人が、そう簡単に現れるとは想定しづらい。従って恋愛結婚をするのは至難の業だ。極めて難易度の高い課題に対し、正攻法だけでなく保険も準備しておくのが賢明であると思う」

「先ほどの言葉を訂正します。安心して死ねません」

「ひばりとの約束を守るための保険としては、素晴らしいオプションだと思ったのだけど」

「この件に関しては、貴方を信用できません。私が死んだら三年以内に、いい人を見つけてくるから、その人と絶対に結婚しなさい」

 何を言っているのであろうか? 想像もしない提案に呆然となる。

「三年は短くない? その頃は、まだ大学生だよ」

「問題はそこなの? それに、三年以上時間を空けたら、また他人に興味のない貴方に戻ってしまうでしょ」

「分かったよ。でも、不思議な気分だ。ひばりに他の女を探してもらうのは」

 現在の彼女に次の彼女を探してもらうなんて、どこの世界にあるのだろう? しかし、そのようなシステムが機能すれば、日本の婚姻率は格段に上昇するのかもしれない。

「この件に関しては、貴方を信用できません。信用してほしいのであれば、私が死ぬまでに女性の一人や二人連れてきてください」

「そんな事をしたら、ひばりは発狂するだろう」

「当たり前です。この私を捕まえといて、浮気なんかしたら許しませんから」

「結局、どうやっても、ひばりに怒られるのじゃないのか?」

「その通りよ」

 私たちは思わず吹き出してしまう。

「じゃあ、生きろ。一日でも長く幸せになれ」

「分かりました。一日でも長く感じます。この幸せを」

 目を伏せて恥ずかしそうにしている。

「笑いながら未来のこと話せるのっていいね」

「そうか?」

 今一つ、しっくりとは来ない。

「貴方もいずれ分かる時が来るわ」

 ひばりは、私より遥か先にいるのかもしれない。いや悟りを開きつつあるのであろうか? いずれにしても、クリスマスまで残り二週間。私は、密かに温めてきた決意を実行に移すと心の内で決めた。準備期間としては短いが、後悔はしたくない。


 クリスマスイヴの日、午前八時にひばりの家へ向かう。ひばりは前日から一時外泊をしている。最近では、ひばりの家に行くのにインターホンは鳴らさず、玄関を開けて挨拶するだけである。

「おはようございます」

 私が挨拶をすると、ひばりの母親がキッチンから

「いらっしゃい。部屋にいると思うわ」

 大きな声で返事が返ってくる。ひばりの父親の気配はしない。

「お邪魔します」

 最早、勝手知ったもので小学生が友達の家に遊びに行く時のように、階段を大きめの足音を立てながら駆け上がる。ひばりの部屋のドアをコンコンとノックすると、

「早く入って!」

 ひばりは慌てたように扉を開けると、私の腕を掴み強引に部屋に引き入れる。ひばりの慌てようは普通でない。無意識に二人とも声を潜めてしまう。

「どうしたの。慌てて」

「お父さんの機嫌がものすごく悪いの。昨日から何か変だし」

「変ってどういうこと?」

「昨日の夕飯後、突然アルバムを出してきてみんなで見ようと言ったり、昔の思い出話を始めたり。それが終わると、塞ぎ込んだ顔になってお母さんに何かと八つ当たりしているの」

「何か病院であった?」

「病状は大きく変わっていないから、外泊を楽しんできてと言われただけ」

 父親が不機嫌となっている原因を探りかねているようだ。

「だから、今日は帰った方がいいと思う。どうしてもと言うなら、私があなたの家に行くわ」

途轍もなく恐ろしい恐怖が迫っているかのように怯えている。

「それほど心配しなくても、問題ないと思うよ。ひばりを心配しているだけだと思うよ。それに、帰れと言われたら素直に帰るから」

「大丈夫かな? でも、あまり会う機会も最近はないから、少し様子を見ようか。せっかくのクリスマスだし。私もたくさん話をしたいし」

 ひばりは不安を残しながらも、私と学校の事や病院での話しなど、たあいもない話が始まる。いつも通りひばりが話し、私は聞き役に回る。何気なく側にいて二人で笑う。ただ、それだけの時なのに不思議と特別になる。

 最近のひばりの様子を見ていると、二人が手を取り合って歩くこの道は、どこまで続けられるのか。あと数週間か、数か月かと不安に襲われる。確実に病魔は、ひばりの生命を内部から削り取り腐食させている。やがて腐食が進み自重に耐えきれなくなってしまった時、ひばりの命の灯は、倒壊し消えてしまうのであろうか。目の前で楽しそうに話し笑う姿からは、想像しがたい現実である。

「貴方を今日は、驚かせようと思って」

 ひばりがいつも通り、悪戯っ子になる。私はまたかと思いつつひばりに尋ねる。

「今日は、なんだい?」

「何と、ギリギリ桜が見られるそうです」

 ひばりの言葉からは悲壮感は漂ってはこないが、私の心が凍り付く。

「それって……」

「桜とともに私は、飛び立つそうです。こうして会える日は、残り少なくなりました。だから、今日は幸せの総括をしたいと思います。そして、残り少ない日々は私たちの答えが正解だったか検証したいと思います」

 先生が授業を締めくくるように、迷いなく人生の総括を始めようとしている。悲しくても、やはり現実に逆らうことは不可能かもしれないが、幕を下ろすにはまだ早い。いや、幕引きはまだだ。まだ、しなければいけない事がある。私は、カバンの中からゴソゴソと紙とペンを出す。

「取り敢えず、ここにサインして」

「これって? 貴方…… どういう意味?」

 事態が理解できず混乱しているようだ。私は、カーテンを引き照明を消すと、部屋は若干暗くなる。

「既に、私は署名した」

 紫外線ライトで紙を照らすと、青白い文字が浮かび上がる。

「ひばりが署名すれば、これは完成する」

 ひばりの表情は急に硬くなり、唇を噛みしめ用紙を凝視している。拳を握りしめて細かく震え、葛藤に揺さぶられているようだ。

 当然である。今回に限って言えば、正解はない。署名をするかしないか、どちらの解答を選んでも正しい選択であるとともに、誤りでもあるのだ。ひばりの両手を握りしめ目を見つめ静かに想いを伝える。

「私と結婚してください」

「卑怯。貴方は卑怯者。私が断れないことを知っていてこんな事をする。お父さんの機嫌が悪い理由も最初から知っていた」

 俯いた様子からは、ひばりの表情をうかがい知ることはできない。私は父親の機嫌が悪い理由を最初から知っていた。婚姻届けには二人の父親の署名もある。

「ああ、最初から知っていた。二人で些細な事でも相談する約束を破ったことは謝る。しかし、幾度となく考えた私なりの決断だ」

「でも、署名したら貴方は、一生私に縛られる。約束を反故にする」

「ひばりの父親にだいぶ怒られた。でも、私の真の気持ちであることや、ケジメを付けないと何時までも立ち直れなくなると説得したよ。半月ほどかかったけど約束をした。ひばりが亡くなっても、私は新たな幸せを見つけること。この婚姻届けは、ひばりと一緒に火葬すること。決して役所に持って行かないこと。そして、誰にも一生話さないことだ」

 真剣な眼差しでひばりを見つめる。

「もう一度だけ言います。私と結婚してください」

「はい」

 返事と同時にいきなり私に抱きついてきた。あまりの勢いに、私は倒れ込んでしまい、ひばりの体重が私にのしかかる。

「私が、何回も口に出しかけて言えなかったこと。そして、私が諦めていたことを言ってくれた。叶えてくれた。ありがとう。嬉しい」

 泣きじゃくりながら話しているので殆ど聞き取れない。私もひばりの背中に手を回し力強く抱きしめる。

「不器用な私は、こんなやり方しかできないが本当の気持ちだ」

 抱きついているひばりに、そっとペンを渡すとひばりは起き上がり、婚姻届けに署名をした。紫外線を当てないと見えない特殊なインクのペンだ。

「下に行こうか。お父さんに報告しなきゃ」

 ひばりは、照れくさそうに話す。

「そうだね。行こう」

「貴方の両親にもね。多分、貴方の両親も来ているのでしょう。悪い旦那様」

「なぜ、分かった?」

 素直に驚く。全ては秘密裏に進んでいたはずだ。

「貴方の考えることは、手に取るように分かります。思っていることも、考えていることも。行動パターンもね。この後、みんなで食事にでも行くのでしょう」

「ひばりには、隠し事はできないらしい」

 今日こそは、私がひばりをドキドキさせようと思っていたのに、先読みされて少々期待外れである。私が、ひばりを手のひらで転がせる日は永久に来ないのかもしれない。


 私たちは、ひばりの部屋からリビングに移ると、二人の両親が立って待っている。

「それにしても、頑固者だ」

 ひばりの父親は、呆れ果てているようだ。

 この二週間に及ぶ両親の説得は大変であった。私はそれぞれの両親と、時には二人の両親を交えて、何時間もいや何日もの時をかけて、私たちの幸せ、そして今後の私の人生を立て直すのに必要であることを話し合った。

 私の両親は、比較的早くに了解してくれた。父親の『全力で突き進め。後悔する者は、全力でやらなかった人間と、己で道を決めなかった人間だ。どんな結末でも、やり遂げた二人には後悔は生じない。』と過去に言われた事を例に取り上げ説得した。

 しかし、ひばりの父親は、頑なに『婚姻はおままごとではない』と言って聞かなかった。しかし、私は諦めず、繰り返し私の考えを説明し説得した。お互いの意見をぶつけ合い、短い期間ながらも、可能な限り時間をかけて着地点を見出したのである。

「そうね。彼は頑固者です。入院している間、幾度となく修羅場があったのね」

 ため息をつきながら、ひばりは話している。

「あれは修羅場ではなかった。単なる頑固者同士の意地の張り合いだ。双方の言い分は、正しく。そして誤っていた」

 私の父親は、あっけらかんと他人事のように話している。

「せっかくの、めでたい日なのですから、そんな話しはやめましょう。それにもう時間ですよ。ひばりさんのご両親は準備できましたか?」

 私の母は、険悪な雰囲気にならないように予防線を張り始めている。時刻は、十時になろうとしている。予定の昼食まで時間は十分あるが、ひばりの体調を考えると余裕を持って行動すべきである。

 私たちは私の父が運転する車に乗り込むと出発するが疑問を感じた。この道では予定する店への道ではない。

「道が違わない?」

「目的地は変更したよ」

「そう」

 私の父親からそう聞くと黙り込む。また思いつきで店を変えたのであろう。我が家ではよくあることだ。もしかすると、今日という日のために、母親が気を利かせてくれたのかもしれない。後部座席ではひばりの両親が私の母と友達同士のように会話が花開いている。


 二十分近くドライブすると、チャペルのある結婚式場に到着し車から降りる。

「どうせなら、思いっきり祝わないとな」

 私の父親は、悪ノリをする傾向にあるのを思い出し、一抹の不安に駆られる。

「素敵。ウェディングドレスを着てこんなチャペルで式をあげるのが夢だったの。試着とかできたら嬉しいな。試着してみたいな? 無理なら見るだけでも良いから」

 女性であれば純白のウェディングドレスに夢を抱くのは当然か。私もひばりのウェディングドレス姿を見たい気もする。

「新郎の父親としても、ウェディングドレス姿が見たいな。そう思わないか、お母さん」

「それは良い案ね。お願いしたいわ」

「いいの?」

「めでたい日だ。試着しなさい」

「ありがとう。嬉しい」

 ひばりは、父親に後ろの座席から抱き着いている。相変わらず、ひばりは生きるのが上手いなと感心してしまう。どんな貴重な鉱物を父親からプレゼントされても、私ならこんな器用に嬉しさを表現することは不可能であろう。


 式場に入ると、係員が待ち構えていた。

「お待ちしておりました」

 何名もの係員の出迎えに私は疑問を感じる。出迎えた係員は有無を言わさず、私の手を引き部屋へと誘導する。ひばりとは別の部屋だ。二人の両親も別の部屋に向かったらしい。

「お食事の前に、お着替えをしていただきます」

 着せ替え人形に着せるように、淡々と係員は作業を行う。十五分程度で終わると、

「こちらの部屋で、お待ちください」

 と椅子に座らされ、係員は部屋から出て行ってしまった。部屋に一人となり、あらためて自分を見ると、グレーのスーツのような服を着させられている。流石に私の父親も悪ノリが過ぎる。しばらくすると二人の両親も着替えを済ませて部屋に入ってきた。

「ひばりさんも、大急ぎで着替えてもらっているけど時間がもう少しかかるって」

 私の母が皆に伝える。つまり、ひばりも着せ替え人形になっているのか。

「食事するだけなのに、やり過ぎじゃない?」

 私の素朴な疑問に、全員が凍り付いたように固まった。素朴な疑問と言うより、悪乗りした母親に水を差すような発言は、禁断の一言だったのであろうか?

「お前…… この状況を見て気が付かない?」

 私の父親は、まさか? という顔をしている。

「何を? 食事をするだけなのに、悪ノリし過ぎていると思っている」

 私の当たり前すぎる答えに、私の両親は、何故か頭を抱えている。

「私たちの育て方は、間違っていたのだろうか。この状況で…… 何故、気が付かない?」

「育て方の問題ではなく、父親に似たのでしょう。空気の読めないところは」

 私の母は。非情にも一刀両断に二人纏めて切り捨てる。

「貴方たちはこれから、牧師様の前で結婚の宣誓を行うのですよ」

 ひばりの母親の恐ろしい宣言により、クモ膜下出血のような重い衝撃が打ち込まれた。宣誓って何をするんだ? 牧師さんと神父さんの違いすら知らないのだ。宣誓をする前に、グーグル先生に今すぐ聞かなければならない。

「ちょっと待って。宣誓なんて…… 何をするのか分からない。手順書を準備していない!」

「そこなの? 驚くところは?」

 ひばりの母親は、別の意味で驚いているが、今はその点は重要ではない。

「そういう子なのです」

 私の母は全く動じていない。いつものありふれた光景に見えるのか? 予測済みであったのかは謎である。着替えが終わり、小一時間経過した頃に係員が入ってくる。

「準備が整いましたので、チャペルへどうぞ」

 一通りの事柄はグーグルで検索し終えたが、模擬演習は終わってない。しかし、時間は待ってくれなかった。


 そこからは記憶がない。緊張の極限に達し、思考能力は失われ、操り人形のように、係員や牧師様に操られ宣誓や指輪の交換をしたようだ。我に返ったのはヴェールを上げた瞬間。

「緊張しないで。大丈夫」

 ひばり? の声がする。いつもの温かい声が響き、私の心に染みわたる。しかし、ヴェールを上げて始めて見るこの顔は、見知らぬ顔だ。

 もしかすると、キツネかタヌキが変化するのに失敗したのであろうか? それとも、これはドッキリ番組なのであろうか? ひばりの声は真似できているが、肝心の容姿は完全に別人となっている。私が、いくら顔を覚えないとはいえ、もう少し上手に化けられないのか? 

「化け物?」

「失礼ね。ひばりです」

 ひばりの顔は、化粧により見慣れた純心爛漫な顔ではない。あどけなさが残るがその顔は清楚さと透き通る美しさが加わり、少女から女性へと変化している。

「綺麗だ」

「ありがとう。嬉しいわ。でも、ファーストキスが、両親の前なんて恥ずかしいから早くして」

「そうは言われても、私も初めてだから」

 ひばりに促されて、誓いのキスをするためにヴェールを上げる。初めてのキスの相手が、見慣れない容姿のひばりであり、しかも両親の前だと緊張して簡単にできるはずもない。

 どうしたらいいか? 考える時間が欲しいが、既にひばりは目を閉じて待っている。状況的にも逃げ出すのは不可能である。

 勇気をもって顔を近づける。ロボットのように一つ一つの動作がぎこちない。しかし、これが精一杯だ。今は、愛を奏でるためにキスをするのではない。儀式を行っているのだ。そうだ。これは儀式であり、疚しいことではない。そう考えれば、勇気は自然と湧いてくる。

 私は、持てる限りの勇気を振り絞り、キスをする。柔らかいひばりの唇が伝わってきたのは一瞬であったが、私たちには長い時間。永遠に感じられる。ひばりが目を開けると、涙が溢れんばかりに溜まっている。

「ありがとう」

 と、ひばりから無言のメッセージが伝わってくる。私も、アイコンタクトで返事をする。

「絶対に忘れないよ」

 私には、後方にいる両親の拍手が神の祝福に聞こえた。


 たった十五分程度の儀式なのに二人の結晶は、急速に反応条件を迎え、結晶が一回り大きくなったように感じる。ひばりも同様に感じているであろう。

「ありがとうございます」

 ひばりが、二人の両親にお礼を言っている。私も、慌ててお礼を言う。最後に牧師様が、結婚の報告をしてチャペルから退場となった。


「疲れた」

 チャペルから退場すると緊張から解放され全身から力が抜ける。大きめの個室に入ると椅子に座り込む。もう立つ気力なんて残っていない。横に座っているひばりを見ると、唇の感触が残像のように思い出される。こんな時でも、目の前に出された料理を目にすると食欲が復活するのは不思議だ。

「部屋に入るなり何の説明もなく、三人がかりでメイク、ヘアセット、着替えを同時にやるんだもん。ビックリしちゃった」

「私も、同じだった。突然、係員が無言のまま、服を脱がせ始めた時は本気で焦ったよ」

 密室で五十代くらいの女性が何の説明もなく、私の服を脱がせる状況は恐怖でしかない。

「着せ替え人形の気持ちが分かった気がするわ。挙句の果てに、最後には、『もっと時間をかければ、もっと綺麗にできるのに』と言って出て行くのよ。驚いちゃった」

「それで十分だ。それにしても、上手く化けた」

「本当にこの姿で化けて出ますよ」

「その姿より、いつもの姿の方が好きだ」

「誰が化けて出たのかなんて、見分けがつかないだけでしょう」

「そうとも言う。ひばりが出たのなら安心できるが、他人だとお祓いに行かなくてはいけないしね」

「私なら良いの?」

「ひばりなら説教をするだけだ。成仏しろ。約束を守れと」

「そんな約束しました?」

「今、言った」

「それは私の専売特許です。貴方が使うことは許しません」

 私は絶句する。何度も困り果てたこの言葉は、私には使う権利はないらしい。

「こんな会話でも私にはかけがいのない宝物。貴方は私の安らげる場所。そうだ、覚えておいてください。『明日への手紙』は私たちの合言葉。貴方がこの言葉に出会った時、この鍵の対となる物が現れる。そして扉の向こうに放たれる」

 そう話しながらひばりは、両親に見つからないようにテーブルクロスの下からこっそりと私にカギを握らせた。ひばりは自分の死後、伝えたい何かがあるのであろうか。しかし、今は生きている。今は、この時を大切にしたい。

「ああ、分かったよ。でも今は、この温かい気持ちを大切にしていたいな」

 私たちは、夫婦のように。いや、本物の夫婦としていつまでも食事と会話を楽しむ。今日という日は、かけがえのない宝物である。その一つ一つが、私たち車窓となり記憶を紡ぎ、旅が進んでいく。今、私たちは本当に手を繋いだのかもしれない。

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