第9話 受容

(影)


「彼女がショックバイタルで救急搬送されてきた時は、本当に驚いたよ。いつ何が起きてもおかしくはないと考えていたけど。しかし、本当に大変だったのは意識を回復してからだった」

 谷川先生が、ひばりが救急搬送時の話を始めた。

「意識が回復した時、我々にはせん妄になってしまったと思った。ひたすら『どうしよう、どうしよう。捨てられる。全てが終わる。殺される。世界が終わる』と繰り返すばかりだった」

 井上看護師長も話し始める。

「彼女が、せん妄になったのは意識を回復して携帯電話を見た後だったそうよ。携帯電話を見た後は、私たちが何を聞いても『あなたには関係ない。私が解決しないと』を繰り返すばかり。両親が携帯電話を確認しようとしてもロックがかかって外せなかった。携帯電話を取り上げようとすると興奮してしまった。私たちは、これ以上は危険と判断し谷川先生に眠らせるよう提案しました」

「私もこれ以上、興奮すると心臓への負担が危険になるなと思って、薬剤師さんと相談して薬剤を投与した。薬剤の効果はすぐに表れせん妄状態からは回復した。しかし、彼女は誰とも話さず一人悩んでいた。決して携帯電話は手放さなかった。そして、退院が伸びれば伸びるほど大切な物を失うから早く退院したいと希望した」

「私には彼女が話している意味は分かりました。彼女に残された時間は、とても貴重なのだと考え退院を提案しました」

「違う。失いそうだったのは、私たち二人の繋がりだ」

 思わず私は叫んでしまう。

「私たちには、それを知る由もなかった」

 しかし、谷川先生は首を振りながら答えると、井上看護師長が続けた。

「退院する日、彼女の顔は強張っていた。まるで、これから戦場に赴くかのように。彼女には近づきがたいオーラが漂っていたように感じました。そして、彼女は私に言いました。『私は必ず取り戻す』と言っていたわ」


(光)


「雨降って地固まる…… とは言うけどさ…… 限度っていう言葉を知らない?」

 大霜は呆れかえっているようだ。

「同志よ。同じ気持ちだ。何とかしてくれ。紅里でもいい」

 呆れかえっているのは大霜だけではない。私は二人に助けを求めるが、二人は肩を竦めるばかりである。

「小さなことでも、話し合うのでしょ」

 ひばりは、悪びれる様子は微塵も感じられない。よくもここまで、一日中、そして次から次へとひっきりなしに喋れるとは……

「自業自得ね。我慢しなさい。今までずっと我慢していたのだから」

 そう言っている紅里もため息をついている。隙あらば纏わりつく姿はカルガモの雛が親鳥の後をひたすら追うかのようだ。傍目から見れば、可愛らしい行動かもしれないが、やっていることはストーカーと同じだ。

 先日も私と旅行に行きたいと両親にお願いしたようだが、流石に両親共々に反対されて諦めたようだ。その代わりにテスト勉強と称してひばりの家で勉強会を行うことを承諾させた。悪いことに十一月後半の中間テストまで二週間もある。流石にこう毎日纏わりついている姿にはひばりの両親さえも少々呆れ顔だ。

「次のテストでは、絶対に貴方に勝つからね」

 『もういい…… もう何十回と聞かされている』と言いたいが、耐えなければならないのが男の辛さか……

「既に根負けしたよ」

「駄目です。本気でやって。根負けした貴方に、勝っても意味がありません」

 あくまでも勝つつもりでいる。いや、悪魔になってでもと言った方が正しいかもしれない…… このままでは、精神的に追い込まれ勝敗は決してしまう。他人の足を引っ張るのはよくある手法だが、こうも前向きな姿勢だと断ることもできない。ここは一度、気分転換を図り、仕切り直さないと勉強に身が入らない。

「今度の週末、出かけようか。聞いた話しだと、揖斐の方に恋の橋があるらしい。秋になって、気温も落ち着いてきたからどうかな?」

「聞いたことある。恋の橋? 行ってみたいわ」

 久しぶりに見たひばりの悪戯っ子の笑顔を垣間見て、少しホッとする。悪戯っ子のひばりには、散々苦労をさせられてきたが、やはり可愛い。

「じゃあ、行ってみよう」

 私たちは、週末に出かける約束をして勉強を再開するが、いつまでも悪戯っ子の笑顔が気になり集中できなかった。


 十一月ともなれば気温は下がり長袖が必要になってくるが、風さえなければ日中は暖かい。今日は、ひばりと出かける予定だが、丁度いい気温になっている。いつも通りプランニングは任せてあるが、目的地は決まっているので安心して出発できる。思ったよりも集合は早く、岐阜駅に七時三十分には到着していた。

「機嫌悪いの?」

「少しね」

 前日から準備していたハンマーやタガネなどの装備を、ひばりからの指示で泣く泣く家に置いてくる羽目になった私の機嫌が良いはずがない。

「貴方は、私との時間を過ごすの。鉱物と過ごすのが今日の目的ではありません」

 正論を言われると、ぐうの音も出ない。確かに、本来の目的はひばりの心を満たすことだったなと思い返すと少しは諦めがつく。カップルにしろ夫婦にであっても男性は反論しないことが円満の秘訣なのだと染みついてきている。

「いつもの儀式から始めますよ」

 ひばりに言われ、二人で金色の信長像に手を合わせてお参りをする。この儀式もいつの間にか日常の一つとなっており、羞恥心は感じなくなってきている。実に慣れというものは恐ろしい。

「カメラで写真を撮りましょう。今日は誰に頼もうかな?」

 写真を撮ってくれる人を探している。

「お~~ 準備が良いね」

 三脚に気付くとひばりは、驚きの声を上げる。三脚を設置しセルフタイマーで写真を撮る。

「よし。写真撮れたね」

 撮れた写真を二人で確認するために、三脚に近づき液晶画面に写真を表示させる。

「駄目だ、駄目だ、駄目だ。写真を撮る場所も。君たちが立つ場所も」

 いつの間にか、二人組の男性警察官が立っている。私たちはキツネにつままれたかのような顔になる。一人の警察官がカメラに近寄り、ファインダーを覗く。

「設定も問題外だ。これだったらオートプログラムを使った方がましだ」

 岐阜駅周辺に勤務する警察官は、観光客を相手にする機会も多いのでカメラに詳しい警察官が配属されているのであろうか? と考えてみるがそんな馬鹿な話はない。

「カメラに詳しいんですね。一枚撮ってもらえませんか?」

 ひばりに褒められた警察官は嬉しそうに、カメラを持ち上げる。ひばりに褒められた警察官は嬉しそうにカメラを受け取ると写真を撮ってくれる。

「ありがとうございます。今から恋のつり橋に行くのですが、綺麗な写真を撮れるようにカメラの設定をお願いできませんか?」

 どこまで怖いもの知らずなんだろう。そんな事まで、警察官にお願いするとは驚きだ。

「あの場所は先月行ったから分かるよ。多分このくらいだ」

 警察官は言いつつ、迷うことなく設定をすると、警邏に戻っていった。

 しかし、私は決して聞き逃しはしない。ひばりは、重大な情報を私に隠していたことを……


「次は、電車に乗ります」

 駅舎に入り、自動券売機で切符を買う。JRで大垣駅まで行き、その後は養老鉄道に乗り継ぐ予定のはずだ。

「貴方と列車に乗るのは二回目だね。本当は、二人でディズニーランドに行きたかったのだけど…… お母さんに怒られちゃった」

「高校生が、二人で旅行に行くのは無理だよ」

「もう、貴方が行きたいと言ってくれたら、嘘をついてでも計画するのに!」

「嘘をつくのは良くないよ。それに、嘘が下手なのは知っているだろ」

「だからね。貴方に足らないのはチャレンジ精神。少々危険な事でも強引に推し進めてほしい時もあるのですよ」

 二人で宿泊旅行する度胸など、私は持ち合わせていない。

「そんな危険を冒すくらいなら、正々堂々と会って、少しでも多く二人で過ごしたいな」

「嬉しい。貴方がそう言ってくれた」

「恥ずかしいから……」

 全身がカァ―っと熱くなる。いつからか徐々に心を開き、素直な気持ちが出せるようになったのか? 私の肩にひばりは頭を乗せてくる。

「ずっと一緒に……」

「ああ…… そうだな」


 予定通り大垣駅で下車し、養老鉄道に乗り換える。

「ねえ。ドキドキしているの?」

 JRでの甘い時間とは打って変わりニヤニヤ笑いながら尋ねてくる。私が必死に平静を装うのを、気付かれてしまっているのか? 

「聞いたことがあるよ。高いところが苦手だって」

 大霜は間違いなく『恋の橋』と言ったはずだ。しかし、先ほどの警察官に、ひばりは『恋のつり橋』と話していた。警察官もそれが正解であるかのように、何の違和感もなく会話を進めていた。

 小学一年生の時ジャングルジムから落下して以来、高い場所は大の苦手となっている。従って、ジェットコースターや観覧車なんて論外だ。吊り橋なんて知っていれば最初からこの選択肢は除外される。不覚にも、いつも通りプランニングをひばりに任せてしまったことを悔やんでいる。自分で計画を立てればその段階で発覚し、予定を変更することも可能であったはずだ。そして、この痛恨のミスをひばりに見透かされている。

「大丈夫だよ。私がいるから」

 ひばりは、私の手をそっと握る。今さら引き返すなんてことは言い出すことはできない。覚悟を決めろと、自分に言い聞かせるしかない。


 養老鉄道で揖斐駅に到着した。次は揖斐川町コミュニティバスに乗り継ぐ。辺りは山で囲まれのどかな山里と言った感じだ。バスに揺れながら進んでいくと徐々に周りの景色は山々に囲まれていく。点在する民家も時代を感じる建物が増え、住人が居なくなりながらも、ひっそりと佇んでいるかのような建物も見受けられる。時刻は既に十時を過ぎ、岐阜駅を出てから二時間以上経過していた。

 久瀬振興事務所のバス停で降りる。事務所の目の前にある小津川はこの先で揖斐川に合流する。流れる川の水は、澄んでおり道から小さな魚影がちらほら見える。周囲の建物は岐阜市内よりは少なく、市内の喧騒から離れつつも人の気配は残っている。

「空気が澄んでいるし、緑が綺麗だね」

 ひばりは、そう話すと背伸びをしている。電車やバスに乗り続けていたので、筋肉をほぐしているのであろうか。

「やっと着いたね。体は大丈夫?」

「座っていただけだから、心配ないよ。それよりも、本当に大丈夫? 無理しなくていいのよ。高いところだし、揺れるよ。ゆ~~ ら、ゆ~~ らと」

 私を心配しているふりをしながらも楽しんでいる。間違いない。

「心配ない。別の人格に切り替えた」

「別の人格ってなに?」

 キョトンとした顔になっている。

「鉱物採取に行くときは、高さを感じる場所も多々ある。不思議な事に鉱物採取の時は恐怖を感じない。だから、そのモードに入れた」

「ふ~~ ん」

 ひばりは、興味なさげに返事をしている。それとも嘘を言っているのが手に取るように分かっているのであろうか? 大霜に聞いた話では、ここから数分歩くと恋のつり橋があるはずだ。

「目的地は、あちらだね」

 ひばりは、軽快に歩き始める。そして、バス停の近くにある特産品の販売所を指さして、

「ここに寄ろうよ。貴方は興味ないと思うから、外で待っていてください」

「帰りで良くない?」

「先に寄りたいのです」

 ひばりは先に進もうとする私の手を引っ張り、販売所へ連れて行ってしまう。母親もそうだが、女性の買い物は一般的に長い。ひばりの体調を考えると、販売所へ寄るのは気が進まないが仕方がない……

「良いけど、短時間でね」

「小さい店だし、買いたい物は決まっているから大丈夫」

 私の思いを知ってか知らずか、ひばりは販売所へ吸い込まれていった。

 二十分後、ひばりは販売所から出てきた。この規模の店に二十分滞在できることが、まずは驚きである。そして、何よりも衝撃的だったのは、これだけの時間を費やし手には何も持っていないことである。

「買い物は?」

「終わったよ」

 ひばりの答えに安堵する。ここから、『買いたいものが決まらないから、一緒に選んで』と言われるのではないかと心配になっていた。

「何か買ったの?」

「秘密」

 と言いながら勝手に一人で歩き始めてしまう。一人で歩き始める時は何かを企んでいる時の癖である。これは、警戒しなければいけない。

「また秘密? 教えてよ」

「すぐに分かるわ」

「教えてよ」

 延々と繰り返される不毛な会話を繰り広げている間に目的地に到着した。


「他にも人がいるのか」

「意外ですね」

 ひばりも驚いているようだ。ここまで山奥に来ると誰もいない、ひっそりとした光景を想像していたので多少期待外れでもある。入り口付近には恋の成就ルートと書かれた案内図が設置されている。

「このルートは車でないと難しいね。無理して心臓に負担をかけてはいけない」

 多少無理をすれば歩いて回れるかもしれないが、ひばりに負担をかけるのは禁物である。

「でも、白髭神社は行けそうじゃない」

「歩いて行けそうだから体調が良ければ行ってみようか」

「でも、先にお参りです」

 近くにお地蔵さんが居る。恋のつり橋に似合う可愛らしいお地蔵さんだ。これまで、どれほど多くのカップルを見守ってきたのだろうか。全国には恋愛成就の神社・仏閣が多数あると思うが、それぞれの神社・仏閣にお参りしたカップルが結婚まで到達した確率を計算したら面白いかもしれない。フェルミ推定を使えば計算できるのであろうか? と思うが、神様・仏様に対して余りに不謹慎かもしれない。そんなことを考えつつ二人でお地蔵さんに手を合わせる。お地蔵さんなので柏手は当然しない。

「さてさて、次は、先ほど買った恋の木札が登場します」

 ひばりは、カバンの中からハート形の木札を取り出す。先ほどの特産品の販売所で買ったようだ。恋のつり橋になぞらえて木札はハート形になっている。ひばりは、私たちは木札に願い事を書き始める。

「何を書いたかは、秘密だよ」

 変わった形のペンで何か書いている。

「そのペンはなに?」

「紫外線でしか見えないペンだよ。夏休みの手紙に使ったでしょ」

「そういう事か! 紫外線ライトを持ってこさせないために、ハンマーなど全て置いてこさせたんだ! 」

「正解。よくできました。貴方の木札も見ないから、私の木札も見ないでね」

「見ようとしても、見られないよね」

「だって、他の人にも見られたくないのです。でも、安心して。私たちの事しか書いていないから」

 そう言われると、余計に見たくなるが、ひばりの性格からすると見せる事は絶対にないだろうと諦める。

 そして写真を撮るために持ってきた三脚を立てると、ハート形の枠の後ろでポーズを取りながら二人で撮影をした。撮れた写真を確認すると、警察官に調整してもらった設定は完璧だったようだ。

「次はメインの吊り橋になるけど、大丈夫?」

 何を今さら…… ここまで来て『行きたくない』と言ったら不機嫌になるくせして…… と思うが、口にすることは許されない。

「問題ないよ。行こうか」

「怖くなったら抱き着いてもいいからね」

「だから、問題ない」

 吊り橋が一歩ずつ近づいてくる。しかし、妙な高揚感のせいか恐怖を感じない。木製の吊り橋に一歩踏み出す。大して高くはないと自分を信じ込ませる。前を見つつ、ゆっくりと歩き出す。多少吊り橋は揺れるが強度に問題はなさそうだ。それもそうだ。日本の吊り橋なら安全性は厳しく、台風にだって耐えられるはずだ。通常の歩行で破損するはずがない。ゆっくりと橋の中央部分を歩く。ひばりも私の横に寄り添って歩いている。徐々に揖斐川の中央に近づいてくる。

「意外と平気そうだね。もっと、怖がるかと思ったのに」

 橋の中央まで来ると驚いた声を出し、歩みを止めている。どこともなく残念な雰囲気が漂っている。

「問題ないよ」

 橋の中央から周りの景色を見ると、美しい眺望が広がっている。山々の間を走り抜ける美しい揖斐川。河畔で見る景色とは異なり川の流れが一筋の道のようだ。清涼な流れに浄化されるのか、吹き抜ける風も清らかに、川下を目指して通り抜けていく。

 ひばりと初めて自然を満喫したのは、林間学校であった事を思い出す。あと何回ひばりと自然を満喫できるのであろうか? あの時の約束を私は、守れるのであろうか?

「良い眺めね」

「ああ、山々の間を縫うように流れる川は、美しいものだ」

「そうだ! 吊り橋効果って知っている?」

「知っているけど、私たちには必要ないな」

 吊り橋の上での高揚感を利用して意中の相手に告白するのは有名な話である。これまでも、そしてこれからも吊り橋効果などと言うものは私には必要とする機会はないかもしれない。

 私の横ではひばりが、微かにニヤリと笑った気がした。

「私たちも、ドキドキしてみようか?」

 すると、不意に橋が揺れる。何の予兆もなく訪れた地震に驚き、ひばりが落下しないように手を差し伸べる。しかし、隣では、ひばりが楽しそうに橋を揺らしているではないか!

「何をしているんだ!」

 ただでさえ揺れやすい吊り橋を、意図的に揺らすなんて正気ではない。ロープが切れてしまったら、どうするつもりなのだ?

「ドキドキしてみようと思って」

「だからと言って揺らす必要はない。下を見ろ。かなりの高さがあるんだぞ」

 話した瞬間、見てしまった。下を。意識してしまった。高さを。影に潜み、今か今かと出番を待ち構えていた恐怖が跳梁する。それまでの眺望を楽しむ穏やかな心は一変し『恐怖』に支配されてしまう。心臓の拍動が唸りを上げる。両足は震え始め戻ろうにも吊り橋に番線で括り付けられてしまったかのように微動だにしない。全身の神経が恐怖に支配され私の意志は遮断されてしまっている。冷や汗が雫を作り、肌を流れ落ちていく。

「大丈夫。私がいるから」

 ひばりは、そっと私の手を握りしめる。温かさが伝わってくる。

「大丈夫」

 私を落ち着かせようとしているが、生憎と『恐怖』から逃れる術を持ち合わせていない。足を前に踏み出そうとすればするほど、『恐怖』はより苛烈に締め付けてくる。

「私が死んで辛い時に温もりを思い出して前へ進んで。貴方なら必ず感じることができる。必ず、再び歩き出すことができる」

 私の手を強く握りしめながら真剣な眼差しで見つめている。ひばりの温もりにより氷柱を少しずつ溶かすように、遮断された神経が

取り戻されてくる。やがて、固定されていた両足に意志が伝わり始め辛うじて足が動かせるようになった。ひばりに手を引かれゆっくりと踏み出す。

「大丈夫。私の顔だけを見て」

 慈愛に満ちた顔で優しく声をかけてくれている、ひばりに合わせるように一歩ずつ交互に足を前に出す。ゆっくりと行きの何倍もの時間をかけて、やっとの思いで陸地に戻ると、全身から力が抜け思わず座り込んでしまった。


「ごめんなさい。こんなに怖がるとは思っていなくて……」

「気にしなくていいよ。ひばりが居なければ戻って来られなかったし」

 戻って来られた疲労と安堵で、不思議と怒りは沸いてこない。それ以上に先ほどの言葉が気になっている。

「さっき言ったことは、私の本当の気持ち。道が揺れてしまっても、迷ってしまっても、絶望や恐怖に襲われてしまっても、それを見続けては駄目。『絶望』や『恐怖』は貴方を支配し、そして壊してしまう。だから、怖い時こそ必ず前を向いて。再び歩き出して。光と影が見えない明日でも未来へと繋がる」

 真っすぐな眼差しで私を見つめているが、瞳からは涙の一雫が落ちている。

「そうだね。でも、不安に陥ることもある。本当に一人で歩き出せるのかと」

「貴方ならできる。そうじゃなければ、こんな私に貴方を付き合わせない。私が死んでも、私は貴方の近くに居る。でも、憑りついたりはしない。ただ、一言心の中で呼べば、すぐに貴方の隣に来ます。だから、貴方は一人じゃない。大丈夫」


 私たちが恐れるその日は、そっと物音もたてず確実に近づいてきている。ある日、自覚症状があらわれるなり、驚くほどの速さで心臓だけでなく、全身をも蝕んでしまうかもしれない。そして、この夢のような旅の終焉が近いと、認めざる得ない日が来るのであろう。

 その時、私たちは『恐怖』や『絶望』に支配され立ち尽くし、残り少ない日々を迷いながらでも最後まで歩き続けられることは、できるのであろうか。

 しかし、その後は何も見えない。その先は、ただ、ただ、一人孤独な漆黒の暗闇があるだけだ。一筋の光明すら見いだせそうにない。ひばりが心配しているのは、一人で取り残され、なぎ倒されてしまった私が、再び立ち上がれるかである。しかし、どれだけ迷おうとも私は、ひばりとの約束は必ず守らなければならない。

「ありがとう。でも、早々に成仏してくれ。こんな悪戯を、年がら年中されたら困る」

 私は、重苦しい雰囲気に陥るのを避けるために冗談を言う。

「じゃあ、成仏してから来ます」

「いや、それって成仏してないから」

「じゃあ、貴方の人生を見守ってから、一緒に成仏します」

「だから、早々に成仏してくれ」

「分かった。仏様を超えます。あの世とこの世を、自由に飛び回れるように」

 周囲にいるカップルが、ドン引きするのを横目に笑いあった。お互いの思いを隠し、取り繕われた二人にはない笑顔だ。最後まで二人で歩んで行こう、私たちは全てを受け入れなければならないのだ。

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