第8話 支え
(影)
「夏休みに行った治療が功を奏したのか、九月は心臓の状態は大きく変化しなかった。しかし、彼女は抑うつ状態に入りつつあるかのように見えたので、抗うつ薬の投与も考えた。
しかし、彼女はそれを断った。『私にはするべきことがある。だから、薬の影響でボーっとしている暇はない』とね」
谷川先生は、相変わらず淡々とひばりの説明をしている。
「この頃、ひばりは物思いに沈むことが増えてきたわ。先生も気づいていたでしょ」
紅里は私に聞く。
「ああ、気付いていた。しかし、お互いにその話題は避けていた」
「ひばりも恐れていた。いつか、真剣に話さなければいけない日が来ると。でも、彼女自身が耐えられるか不安だった」
「それも気付いていた。そして、お互いに切り出すタイミングを迷っていた。切り出したが最後、このつかの間の幸せが、全て崩れ去ってしまう気がしていたからね」
「だから、彼女は必死だった。一人にしないでほしい。先生と、もっと一緒に居たいと」
「その通りだ。私たちは話をしなければいけなかった。どんなに小さなことでも、思いつくままに。そして、涙の後に二人が笑いあえるまで」
(光)
「長谷川とひばりが付き合ったらしい」
「デートしたらしいぞ」
十月のある日、クラスの中は騒然としていた。次々と速報が飛び込んでくる。
「一体、何なの? 説明してくれる?」
大霜と紅里は、私に詰め寄ってくるが、私自身、なぜこんな状況になっているのか、理解できていない。
「週末は鉱物採集に出ていた。ひばりが、何をしていたのか知らない。だから、否定する材料を持っていない」
「ひばりの事を信用してないわけ?」
紅里から、冷たい風か吹き付けてくる。
「信用はしている。ただ、否定する材料がないだけだ。ひばりは欠席しているから、事情を聞けないし」
「何で聞かないの? 早く電話して確かめなさいよ」
「今日、家に行って聞くよ。それまでは、泳がしといておこうと思う。可能な限り情報を集めてほしいな。首謀者と取り巻きの情報も含めて」
「そういうつもりか。分かった」
そうお願いすると二人は納得したようで去っていく。交代するかのように長谷川と数人の男子学生が私の所へニヤニヤとした顔をしながらやってくる。
「悪いな。ひばりは貰ったよ。返品してほしい?」
長谷川は毒づいてくる。彼らの全身からは悪意に満ちたオーラが噴き出し、苦悩する私の姿を楽しもうとしているのだろうか。
「返品の必要はない。真実ならばな」
「だから、事実を教えてやっているんだろ」
「まだ定かではない」
「まだ、捨てられた事すら教えて貰えてないの? そこまで来ると、可哀そうすぎて同情しちゃうよ」
長谷川の性格の悪さがにじみ出ている。そして取り巻き連中は、公然と私を嘲笑している。真実なのか偽りの事実を作り上げようとしているのか、今はまだ判断できるほどの情報を得てはいない。しかし私の心に渦巻く疑念を敏感に察知し、長谷川達は言葉巧みに心に付け入ろうとしている。
「そうか。それなら、それで良い。浮気する女などいらない。それが、事実ならばな」
これ以上、長谷川達の話しを聞いても得られる情報はないと判断し無言で席を立った。
放課後、クイ研に入る。ガラッとドアを開けて部室に入るが、いつもの「おかえり」と誰も言わない。クイ研の部員も噂を聞き付けて、私の様子を窺っているようだ。紅里が私に近づき、部室の隅へ連れていく。大霜もそこには立っていた。
「ひばりにメールしたけど返信が返って来ないのだけど。どうなっているの?」
「ひばりには連絡していない。これから顔を見て話をしようかと思って。それより、情報は何かある?」
二人に聞くとあれ以上の情報はなく、紅里からのメールにも返信してこないらしい。ただ、長谷川と取り巻き連中が噂を広めているので、一気に広まってしまい止めようがないようだ。
「ひばりが、そんなことをするはずがないと思うけど」
「事実かどうかは、本人に聞く。事実ならば別れるだけだ」
私は、それだけ言うと部室を出てひばりの家に向かう。
ひばりの家の前で、
「家の前に来たけど話せる?」
メールをすると、数分後ひばりから返信が来る。
「今日は帰って。お願いします」
取り付く島もない返事に、疑いが一層濃くなる。それでも、私はメールをするが、それ以降、返信はなくなった。
翌日からもひばりは学校に来ていない。メールをしようが、電話をしようが連絡が付かない状態が四日間も続いた。流石にグレーからブラックに疑いは変わりつつある。そろそろ、見切りを付けようと考えていると、ひばりからメールが来た。
「明日、学校で全てお話します」
それだけだった。無機質で何ら感情も読み取ることができないメールだ。『今聞きたい』と入力するが無駄であろうと思い送信を取り消した。最近の行動を見る限り裏切られたのだろう。明日には全てが終わるのだ。そう思うと、悲しくもあり、悔しくもある。しかし、心のどこかでひばりを信用したいとも思う。その狭間で葛藤し揺れ動く心は、次第に絶望に支配されつつある。平穏で幸せな日々の中で、漠然と幸せを享受し努力を怠っていたのかもしれない。夏の林間学校で誓った決意を蔑ろにし、自分の都合を優先していたことに激しく後悔する。何故あの時、学べなかったのであろうか? 本当に悔やんでも悔やみきれない。
翌朝、重い足取りで自分の席に着く。間もなく朝のホームルームが始まる。長谷川は相変わらず私に聞こえるように自慢をしている。ホームルームのチャイムが鳴ると全員が席に着いた。
授業開始が迫ろうとするとき、遠くの教室からどよめきが聞こえる。どよめきは徐々に私たちのクラスへと波のように押し寄せて来る。廊下を見ると担任の先生が、ひばりを連れて来た。とうとう最後の時かと全身に緊張が走り身構える。このような形で幕引きとなるのは本意ではないが、これも運命かと諦めるしかない。今更、ジタバタしたところで何かが変わる訳ではない。ひばりと先生は教室の前に立った。普段から色白のひばりであるが、今日は冷めきった肌のように感じる。
「今日の一時限目は、授業を中止し、最近発生した問題について話し合います」
先生は、そう話すと教壇の横に椅子を二つ持ってきて座る。ひばりは、明らかに私の視線を避けるように俯いているばかりだ。
「今回の件に関し、お騒がせしたことをお詫びいたします」
ひばりは、深々とお辞儀をすると淡々と話し始めた。ひばりの声が聞こえた瞬間、諦めていたはずの心が大きく揺れ始める。昨日のメールで全てを悟り理解したはずなのに、心のどこかには淡い期待があったのであろうか。
「教室に戻れ!」
廊下には先生の怒号を無視し人だかりができている。
「最初に事実のみをお話しします。先週の日曜日、長谷川君と出かけました」
ひばりが話し始めると一転し水鏡の如く静まり返る。その水鏡に雫を落とすがごとく、ひばりの声だけが輪状の波紋を打ち出し広がっていく。しかし、私の中では疑いや不信が興奮した猿が叫び、馬は水際を狂ったように走り回っているかのように次々と波風が立ち続けている。
「理由は、彼がある女性に告白したいから、相談に乗ってほしいと言われたからです。最初は断りましたが、あまりに熱心だったため、心が動かされ相談に乗ることとしました。岐阜駅前の喫茶店で相談を受けました」
「俺たちは、そこで付き合ったんだろ」
長谷川は席を立ち自慢げに宣言する。
「確かに、付き合うと言いましたが意味が違います。長谷川君は、また今度付き合ってくれないか? と言ったので了承しました」
「嘘をつくな。作り話だ」
「作り話かどうかは、水掛け論であり時間の無駄だ」
先生は、この茶番が早く終わってくれと言わんばかりの顔をしている。
「その後、私は体調を崩したので病院へ行きました。以上が事実です」
「公園で愛しあったの間違いだろ」
「それは、事実ではありません」
「もう、正直に言おうぜ。二人で熱烈に愛し合ったと」
「長谷川君。本当の事を言って」
ひばりは、唇を噛みしめながら苦しそうに話す。
「二人で愛し合ったのが事実だ。ひばりこそ正直になれよ。俺の女になったと。みんなの顔を見てみろよ。誰がそんな話を信じるんだ?」
既に勝負は決し、敗者を嬲るかのような、不敵な笑いをしている。
「仕方ないわね」
ひばりの表情が、氷のように冷たくなる。
「深雪さん。協力してくれるかしら」
「面倒なの嫌いなので、関わるつもりはないのだけど。ひばりさんを誘い出すとき私の名前を使ったのは許せないから手伝ってあげる」
冬の女王とも呼ばれる深雪が立ち上がると、深々と降る雪のような静けさが、教室を包み込む。
「長谷川君。どこで愛し合ったのかしら?」
「公園でさ」
長谷川は、自信たっぷりだ。深雪は、さらに質問している。
「不思議ね。その日の午後は、サッカー部の練習試合で他校に行っていたはずだけど?」
「その日は、サボったぜ」
「予備校で遠征先の女子生徒から、サッカーをしている写真を見せてもらったんだけど?」
「別の日の写真じゃないの? それに、証拠写真もあるぜ」
長谷川のスマホを見ると、女子高生がスカートを上げている写真が表示されている。
「うちの高校の制服ね。でも、顔は移っていないわね」
「顔まで撮りたかったんだけどな。ひばりが嫌がるから」
長谷川は悪びれる素振りもない。
「ひばりさん、スカートを膝上まで上げて」
深雪がそう言うと、ひばりはスカートの上を折り曲げるようにして、ミニスカートのようにする。
「右足に写っている黒子が、彼女の足にはないわね」
「外だったし、ゴミでもついていたんじゃないの?」
長谷川の顔は、ニヤニヤとしている。
「そう。でも、彼女は喫茶店の後、病院に行っていたのよ。どうしたら公園で会えるのかしら」
「午後になって、ひばりから会いたいと電話してきたぜ。そんな積極的だとは夢にも思わなかったけどな」
「私は、一昨日まで入院していた。病院の退院証明書だってある」
ひばりは診断書をカバンから取り出した。
「あ~~あ。バレちまったか。もうちょっとで上手くいくと思ったのに」
長谷川は連載が打ち切りとなった作品のようにあっさりと嘘を認めてしまった。今まで演技が嘘のように芝居の仮面を外す。あまりの幕引きの速さにクラスの学生だけでなく、取り巻き連中も唖然としている。もっと泥沼になっていくと予想していたのだろう。
「さて、茶番は終わったな。長谷川と取り巻き連中は放課後、学生指導室に来ること。処分があると思う」
先生は、意外に簡単に終わったなとも言いたげな顔をしながら、長谷川たちに告げている。ひばりと深雪も、長谷川がいとも簡単に嘘を認め、驚き戸惑っているようだ。
「は~~ い」
長谷川は反省どころか不敵な笑いをしている。その不敵な様子は気色悪く、何か違和感を抱く。何かを見逃しているのか? 長谷川のあの顔は、絶対に何かを企んでいるはずだと頭を全開で回転させる。私が長谷川の立場なら…… 目的達成の為に何を企むか? 彼は目的のためには手段を選ばない。だとしたら、ひばりを攻略する成功の可能性は残されていない。そうであれば次にターゲットにすべきは私だ。
「いや、違う。終わっていない。長谷川に乗せられている」
「もう、この話は終わったんだよ。今更、口を出してくるな! 部外者が!」
長谷川は、先ほどまでの不敵な態度から一変し、怒鳴り散らし暴れ始める。慌てて周りにいたクラスの男子学生数人が急いでで長谷川を取り押さえるが、顔からは笑みは消え、怒り狂った猪のように興奮は治まらない。今にも私に突進でもするかのような勢いで前傾姿勢のまま抑えられている。
「はい。はい。はい。全て解決したんです。はい、お終い」
先生はこれ以上の面倒なことは御免だと言うかのように話を終わらせようとしている。しかし、長谷川の異常な興奮は私の予想は、正解だったのを指し示しているに違いない。
「長谷川は、嘘を隠し切れないと思った途端に方針を変えた。ひばりが相談もせず黙って一人で解決しようとしたことで、私が怒って別れを切り出すと予想した。そして、その隙を狙うつもりだ。そのために布石として、今日まで私を不安にし、怒らせるため執拗に私をいびり倒してきた」
ひばりと深雪はハッとした顔をしているが、先生はうんざりした顔をしている、
「そういう事、先生には関係ないから。ひばりさんの名誉が回復すればいいから。後は個人でやって。全員自習」
と言うと、押さえつけらえたままの長谷川を掴む。
「学生指導室に行こうか」
いつの間にか集まってきた教員数人で、今なお暴れている長谷川を廊下へ引きずり出している。
「ごめんなさい」
ひばりは、私の所へ来ると頭を下げている。
「学校は早退して、話をしようか。長谷川のストーリーに乗る形で」
ひばりの顔が硬くなる。紅里が、荷物を纏め始めた私の腕を掴む。
「ちょっと待って。ひばりは貴方に迷惑をかけまいと……」
「うるさい。黙っていろ」
紅里の腕を振りほどく。
「それでも……」
紅里は何かを言いかけるが、大霜はそれを遮る。
「紅里は黙っていろ。二人の問題だ。紅里に同じことをされたら、俺も紅里と別れる」
大霜にそう言われ、紅里の動きが止まる。
「来るのか? 来ないのか? はっきりしろ」
私は、そう言い放つと教室室を出る。後ろからひばりが慌てて追いかけてくる音がする。
私たちは無言のままバスに乗り、バス停から近い私の家へ向かう。空気は重く、両肩に重くのしかかる。わずかな刺激でも、ひばりの涙腺は崩壊しそうな顔をしている。
家に着くと、無言のまま部屋に入る。机の上には収集された鉱物が、雑然と置かれている。ひばりが部屋に入るのは初めてだ。私はベッドに腰かけ、突っ立っているひばりに学習机の椅子に座るように伝える。
「まだ、嘘があるな」
「ありません」
ひばりは、真っすぐに私を見つめる。その視線に陰りはない。
「別れることを前提に話し合おうか」
「そんな……」
「長谷川と会ったこと。入院していた事。今日のやり取り。一人で解決しようとしたこと、全ておかしい。そして、一番許せないのは、未だに嘘をついていることだ」
私は、吐き出すように話している。
「嘘はありません」
ひばりの目は淀みがない。しかし、根拠はないが確信がある。十中八九間違いではないはずだ。
「嘘はな」
「ごめんなさい」
ひばりは俯いたまま涙を落とし始めた。
「私は何を信じるのだ? 誰を信じるのだ?」
「彼に相談したことがあると呼ばれたとき、嘘だなと思いました。でも、貴方が居なくて淋しかった。だから、それを紛らわすかのように会ってしまいました」
「それだけでは無いな」
「喫茶店で相談された後、カラオケに行こうと誘われて、断ったけどしつこくて。一回だけでもと言われて。カラオケに行きました。そこで、抱きつかれて…… 本当に嫌で…… 無我夢中で受付まで逃げたら、気を失って…… 気付いたら病院にいました」
「それで?」
「お父さんには全部バレていて、二日前に退院してから酷く怒られて、別れてこいと言われて学校に来ました。別れてこないなら、お父さんが貴方の家に行くと」
ひばりは嗚咽し、言葉は明瞭に聞き取れなくなっている。
「なんて、怒られたの?」
「裏切ったこと。そして、それを貴方に隠そうとしたこと」
「そして、怒られたのに、さらに隠そうとしている」
ひばりは、シクシクと子供のように泣いている。コンコン。部屋をノックする音がすると父親が入ってきた。私たちが部屋に入った後、知らない間に帰宅したようだ。
「ひばりさんも居たのか。丁度いい。二人とも下に降りてきなさい」
私たちは、連れられてリビングへと降りる。そこには、意外な事にひばりの両親も居た。
「この度は、誠に申し訳ございませんでした」
リビングに入るなり、ひばりの両親は揃って深々と頭を下げる。ひばりは、信じられないと言いたげな顔をしている。
「なぜ、お父さんが出てくるの?」
「まだ、分からないかね。既にひばりさんの手に負える状況ではなくなっているのだよ。お二人も頭を上げて座って下さい」
ひばりの両親に向かって、私の父親が淡々と話している姿から危うさを感じる。この先、声を押し殺し感情の起伏が全く感じられない話し方となったら、私がどんなに大切にしている物でも容赦なく取り上げる時だ。今は、その前段階にある。
「二人には結論だけ言おう。今回の件に関しては、父親として弁護士に依頼した。民事訴訟及び刑事事件にもなり得ると考えている。また、高校へも通報を行ったので、彼には処分が行われると思う」
「どうして?」
ひばりの顔は青ざめている。
「世間は甘くない。暴行罪・傷害罪で訴えることを検討されているそうだ」
私の父親は、変わらず淡々としている。
「そんな……」
「ここまではお前が被害者だ。しかし、お前は自分の仕出かしたことを、彼に隠そうとした。これは犯罪ではないが、人道に悖る行為だ。私はこのような行為を絶対に許さない。ここで彼とは別れなさい。その後、当面の間は外出禁止、携帯電話も没収だ」
ひばりの父親は、ひばりの手から、強引に携帯電話を奪い取る。
「あのう。聞いて良いですか」
会話から締め出されている感じするが、取り敢えず今回の出来事の全体像を、正確に把握しなければならない。
「何でも聞いて下さい。全て正直に話します」
ひばりの父親は答えてくれる。
「今回の話の流れを教えてください。長谷川と喫茶店へ行き、カラオケに行ったら抱きつかれ受付に逃げた。そこで意識を失い病院に搬送された。退院したのは二日前。で合っていますか?」
「その通りだ。防犯カメラの映像からも確認しました。意識を回復したのは、月曜日でした」
ひばりの父親は、丁寧に答えてくれる。つまり、意識を回復してから今日まで連絡をしなかったのは、ひばりの意志によるものか。
「私は、こう思う。二人の事は二人で決めればいい。恋愛に浮気だの何だのは、良くある話だ。親が出る必要はない」
私の父親は、他人事のように冷静だ。
「しかし、彼は娘の病状を知りながらも、娘に寄り添ってくれた。すぐに一人取り残され、絶望の苦しみを味わう覚悟をした上でだ。人の気持ちを踏みにじる娘を育てた覚えはないし、そんな娘を、彼と付き合わせる訳にはいきません」
ひばりは父親の言葉に泣き崩れる。
「私は…… 私は、大変なことをしてしまった。お父さんが、散々教えてくれていたのに、今まで気が付かなかった。私は……」
ひばりが、泣きじゃくり、辛うじて聞き取れる。
「ひばりは、私の部屋に行っていろ」
私がそう言うと、私の母に連れられてひばりは部屋を出て行った。ひばりが私の部屋に行ったのを確認すると、ひばりの父親に相談する。
「二人で話し合って決めます。恐らく別れることはないでしょう。それでも、構いませんか?」
「私は父親として責任を取らなければならない。ひばりの全ての行動に対してだ。娘が病気でなければ、あのような行動を取らなかったと信じたい。しかし、今、ひばりの心は不安定だ。次に何を仕出かすか、予想できないところもある。君に、これ以上迷惑をかけることはできないと考えている」
ひばりの父親は申し訳なさそうに答える。
「ではこう考えましょう。今回、三つの問題がありました。一つは彼女が他の男と会ったこと。二つ目は襲われて心臓に過剰な負担がかかったこと。三つめは隠そうとしたことです。一つ目の問題は、世の中ではよくあることです。彼女は、浮気するつもりではなく、ただ単にお茶をしてカラオケをしただけです。しかし、ひばりの不安定な気持ちに気付かず、出かけてしまった私にも責任があると思いますが」
「だからと言って、彼氏が不在の時、他の男と会うが許されるわけではない」
「反省は必要です。しかし、この問題を単体で見れば両親がそこまで怒ることではない」
「単体で見れば、君の言う通りだ」
「二つ目の問題は、長谷川の責任です。彼女に非はないと思います」
「ひばりの軽率な行動が、その後の重大な事態を招いてはいるがな」
「三つ目の問題は、隠そうとしたこと。この問題はひばりの責任です。しかし、彼女は遅すぎる感はありますが、時間切れ直前に彼女は気が付いたようです。今後、彼女なら同じ過ちを繰り返すことはないでしょう。彼女も頑固なところがありますから」
「そう信じたいが、娘の心は不安定だ」
「それならば少しでも安定させてあげられれば、同じ過ちは繰り返さない」
「物事を分解し、それぞれを単体で見れば一つ一つはそれほど重くないかもしれない。しかし、現実は全てが糸で結ばれ、その連続によって次の事象が発生する。今回のような重大な結果を招かないために止められる機会は幾らでもあった。しかし、どの段階でも止められなかった責任がひばりにはある」
私が想像していた以上に、ひばりの父親は今回の件を重大視している。ひばりの父親の説得は困難かもしれないと不安が過る。
「ですが、彼女は高校生です。人生経験が足りなかっただけです」
「君たち二人には、大人の対応を私は期待していた」
「その話しには無理があります。行動は大人を求め、管理は子供として彼女を扱っている。大人の対応を期待するのであれば、今後のことも二人に決めさせるべきです」
「高校生は大人と子供の狭間だ。それは仕方のないことだ」
私の父が割って入る。どうやら私の父親は敵でも味方でもないようだ。一人の大人として冷静に対処しようとしているのか。
「では、こうしませんか? ひばりは、まだ話していないことがあると予想しています。彼女が促されることなく自分から正直に話したら、二人に決めさせてください」
私の提案にひばりの父親は驚いている。恐らく全ての経過を把握したつもりであったのであろう。
「まだ、何かあると?」
「ええ。多分。本当に気付いていたら自分から話します。話さない時は終わりです」
ひばりの両親は戸惑いを隠せない。全てを聞いたつもりだったのだろう。私も、まだ秘密があるかは、半信半疑である。
「分かった。しかし、後で必ず全て教えてくれ」
「分かりました。携帯電話をお借りしますね」
私の部屋では重い空気が圧し掛かっているかのように床に座り込み、すすり泣くひばりがいる。
「さて、どうしようか?」
ひばりに携帯電話を渡す。
「ごめんなさい」
ひばりは受け取ることもできず、全てを失ったかのように大粒の涙を溢れ出し、小さな子が親に叱られたときのように謝り続けている。
「何を謝っているの?」
「お父さんにも、貴方にも教えてもらっていたのに、今まで気が付かなかったこと」
「じゃあ、何に気が付いた?」
「私は、自分のことだけを考えていた。二人のこと、そして覚悟した上で歩んでいてくれた貴方のことを考えていなかった」
「何故、気が付かなかった?」
「自分を守ろうとしていた」
ひばりは顔を伏せて表情は伺い知れない。
「なぜ、守る必要があった? 最初からすべて正直に、話せば良かったのじゃないかな?」
「……」
ひばりは沈黙で答えている。そして、何かを考え込んでいるようだ。
「話は終わりかな?」
私の質問に、ひばりは慌て始めている。
「話せなかったの」
「どうして?」
「意識を回復して、貴方がメールをくれる前、長谷川君からメールがきていたの」
ひばりは、携帯電話の電源を入れると、長谷川とのメールを表示させる。
「全て見てください」
ひばりは、私に携帯電話を渡した。画面には五月からのメールが映し出されている。そこには、何度もひばりを誘うメールが来ており、その度に断られていた。変化が起きたのは先週である。ひばりが、鉱物採取に行く私の不満を漏らした日からだ。その日から、ひばりを放置して鉱物採取に行く私の非難が始まり、遊びに誘い出すメール。そして恋愛について相談したいと変わっていた。ひばりも最初は警戒していたようだが、何度もメールする内に相談だけならと変化していったのが伝わってくる。
そして、事件の後の長谷川からのメールは豹変していた。二人で会っていたことを誰かが見ていたようで、学校に噂が広まってしまっていることや、私が激怒し別れると宣言したと嘘偽りが、あたかも事実のようにメールされている。
「このメールを信じたの?」
「はい。気が動転していました。何を言っても貴方に信じてもらえないと思って、一人で解決しないと、本当に捨てられると思いました。今更、何を言っても信じてもらえない。だから、無実を証明する日までは連絡を絶とうと思いました」
「もう一つ聞きたい。私が事実を知る前に、何故、深雪さんが知っていた?」
「彼が、本当に深雪さんに告白しようとしていたのか知りたかった。そして、彼女なら冷静に判断してくれると思いました」
「深雪さんは、私に正直に話すように言わなかった?」
「そう言われたけど、無理でした。その後のメールを見てもらえれば、分かります」
ひばりは、重苦しい口調で吐き出している。更に、メールを読み進める。長谷川からのメールには、お互い後には引けないので付き合うしかないとメールされているが、ひばりはキッパリ断っている。その後のメールは酷いもので、脅迫まがいのメールを何通も送り込んでいる。さらに。見るに堪えない写真をひばりの写真としてばら撒くと脅している。最後には、長谷川と付き合うか、私を学校に来られないくらい虐めるか、どちらを選択するかまで迫っている。
「全ての選択をミスした結果だな」
「その通りです」
「長谷川たちに虐められたら、私が追い込まれるとでも?」
「長谷川君達は、クラスで影響力が一番大きい。彼らが結託すれば、私は貴方を守り切れないかもしれない」
「だから、一人で解決しようとした?」
「はい」
ひばりの答えに、新たな怒りが湧いて出てくる。
「つまり、私はひばりに守られないと学校生活が送れないと言いたい?」
「いいえ。長谷川君と付き合うのは嫌。だからと言って貴方が虐められたら、幸せなんてなくなってしまう。それに、私の話を信じてもらえるとも思えなかった。だから……」
「それで、何故今になって正直に話した?」
「遅すぎたけど、過ちに気が付いた。貴方を傷つけた。全て終わってしまったけど。今、私にできることは全てを話すことしかできない。他に貴方に誠意を見せる術はない」
ひばりは再びシクシクとすすり泣きをしている。
「他に話したいことは?」
ひばりは、泣きながら私に抱き着く。最後の質問という意味が伝わったようだ。
「本当にごめんなさい。自分勝手で。私は…… 生きたい。貴方からの信用を取り戻せる日まで生きたい」
「でも、ひばりは生きられない」
「はい……」
「リビングに行こうか」
私が声をかけると、ひばりは抵抗しない。生気の抜けた亡霊のようにフラフラと立ち上がり、ゆっくりとリビングへ歩き始めた。リビングへ着くと、ひばりをソファーに座らせる。
「中間報告をしに来ました。携帯電話に全て隠されていました」
「……」
私の言葉は、ひばりに届いていないようで俯いて反応しない。ひばりの携帯電話から、長谷川とのやり取りを表示させると、ひばりの両親に渡す。
「多分、両親にも隠していた事実だと思います。つまり、ひばりは私に隠していたのではなく、全員に隠していたことになります」
相変わらず、ひばりは魂が抜けたように微動だにしない。
「お前、何故こんな重大なことを隠していた!」
ひばりの父親は瞬時に沸騰し震えている。この場に長谷川がいたとしたら、既に殴りかかっているだろう。対照的にひばりの母親は青白くなっている。
「お父さん。落ち着いて」
ひばりの母親は、必死になだめている。
「追い詰められて、道を見失ったな。責任感が強い。その反面、相談できずに全てを抱え込む。父親と同じじゃないか」
私の父親も携帯電話を確認したが不気味なくらいに冷静だ。
「本当にそう。いつも決めてから私に相談する」
ひばりの母親が独り言のように話す。
「本当に処分が下るのか? と疑問だったが、ここまで明確に脅迫しているとはな。そして、約束は守るよな。大人として」
私の父親は、ひばりの父親に視線を送り約束の履行を求めている。ひばりの父親は怒りを必死に隠そうと努めながら、冷静さを絞り出すかのようにしている。
「約束は守る。しかし、携帯電話は証拠を残すために借りていく。彼には世間の厳しさについて身を持って体験してもらおうか」
ひばりの父親は、怒りを通り越してしまったのであろうか? 非情、いや冷淡な口調に変化している。
「では一晩、時間をください」
窓から外を見ると、既に陽は落ち窓から月が見える。
「結論を出そう」
私がそう呟くと、ひばりは小さく頷いた。
「二人に話がある。私たちはこれからひばりさんの家で今後の相談をする。二人とも責任ある行動を取りなさい。約束を守れなければ次は容赦しない」
私の父親はそう告げると、ひばりの両親と共に家を出ていった。帰ってくるにしても、遅くなるのであろう。二人の両親を見送り、玄関から戻ってくるとリビングにひばりは居なかった。私の部屋に行ったのかと思い自室に戻ると、ひばりは沈痛な面持ちで椅子に座っていた。
「ここに居たんだ」
「最後になるかもしれないと思ったから」
「そうだね」
「こっちに、おいで」
ベッドに腰かけるとひばりを呼んで座らせる。今から何が始まるのか? と緊張しているようだ。ひばりを抱きしめベッドに横たわると、ひばりの体が硬直する。
「貴方の心のどこかに、信じられない気持ちがある。いいよ。貴方なら。確かめて」
ひばりは、ポツリと呟く。その顔は真珠のように白いが、透き通った明るさは感じられない。
「約束は守らなければいけない」
「でも、今日を逃したら二度と二人で会えない。私は、何もなかったと永遠に証明できない」
ひばりはあらん限りの力で私を抱きしめ、必死の形相で訴えている。病魔に侵されているひばりに、こんな力があるのかと思う。
「これからどうするのかを、話し合うんだよ」
「でも、私はもう…… 振られた」
「そうだね。だから、どんな小さなことでも話をしようか」
ひばりの言葉を肯定した私に、ひばりは一瞬たじろぐ。結論は、とっくに出ている。
「そう…… 最後に…… これは貴方に渡しておきます」
ひばりの声は落ち着いてくるが、深い深海のような暗い影が感じ取れる。ひばりはポケットからピンク色のフェルトで作られた袋を取り出すと水晶の玉を私に差し出した。無言でそれを受け取りつつ、ひばりに尋ねる。
「この一週間は、幸せだった?」
「地獄のような日々でした。一筋の光明に頼るために、頑張っているつもりだった。でも、その光明は幻でしかなかった」
「幸せではなかったのだね。なぜかな」
「一人孤独に。いえ、独りよがりに嘘偽りをしてしまった」
「じゃあ、どうすれば、良かったんだろう?」
「二人で、二人のために考えればよかった」
ひばりの声からは後悔の念が滲み出ているようだ。
「幸せって何だろう?」
「大切な人と寄り添いながら、温もりを感じながら、笑顔でいられる事かな。失って貴方の大切さに気が付きました」
「思想的な感じだね。じゃあ、美味しいもの食べたり、楽しく遊んだり、友達と楽しく話した時は?」
「嬉しい? 楽しい? 何て言えばいいのかな? さっきのが思想的なら、それは直感的な幸せかな?」
「今一つ、直感的幸せと思想的な幸せが明確じゃないね」
私は、ずっと疑問に思い続けていた疑問を口にする。
「私も同じ疑問を抱いていたわ。だから、私はこう考えた。食事を例にすると、食事をする行為は体感により直感的に美味しい・お腹が満たされるという幸せがあるわ。そして、その上に作ってくれた人や食材への感謝があるのじゃないのかしら」
「つまり、体感と直感的幸せ、思想的幸せが混ざり過ぎていたということか」
確かに、これらが混ざりあっているせいで方向性が見いだせていない気もする。
「そう。そこを分けた方が良いかもしれない」
「じゃあ、さっきのひばりの話していた幸せはこうなるのかい? 誰かと寄り添うことで感じられる温もりが体感。寄り添ったことで満たされる愛情が直感的。愛情が満たされたことで感じられる感謝が思想的な幸せ」
「そんな感じかな?」
ひばりも十分に考えが固まっていない様子である。
「つまり体感をベースに直感的幸せが満たされると思想的幸せに発達するか。つまりピラミッドのような形?」
「かもしれない。ただし明確な境界線は引きにくいし、双方が影響しあうような気がする。今まで、私はこの二つを分離して考えていた。それは誤りかもしれないわ」
「でも、疑問が残るな」
「どんな疑問ですか?」
ひばりが尋ねてくる。
「思想的幸せを感じることは大切だと思う。でも、今の例で行くと感謝が一生涯の幸せになり得るかな?」
「分からないわ。もしかしたら、ピラミッドには先の段階があるのかもしれないし、人によって価値観が異なるように到達する先は変わるのかもしれない。だから、思想家や哲学者も万人に共通する答えが出せていないのかもしれない」
「そうか。人によって到達する先が変わるから、共通の定義は、見つからないのかもしれない。だから私たちは、私たちの幸せを探せばいいのか。私たちだけの答えを」
ひばりは、私の言葉に動きが止まる。私が何を言いたいのか、その意味を図りかねている様子だ。私はひばりに顔を近づけ手を取る。そして、そっと手のひらを開くと水晶の玉を乗せて握らせた。
「それが、私の答えだ」
ひばりの顔は、パッと明るくなる。希望のない暗闇の世界に、希望の光が差し込んだかのようである。
「本当にいいの? 私なんかが側にいて」
「ああ」
「ありがとう。本当にありがとう。約束します。二度と一人で抱え込みません。必ず、貴方に、家族に、相談します」
ひばりは、抱きつき涙声で話している。
「この一週間は暗闇だった。鵜飼いの時、老夫婦が話していたように、光は影に内包されるのであればこの一週間は大切にしなければいけない。影を知ることでより光の重要性を知ることができたと思う。そして、迷い道でも夜道でも歩いた分だけ景色が見える。そして、その道は必ず先へと繋がっているはずだ」
ひばりは、起き上がり私の顔を見つめてくる。
「でも良いの? 私は淋しかった。もっと、貴方と一緒にいたかった。小さなことでも沢山話したかった。だから纏わりついちゃうよ」
「それでいい。ひばりの心が満たされない限り、幸せは見つからないだろう。どんなことでも話し、笑顔でいてほしい」
「ありがとう」
久しぶりに見たひばりの笑顔だ。その笑顔は、真の笑顔の花を咲かせるための蕾のように、繊細ながらも生き生きとしているように見える。
林間学校までは、別々の路線を走る列車に乗っていた二人であったが、今ではお互いの線路は、どこまでも同じ方向に寄り添いあいながら伸びていると思っていた。しかし、トンネル区間だけは別々の細いトンネルを進むことがあるように、今回の出来事ではお互いを確認できないまま、それぞれが思う方向に走り抜けてしまっていた。しかし、トンネルを出たことにより再び同じ方向に向かって線路は伸びていくと信じている。
どこまで二人で並走できるのかは、誰にも分からない。それでも、行ける所までこの道を全力で走り抜けようと気持ちを新たにする。私たちは離れ離れになった一週間を取り戻すかのように会話し笑いあった。大切な蕾を愛おしみ、育むかのように。そして、この一時がいつまでも続いてほしいと願いつつ。
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