第2話 再開

(影)

 

2019年1月22日。岐阜市内の公立病院。十畳ほどの広さに医学系雑誌や資料が雑然と押し込まれた一室がある。通称ムンテラ部屋と名付けられた患者や家族に病状の説明を行うための部屋だ。窓から差し込む光りは薄れ、蛍光灯の明かりが寒々と室内を照らしている。谷川部長と井上看護師長は人目を避けるかのように部屋に入り静かに扉を閉じる。

「谷川先生。お話があります。」

 井上看護師長は二児の母親であるが、その均整の取れた体つきは四十代半ばに差し掛かっても崩れてはいない。見た目と同様に仕事ぶりも冷静で的確であるが、話しぶりはどこか冷たさを感じさせるのが玉に瑕である。

「何か用か? 村上」

 結婚して九年が過ぎ去ろうとしているのに、谷川先生と呼ばれた男性医師は旧姓で呼び続けている。谷川先生は間もなく五十代にとなるにも関わらず、黒々と日焼けした筋肉粒々の元ラガーマンである。年齢を重ねることで次第に性格は丸くなってきているが、爆薬のような気質は根本的には今も変わりない。

「今日が約束の日です」

「ああ。覚えている。そのために戻ってきた」

「約束は果たされるのでしょうか?」

「全ての条件は整った。奴は幽体離脱している最中か?」

「はい。その前に確認をお願いします」

「ならば問題ない」

 お互いに古ぼけた封筒を無言のまま確認を終えると、二人は無言のまま部屋を出た。


 集中治療室のナースステーションでは、十数人の看護師が忙しそうに動き回っている。心電図モニターからは異変がないことを知らせる電子音が一定のリズムではじき出されている。

 私はこの病院で研修医としての期間を修了し、そのまま心臓外科医として勤務している。体力に乏しい私が心臓外科を専攻した時には、十時間を超える心臓外科手術ができるはずがないと、同期から何度も考え直すよう説得された。実際に心臓外科を選んだ当初、長時間の手術に耐えるのもやっとで毎日のように怒鳴られたものだ。

 目の端には、谷川先生と井上看護師長が、集中治療室に入って来る姿を捕えてはいたが誰かと話す気分ではない。谷川先生は少し離れた場所にある椅子に座ると電子カルテを開き処方を入力しながら、看護師から矢継ぎ早にされる報告に対して指示を出している。

「先生。手術が終わってから二十分も待っています」

 両親と思しき夫婦は患者のベッドサイドからチラチラと周りの様子を窺っている。患者や家族が、説明を待つのは日常の光景である。話しかけてきた看護師は、二十代後半くらいで髪は後ろで束ねている落ち着いた雰囲気の女性だ。しかし、私のルールを知らないのか? 少しイラっとする。 

「……」

 私は返事もせず持ち歩いている簡易式紫外線ライトで水晶を照らしてみる。当り前であるが今日も水晶からは何の返事も返ってこない。この時間は脳裏に青春時代の日々が蘇る神聖な時。しかし、神聖な時であっても医師として患者の急変に備え、意識の半分は現実世界に残してある。ただ、手術を乗り越えた後はどうしても、青春時代からの宿題が思い出されるが、その答えは遥か彼方にしかない。

 無視しているのにも拘わらず私の前から立ち去らない看護師に、私の眉間に皺がよる。温厚な私は大抵のことならば怒り出すことはないが、この時間だけは別である。我慢が徐々に限界に近づいてくると、井上看護師長が割って入ってきた。

「先生は幽体離脱中です。もうすぐ帰ってくるから待ってもらいなさい」

 若い看護師は不満そうな顔をしながら去っていくと、患者の異常を知らせるモニターアラームがけたたましく鳴り響いた。私の意識は一気に現実世界へ引き寄せられると反射的にモニターを確認する。一過性の不整脈であり直ちに処置が必要な波形ではない。

 十年以上探し求めていた答えなのに今日も見つからなかった。もう少しで見つかりそうなのに、決して見いだせない悲愴にも慣れてしまったと考えつつ、急いで医師としての顔を作り両親も元へ向かう。

「本当に待たせてしまって申し訳なかったです。手術前の説明でもお話ししましたが、手術の後はどうしても疲れてしまって……」

 家族から呆けて説明を後回しにされたと苦情を病院に言われたこともあるが、そんな些細な事は気にする必要もない。両親への説明が終わると、薬剤や処置の指示を出す。他の患者への指示やカルテ記載もしなければならない。我々の診療科は症例によって業務量が大きく変動してしまう。今週は緊急手術が数例入ったため休憩も十分に取れていない。今日も全ての仕事が終わる頃には二十時を回っていた。


「今日もやっと仕事終わった~~ 帰るぞ~~」

 立ち上がりながら、谷川先生は大きく背伸びをしている。私は一足早く仕事を終わらせていたが、谷川先生が終わるまで待つのが研修医時代からの習慣だ。すると井上看護師長がスルスルと近寄ってきて、何かを谷川先生に耳打ちをしている。

「お―― そうか。忘れるところだった。明日は、先生の三十歳の誕生日か」

 そうか、誕生日を嬉しく思わなくなったのはいつからか? そうか、あの日からかもしれない。悲しみを抱え、新しい明日に夢を探すのをやめた日からか。

「先生、誕生日おめでとう!」

 一斉に数人の若い看護師は、看護記録を入力し始めた電子カルテから顔を上げて祝福してくれた。誕生日を忘れるようになっていても人から祝ってもらえれば気分は悪くない。三十路なんて実感が湧かないが意外と早いものだなと考えていると、井上看護師長が近づいてきた。

「若い看護師に囲まれて嬉しいのでしょうけど、来ていただけますか?」

「いいですよ」

 お祝いモードに浸っている中、井上看護師長に水を差されてしまい久しぶりに高揚していた気分が一気に下がってしまった。しかし、不要な対立を防ぐため素直に聞いておくのが正解だ。


 井上看護師長は、私と谷川先生を伴ってスタッフルームに移動した。この部屋は、看護師が食事等の休憩をする場所である。いつ来てもお菓子が常備してあるのは、看護師には女性が多いからか。スタッフルームに入ると、私に向かい合って谷川先生と井上看護師長が座った。

「何ですか? 神妙な顔をして。今日の手術も完璧でしたよ」

 この部屋に呼ばれる意味が見いだせず思わず首をかしげる。谷川先生に怒られるのか? いつも通り『いい加減に看護師の顔と名前を憶えろ!』と小言を言われるのであろうか?

「先生の手術は上手い。手術後、幽体離脱する時間を抜けば、患者対応も問題ない」

「では、既に一人前の医師で、よろしいですか?」

「ああ、彼は既に一人前でよい。私が認める」

「では、いいですね」

 二人が何を言い始めたのか理解できず困惑する。私の承諾もなしに、勝手に何かを進めようとしているようだ。確かに大学の中でも有数の腕を持つ谷川先生に一人前と認められたのは嬉しいが、説明もなしに会話を進められても困る。

「では、私がすべきことですので、私が言います」

 ようやく私の方に振り返った井上看護師長は、緊張しているのか強張った表情で慎重に口を開いた。

『明日への手紙』


(光)


 2005年5月、長良川の河畔にある大縄場高校に入学し1ヵ月が経過しようとしている。三階にある教室からは、涼し気な清流に舞い降りる水辺の野鳥たち、堤防には新緑の若々しい草花が陽の光を受けつつ風になびく風景が一望できる。岐阜県下で最高の進学実績を誇る高校だ。中学まで耐えさせられた同調圧力から解放された私は、いつも通り安心して窓際で読書に勤しむ。

「何を読んでいるのかな~~」

 本を開こうとすると、一人の女子学生が声をかけてきた。驚きのあまり目がぐるりと一周してしまう。女子学生も少なくはないが、今日まで話した人は殆どない。しかも、妙に馴れ馴れしい。

「誰?」

 私に話しかけてきそうな女子学生の候補者を何度も検索するが、その度に返ってくる答えは『該当データなし』である。

「えっ?」

 驚かれても困る。こんな事故に巻き込まれた私の方こそ驚いているのだ。

「なに? 音無し君と知り合いなの? 意外」

 教室にいた他の女子学生が割り込んできた。私を揶揄するする表現として『音無し君』という言葉が使われているのを薄々聞いてはいた。おとなしい性格と、物音を立てず静かであることを掛けた表現らしいが実にセンスがない。

「中学からのクラスメイトだよ。人に興味がなくて人の顔を覚えないのだよね」

 私に話しかけてきた女子学生は、周りの学生に向かって説明している。中学時代のクラスメイトと言われても覚えているはずもない。ただ、『他人に興味がない』という私の特性を知っている以上、中学のクラスメイトだというのは本当なのかもしれない。気が付くと、周囲には何人もの学生が集まってきている。

「お前、四大天使の顔を覚えていないはずないだろ」

 長谷川が驚きの声を上げている。彼は、チャラくいつも教室内で騒いでいる。数少ない友人に聞いた話では、早くもカースト最上位に立っているそうだ。そういえば、『同じクラスに美女が四人もいるのは、開校以来の奇跡だ』とも聞いていた気がする。その時は、興味もなく聞き流してしまったが悔やんでも仕方ない。

「お前は知っているよ。長谷川。いつも五月蝿いからな」

「なぜ俺の事は覚えていて、四大天使の名前は覚えてない?」 

「他人に興味はない。名前を覚えるのは親密な人か、余程インパクトがある人かだ。例えば、深雪さん。彼女はバイオリンで全国レベルの実力らしい」

「えっ? 私?」

「冬の天使は分かるのか。夏と秋の天使は?」

 お調子者の長谷川は、必要もないのに聞いてくる。

「普通わかるだろう」

「分からなかったら、やばいよね」

 騒ぎを聞きつけたクラスメイトが、興味津々の顔で、ぞろぞろと集まり人垣ができている。急に面倒くさい展開に巻き込まれ苦笑いをするしかない。人垣の外を見渡すと私が認識している少数の顔たち、つまり私と気が合う学生は何が起きているのだ? と、遠巻きに様子を窺っているようだ。

 高校に入学してこの一か月、私の周囲に人垣ができるのは初めてである。いや、人生で初と言った方が正確であるかもしれない。いずれにしても鬱陶しい。早く会話を終わらせて、いつもの静穏な環境に戻りたい。

「四大天使など知らない。クラスで名前を知る女子は他にいない」

 不毛な会話を終わらせるべく必要最小限の返答を返し立ち上がると、最初に話しかけた女子学生と目が合ってしまった。女子生徒は微かに微笑んでいる。その顔はどこか慣れ親しんだ表情である気もする。この女子生徒から、なぜか懐かしさを感じるのが不思議だ。

「それが答えで良い?」

「答えも何も、問題さえ出されていないけど?」

「じゃあ、約束は守ってくれるね?」

「何の話し?」

 問が無ければ答えようもない。そのうえ約束を守れって? 街を歩いていたら言いがかりをつけてくるチンピラに出会ってしまったかのようだ。

「私は、松本ひばり。思い出せたかな?」

 松本ひばり…… そう、確かに中学の同級生にいた。

 中学三年の時、突然一人の女子生徒に告白され、混乱した私は何も考えることなく『はい』と答えてしまった。その後、無事に卒業式を迎えると自然消滅できると安堵していたが……

 確か…… 彼女が同じ高校に合格したら、高校でも付き合う約束した気もする。しかし、約束したのは中学時代のセーラー服を着た中学生であって、高校のセーラー服を着た高校生ではない。つまり変装した彼女とは約束をしていない。

「久しぶりだな。君の点数では届かないと思っていたよ」

「貴方と違って、内申が良いので合格圏内でした」

「じゃあ、卒業式の約束って……」

「勝算のない賭けはしません」

 思わず彼女の言葉に絶句する。違法賭博のように初めから負けが決まっている賭けに参加させられてしまっていたのか……

「初めから勝敗が決まっている賭けなんて卑怯だし、すぐには気が付かないのも分かっていたよね。毎日会うわけじゃないんだし……」

「ブブ―― 。久しぶりではりません。同じクラスで、毎日のように会っています」

「だから、私は人の顔を覚えるのは苦手と何回も言ったよね。髪形や制服が変われば普通認識できないでしょ」

 人の顔なんてそう簡単に覚え続けられるものではないし、ましてや中学時代はポニーテールだったのに、今は結んでいない。

「髪型が変わったから? 制服が変わったら? 彼女の顔が分からない? おかしよね? 髪形や制服じゃなくて、私の顔を覚えてよ」

「え―― っ」

 周りの人垣が一斉に叫んでいる。風も吹いていないのに、ざわざわと騒々しい人垣だ。

「彼氏がいるとは聞いていたけど、ま・さ・か・の音無君?」

「趣味悪る……」

 突風が吹き抜けた木々のように人垣がざわめき、好き放題に吐かれる暴言にイライラとする。私はこの高校の中でも優秀な点数で合格していると思うし、顔だって悪くはないはずだ。運動神経と社交性は手の施しようはないが、文学や科学に関しては幅広い知識を持っている。それなのに、そこまで酷いことを言われるのか? 一体、彼らは人の価値基準を何にしているのであろうか?

「冷静に考えよ。制服や髪形は人を判断する上で重要な要素だ」

「道を覚えるとき、人や車を目印にする? 普通は建物や景色など刻々と変化しないものを目印にするでしょ! 服装も髪形も変わることがあるの! だから、顔を憶えてよ!」

 慈愛に満ちた表情が強烈な怒りに変わり、声からも怒りが感じられる。しかし、そこまで怒るほどのことか? それとも地雷を踏んでしまったのか?  

「顔を憶えるのが苦手で、服装を含めた全体の雰囲気は人を判別するのに重要な要素だと何回も伝えたよね?」

「言い訳はそれだけ? だから、卒業式での約束は反故に出来るとでも? 一か月。一か月も待ってあげたのよ。それなのに、あなたは私を認識しない」

「それって、僕が認識しないことを承知の上で一か月待ったんだよね?」

「そうよ。それが何か?」

「その約束って、私が勝てないことを知っていてしたんだよね?」

「それでも、すぐには無理でも一週間もすれば気付いてくれると思うじゃない? それなのに…… あまりに酷すぎませんか?」

 そう言われてしまうと、言い返す言葉も出てこない。

「兎に角、約束は守ってもらいます。そして罰ゲームとして『心の地図』を見つけるまで付き合ってもらいます」

 急に天使のような笑顔に戻ると不思議なことを言い始めたひばりに絶句してしまう。周りの人垣も呆然とし事態の推移を見守っている。

「何を言っているのだ? いつから不思議ちゃんになったんだ?」

 ついつい本音が出てしまうが、満面の笑みでたたずむひばりに、不気味さを感じてしまう。

 キンコンカンコーン・キンコンカンコーン

 タイミングを見計らったように、午後の授業開始のチャイムが鳴りはじめた。全員が自分の机へと戻り授業の準備を始める。そこは進学校の学生なので、授業と休み時間の切り替えは早い。突然、始まった喧騒が、チャイムによって終わりを告げられ胸をなでおろす。しかし、今まで満喫していた一人だけの高校生活から、青春と言う名の眩しい世界に強制連行されてしまいそうな一抹の不安を感じつつ意識を切り替えた。

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