明日への手紙
長良 圭太
第1話 プロローグ
誰も居ない山道を力なく歩きながら、あの日々を思い出す。「叩けよ されば開かれん」はキリスト教の教えだったか?
「世の中は嘘ばかり。いくら叩いても扉の向こうには進めない」
呪詛ごとく呟き続けている若者の中で我らは、ほくそ笑む。
『我らの扉を開け』
『我らの声を聞け』
『我らの元に来い』
将来に希望を抱き脇目も振らずに突き進む若者の苦悩は、我らにとって最高の御馳走だ。自分を信じ輝かしい将来を描く者たち。そんな奴らに抗う事すら許されぬ苦悩を与えれば、いともたやすく我らの糧となる。我らが巣くうこの若者だって例外ではない。平凡な家庭で純粋に育った若者の家庭を破壊し、苦学して合格した大学も中退に追い込んだ。 この純粋な若者は、汚れなき『黒』に染まり我らが繁栄する地となった。光のない深海に鮮やかな色などと必要ない。そもそも、色と我らとは折り合いなど付くはずもないのだ。だから黒く染まっても最高の棲み処とは言えない。『暗黒』こそ、我らが目指す最高峰だ。
『時が来た』
『ああ』
『仕上げの時』
我らはあと一歩のところで仕留め損ねた獲物を今日こそは仕留める。そのために時間をかけて若者を完全に支配してきた。時は今……
「闇」
若者は古い民家の前に辿り着いていた。冷たく降り続く雨が水滴を作り、庭木からポタポと落ちている。傘なんて持ち合わせていない。傘どころかスマホや家の鍵すらない。もう何もない。何も必要ない。
『人生には四季がある。冬の後には必ず春が来る』父親が口癖のように言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
「嘘じゃないか」
この人生に意味はあるのか?? どんなに努力しても、死ぬ思いで新たな人生の扉を開けても、抗うことすら許されぬ力が扉の外に追い出してしまう。そして全てが奪われてしまった。何度、冬を乗り越えようとしても春は来なかった。
「何もない」
春の到来を諦め、僅かな残光すら残されていない深淵に入り込んでいく日がどのくらい過ぎたろう。徐々に僕の全身を黒いものが覆っていく。別に覆われても問題ない。何もないのだから。そう。全てなくなってしまえばいい。そうすれば苦しむことはない。夢も希望も感情もなくせばいい。全てが解決するはずだ。
私を間もなく完全に包み込もうとするものが、数回だけ診察行ったあの医者の元へと向かわせるだけだ。もはや黒い者たちの操り人形として動くだけ。
『ガラッ ガラ』玄関の扉を誰かが力なく開けたようだ。扉の建付けが悪くいつもならもっと大きな開閉音がするのに、今日は弱々しい。これほどか細い音はいつ以来かも思い出せない。
「こんな日に患者さんかしら? 嫌だねぇ」
亡き伴侶へのために仏壇に手を合わせていたが、手のかかりそうな患者のために渋々腰を上げる。
ここは自宅を兼ねた元診療所。子供が故郷である岐阜市から巣立ったのを見届けると、大切な思い出の地に診療所を細々と開設した。本来は児童精神科を専門としているが、通院する子供たちが後ろ指を指されないようにと小児科の看板を掲げていた。喜寿を迎えた今年、体力の限界を感じたので看板を下ろした。それでも通ってくる子供たちのために相談所として使っている。
外に目を向けると、まだ昼下がりなのに早くも陽が落ちたかのように薄暗くなっている。空は全ての憂いが決壊したかのような厚くどす黒い雲が天を覆い、吹き荒れる風雨は何物も干渉させないかのように縦横無尽に舞い踊っている。無数の太く激しい稲妻は侵入者を殺戮しつくすかのように轟音を響き渡らせながら一帯を切り刻んでいる。
「体調が悪いのに……」
持病の影響かだろうか、体がひどく重く感じ思わず愚痴が出てしまう。今日は相談に十分に応えられるだろうかと一抹の不安が過る。ゆっくりと歩を進め、廊下に出ると鼓動が恐ろしい勢いで走りはじめた。入り口から伝わってくる異様な気配。どす黒い雲が、侵入してきたかのような重苦しい感じに一度だけ『心臓がドンッと大きく鼓動』する。
人生の中でも格別に嫌な予感がする。
そう、あの時の
二度と経験したくないあの感じ
そう、決して忘れられない
恐怖
苦悩
そして
絶望
「勘違いに違いない」
そう、自分自身に言い聞かせながら、パニックになりつつある心臓を落ち着かせようとする。しかし、私の意思とは裏腹に鼓動の勢いは際限なく加速し、両足は床に吸い付けられたように重く地を這うよう速度しか出せない。
やはり、間違いない
この感じは……
『黒』
二度と対峙しなくない相手
『逃げろ』と告げる本能を辛うじて押さえつけ、やっとの思いで暗い入り口に辿りつく。そこには、背後から差し込む雷光によって影絵のように映し出された人影が、だらしなく両手をぶら下げながら立ちすくんでいた。人影がポタポタと滴り落ちているのは水滴であろうか? 水滴と共に陰鬱な気配を零れ落ちているかのように、締め付けられるかのような思い気配が充満しつつある。これが瘴気なのであろうか? 人影だけでは、性別も定かではないが十~二十代のように見える。
「さあ、これで体を拭いて。寒くないかい?」
「……」
若者に近づくと首からタオルを取り外し若者に差し出すが、長年の感で反応が返って来るとは思っていない。
「大丈夫?」
「……」
時折、差し込んでくる稲光でわずかに顔が見えると、私の記憶が呼び戻された。この子の顔は覚えている。長い医師としての人生の中で忘れられない子。やはり、立ち直るのは難しかったのね。でも、この子の性格からして必死になって、幾度となく立ち上がろうとしては転び続けたのが想像できるわ。辛かっただろうに。
「とりあえず。体を拭こうかね」
「……」
それでも声を掛け続けるが、影は微動だにしない。珍しいね。黒一色じゃないか。赤すら連れてきていない。
『お前が会いに来ないから、待ちくたびれたぞ。このまま死なれては、つまらない。もう一度我らと戯れようぞ』
若者、いや若者から漂う瘴気から不快なうめき声が滲み出てくるかのようだ。若者に巣くう黒たちが話しかけてきているのだ。久しぶりに聞かされる黒たちの音のない声。魂にべっとりとへばり付く不快な音のない声。容赦ない狩人のように獰猛な歓喜に満ち溢れている。私も若かりし頃、黒たちに無残に切り刻まれた。あの時のことは今でも鮮明に憶えている。既に過去の出来事と思っていたのだが……
『扉を開けろ』
黒の中でも最も残虐な者たちが訪れてきてしまった以上、逃れる術はないことなど嫌なほど知っている。『扉を開けろ』とは、あの悲劇に再び耐えてみせろと言うことか。『助けて』の一言さえ発することが出来ない若者が、ともに過去の世界に入り込んで耐えられるか心配であるが他に手段はない。精神を集中すると、全体が錆び付き赤茶けた扉。何十年も放棄された要塞のような扉が眼前に浮かび上がってくる。
扉の前にゆっくりと歩み出ると、ズボンのポケットから黄色と緑色のフェルトで作られた袋を取り出す。中から丸い二つの水晶を取り出した。屋外の天候とは対照的に傷が一つもなく美しく澄んだ水晶は、窓から侵入してくる雷光に反応し光り輝いている。私は手のひらで二つの水晶を握り転がすと、カチッ・カチッ・カチッ… とぶつかり合う度に乾いた音が響き渡る。天に召され、貴方に再会するまで決して開けないと決めた扉。しかし、今はやむを得ない。私は意を決すると、二つの水晶を差し出すように右腕を伸ばし握りしめた手のひらを開く。
「明日への手紙」
私たちの合言葉を口にした瞬間、扉の封印を解き放つかのように一筋の稲妻が轟音を伴って駆け抜けると、一度だけ心臓がドンッと大きく鼓動する。室内に差し込んだ稲光が、水晶に吸い込まれ眩い光りのヴェールを織りなす。その光りで目が眩み視界が失われる。視界が戻るまで十数秒だろうか、少しずつ世界が戻ってきた。すると蝶番についた錆が太く低い音を軋ませながらゆっくりと扉が開き始めている。扉の隙間からは暖かい春風が吹き抜けている。
扉が完全に開き終えると、一羽の小鳥が扉の中へと羽ばたいていった。
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