第3話 対

(影)


『明日への手紙』そう口にした井上看護師長の言葉に耳を疑う。

「なぜ、その合言葉を知っているのでしょうか? 私たちにとって大切な秘密を……」

 高校時代から十数年もの間、心の奥底にしまい込んだ言葉。軽々しく口にしてはならない言葉。そして、私たちだけの言葉をなぜ知っているのか? もしかすると、いや間違えなく谷川先生も知っていたのか? 普段から感情を表に出さないよう努めているが、驚愕と怒りが決壊し全身から溢れ出てしまう。

 一方で二人だけの合言葉とはいえ、どんな意味があるのか? その答えは見出せていなかった。ただ、彼女が大切な言葉として残していった言葉。それを思い返す度に決して忘れえぬ日々が蘇る。

「ひばりさんにお願いされたからだ。彼女の主治医は私だった。村上は担当看護師だった」

「先生がひばりの主治医? なぜ、今まで話してくれなかったのですか! 私が…… どれだけ苦しみ、悩みぬいたこの十数年は、何だったのだ!」

 幾度となく思い出される、ひばりの瞳、微笑み、そしてあの声。

「君が苦しんでいたその時間は、私たちには関係ない。ただ私たちは、患者の依頼を果たす時を待っていた。ただ、それだけの事だ。依頼内容は、ここに書いてある」

 私の気持ちなと関係ないと言わんばかりに淡々と谷川先生は、すり切れた手紙を白衣のポケットから取り出すと私に手渡した。


「信頼する谷川先生へ

 担当看護師の村上さんにある物を渡しました。ある人が、ある条件に達した時、看護師の村上さんに、この人だと伝えてください。

ある人の条件

 ・この病院に勤務する心臓外科か循環器内科の医師であること

 ・人の顔をなかなか覚えられない人であること

 ・二つの水晶を持っていること

達成条件

 ・その人が結婚をする時。または、その人の三十歳の誕生日の前日(2019年7月5日金曜日)に、一人前の医師であること

約束を破棄する条件

 ・その人が指定する条件に達しえなかった時」


 そして、最後にひばりの名前と小鳥のマークが書いてある。小鳥のマークは、トレードマークのようにひばりが書いた手紙にはいつも書いてあった。

「私は彼女に言ったね。この約束は受けられない。もしその人が医師になったとしても、数ある専門の中で心臓外科や循環器を選ぶとは思えない。さらに、医師が勤務する病院は医局が決めるので、この病院に来る可能性は極めて少ない。だから、約束はできないと伝えた。そしたら、彼女は私に素敵な笑顔で言うのだよ。『必ずその人は、現れるから大丈夫。心配しないで』と。容体も悪かったので仕方なく受けた」

「私はこんな先生とは違います。彼女のひたむきな姿勢に心が動かされたのです」

 井上看護師長も手紙をポケットから取り出すと見せてくれた。


「村上さんへ

 本当に自分勝手とは思いますが、お願いがあります。谷川先生が、この人だと伝えに来る時が来ます。その医師と共に、その人へ『明日への手紙』と伝えてください。そして、私の金庫をその人の誕生日に渡してください。

 その人は、私の大切な人。どうしても渡さなければならない人。カギは、本人が持っています。

 追伸

 豪快な谷川先生の性格からして忘れてしまう可能性があります。

 2019年7月5日金曜日に谷川先生が何も伝えてこない時は確認をお願いします」


 この手紙にも、ひばりの名前と小鳥のマークが描かれている。

「大切な預かりものをお渡しします」

 看護師長は、ロッカーを開けて手提げ金庫を取り出した。光沢の失われた金属の表面が十数年という年月を物語っている。ナースステーションの金庫の中でひっそりと待っていたせいか、よく見ると所々に錆も浮いている。私は金庫を慎重に受け取ると、

「この金庫の中には何が?」

 二人に尋ねるが無言のまま首を横に振っている。私は震える手でキーケースをズボンのポケットから取り出し見つめる。これは、ひばりから預かったカギだ。そう、ひばりは私に伝えていた。

「『明日への手紙』は私たちの合言葉。貴方がこの言葉に出会った時、この鍵の対となる物が現れる。そして扉の向こうに放たれる」

 この十数年、この鍵を持ち歩き対となる鍵穴を探し回ったが、どの鍵穴も決して対となることはなかった。まさか対となる鍵穴を井上看護師長が持っているとは夢にも思わなかった。ひばりは時が来るまでは絶対に見つからない場所。そして、時が満ちると自然に現れるように仕組んだのだ。ひばりが亡くなってから十数年経過した今でも、相変わらず手のひらで転がされているなと力なく笑い頭をかくしかない。

 そんな事よりも、今はひばりとの繋がりを確認するのが重要だと気を取り直し震える手で鍵を差し込む。十数年開けられていないため、錆びて回らないか不安に駆られつつ慎重に鍵を回す。『カシャン』と音を立てながら、思いのほか簡単にロックは解除された。ようやくこの鍵の意味が。そして、これ程の手間をかけてまで伝えたかった思いを込めた扉が、今開かれるのだ。


(光)


「おかえりなさい。お茶にしましょう」

 『クイズ研究部』通称クイ研のドアを開けると微笑みながら駆け寄り、ひばりは私の手を引く。毎日繰り返されるお茶会への参加命令だ。強烈な個性を持った学生が多い大縄場高校の中でもその精鋭が集結する部活である。いわゆる『マニアの巣窟』であり誰しもが軽々しく近づける場所ではない。そんなクイ研に突然ひばりが入部した時は学校中大騒ぎになったらしい。

 それまで、他の部員より早く部室に入り部室の床で問題集を枕にして仮眠をするのを日課としていた日々は既に二週間も前に終わりが告げられた。枕にする問題集には高さや固さ、そしてフィット感に違いがあり、快眠を得るために厳選されたお気に入りの枕も既に埃を被り始めている。

 しかし、これほど多くの部員が来ていることなど二週間前までは見たことがない。部活前に行われはじめたお茶会では中心には必ずひばりがいる。人を引き付ける天才的な才能は強烈な個性を持つ我々にも遺憾なく発揮されているようだ。生き生きとした様子でおしゃべりに花が咲いている。お茶会に参加するのは、抵抗していたが最近では抵抗することを諦めてしまった。抵抗しても、ひばりの強引さに負けて結局は輪の中に座る羽目になる。それならば、抵抗して他の部員に茶化されるのを避けた方が得だ。「ああ、分かったよ」

「ただいまでしょ?」

 いつの間にかクイ研でのあいさつは、入室する際は『ただいま』と言い、『おかえり』と全員が答えるのが習慣になっている。ひばりに手を引かれながら輪に近寄ると、自然と私のスペースが生まれる。ひばりは、完全に私の学校生活の全てに入り込んでしまっている。まるで、満員の列車の中でも必ず傍らに乗車している感じだ。そして、ひばりの左隣は私の指定席のようになっている。

「今日は、チョコレート持ってきたの。食べる?」

 私好みの甘さ控えめでビターなチョコレートの包装紙を剥いている。

「ありがとう」

「チョコレート好きだよね。嫌いなお菓子だと絶対に口にしないのに」

「脳が疲れた時に効果的だ。ポリフェノールが含まれているし、下手な菓子より添加物が少ない気がする」

 そもそも高校にお菓子を持ってきて良いのだろうか? 素朴な疑問が浮かび口にしそうになるが、今さら言える雰囲気ではないので止めておこう。

「今日は、どんな本を読んでいたの?」

「歴史小説だよ」

「なんかいつも、歴史小説か推理小説、科学関係ばかりだよね。もっと世界を広げようよ。私が選んであげようか? 恋愛ものなんてどう?」

「なんかカップルと言うより、親子みたい」

 他人から見たら、ひばりは慈愛を浮かべながら我が子の面倒をみる母に見えているのであろうか? 

「そんなことないよ。私たちカップルだもんね」

 腕を取り組んでくる。私は、恥ずかしさのあまり、パニックになり顔が真っ赤になる。

「かわいい」

 悪戯っ子の顔に変わり、私のホッペタを指先でつついて反応を楽しんでいるようだ。

「とにかく、本は自分で選ぶから本なのだ。人に読まされるのは本ではない」

 恥ずかしさのあまりに、慌てて話題をかえる。

「そう? 人から勧められた本でも、本は本だよ」

「いや、本はやっぱり自分で選ぶから良いのだよ」

 ひばりの反論に男性部員が話題に乗ってくれた。思わず心の中でガッツポーズをとる。

「いやいや、人から勧められて初めて出会える世界の本もあるし……」

 今日の話題は、本の選び方となり盛り上がりを見せる。やっと、茶化されるのも終わったと思い組まれた腕をそっと解く。ひばりは、少し不満そうな顔をしつつ腕を戻した。


 このお茶会では、たわいもない話が中心となる。先生が何を言っただの、誰と誰が付き合い始めただの。時には全員で、時にはいくつかの小グループに分かれて話が進んでいく。気が付くと会話は融合や分離を繰り返し、変幻自在にその姿を変えている。変化しないのは、常にみんなが笑っていること。そしてひばりが中心にいることか。

 私にとって、この変幻自在な会話の難易度はとても高い。目まぐるしく変化する会話の内容に、どうしたら付いていけるのか? 他にも同様に会話についていけない学生が数名いるが、ひばりは上手に手を差し伸べて上手く取り込んでしまう。まあ、最も手を差し伸べられる回数が多いのは私のような気もする。

 十五分程度のお茶会の後のクイズの練習が始まると、ひばりは色々な部員に勉強を教えてもらっている。強烈な個性の持ち主が集結したクイ研の部員は、なぜか成績優秀者の学生が多い。合計点はトップでなくても特定の教科では、ずば抜けて成績が良い学生もいる。

「ねえ、地理のここ教えて」

 今もひばりは、暇そうな部員を捕まえて教わっている。最初は『ここは予備校ではない』と注意をしていたが、誰もひばりが質問紙にしに来ても嫌な素振りを見せないので放置することにした。最初は、ひばりだけが聞いていたが徐々に真似する部員が増えてきている。ただ、唯一のマナーは、先輩から定期テストの過去問を聞き出さないことだ。 そういえば、もうすぐ中間テストが近い。だから、みんな頑張っているだけなのかもしれない。

「ねえ、今度はあなたの番。私に数学を教えて」

 いつの間にか、ひばりは私の傍へ帰ってきていた。

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