第5話 行き先のない表示板

(影)


「そういえば、ひばりさんは言っていたな。この手紙を渡す人に休みを与えてほしいと」

 瞑っていた目を開くと、谷川先生は話し始めた。

「今日は金曜日だ。週末は休みなさい。土曜日は、先生が救急対応になっているが、私が代行しよう。村上、手続きしといて」

「はい。わかりました」

「その前に。少し話をしようか。例の看護師は待たせてあるか? ここに呼んで」

 井上看護師長は院内PHSで、誰かに電話をかける。

「今からスタッフルームに来てくれるかしら?」

 電話が終わると、休憩室は静寂に包まれる。探し続けたひばりの痕跡に出会えたのに、何故に理路整然と質問ができないのか? と自分の不甲斐なさにイライラとする。そう考えていると休憩室の扉が『コンコン』とノックされた。

「どうぞ」

 ドアを開けると、井上看護師長は三名の看護師を招き入れた。

「谷川先生、何がしたいのです?」

「彼女たちの名前はわかりますか?」

 井上看護師長の問いには答えられるはずもない。何十人も配置されている看護師の名前など覚えるのは不可能だ。さらに半年に一回は定期異動で入れ替わり入退職も多いのだ。そして、一刻も早くひばりの指定した懐かしい匂いがするであろう場所。そして、あの日々へ旅立つ準備を今すぐにでもしたいのに、この茶番は苛立たしい。しかし、谷川先生は何かをまだ隠しているかもしれない。それを聞き出すには、例え茶番だとしても可能な限り丁重に対応しなければならない。

「申し訳ないですが、存じ上げません」

「やっぱりな。じゃあ、例の件をよろしく」

 谷川先生は、部屋に入ってきた三名の看護師に何かをお願いしている。

「本当にするのですか? この年ですよ。恥ずかしいのに」

 三名の看護師の中の一名が、本当に嫌そうに答えている。そんなに嫌ならやらなくてもいいと、思わず口から出そうになる。

「申し訳ないが協力してくれませんか?」

「わかりました」

 井上看護師長は再度お願いしすると三人の看護師を伴って部屋から出て行ってしまった。谷川先生は、また腕組みをして目を閉じている。話しかけるなと言わんばかりのオーラである。今は、ひばりが伝えたかった意味だけを今は考えていたいのに…… 

「おまたせ~~」

 異常にテンションが高い。休憩室に入ってきた四人組の女性は先ほどまでの、遅々として進まない静寂を打ち破る。先頭に入ってきた声は…… 井上看護師長? 声は井上看護師長だ。本当に井上看護師長がセーラー服を着ているのか? 

「何をやっているのですか? いくら何でも無理がありすぎる」

 流石の私でも、ここまで来ると冷静さを保てない。それどころか寒気すら走ってくる。

「明日は、先生の誕生日と聞いたから、サービス❤ サービス❤」

 忘年会などで酔っぱらうと迷惑なほどに陽気な人格に変わり、この程度の悪乗りなど平気でするのは知っているが…… 流石に素面では恥ずかしいのか? 顔が紅潮している。

「ほほ―― 。村上以外は良いな。是非、近くで……」

 適切な表現を言い終わる前に、谷川先生は井上看護師長から左フックを後頭部に入れられて呻いている。看護師長が診療部長を殴る光景は、なかなか観賞できない珍事であろう。

「それより本題です。私たちは、だ・あ・れ?」

 相変わらず若作りした気持ち悪い声の井上看護師長は尋ねてくる。怖いもの見たさで井上看護師長へ視線がついつい行ってしまいがちだが他にも三人の女性がいる。セーラーが一人にブレザーが二人である。よく見るとセーラー服は大縄場高校の制服だ。それぞれが、自前の衣装を持ってきたということか? 髪の毛はポニーテールに統一されている。年は全員二十代だろうか?

「先生。私は?」

 井上看護師長の横にいる女性が自身の顔を指さしながら聞く。三人の顔を順番にまじまじと見るが、知らない女性の顔を覗き込んでも名前など出てくるはずがない。

「きゃっ、恥ずかしい。そんなに近寄って見ないで❤」

 二番目の女性は、意外と楽しんでいるようだ。

「当然わかるでしょ。先生」

 対照的に三番目の女性は、酷く冷めた声で私を問い詰めている。

「多分、看護師さんです」

「そりゃそうよ。だから名前を、お・し・え・て」

 相変わらず気色悪い井上看護師長に、聞かれるが、

「申し訳ないですが、若い方の名前はわかりません」

 正直、看護師に興味はないと言いたいところであるが、谷川先生の二の舞とならないためには堪えるしかない。

「一人もわかりませんか?」

 井上看護師長は確認してくるが、『何回も同じことを言わせないでほしい』と漏れそうになる。私からすれば師長の顔さえわかれば業務に支障はないのだ。

「と言うか、谷川先生。なんの罰ゲームですか? これは」

「村上以外、罰ゲームの光景では……」

 再び井上看護師長の拳が谷川先生の後頭部にクリーンヒットしている。学習能力のない谷川先生も悪いが医師を何度もぶん殴るなんて、我ながら酷い労働環境の病院に勤めているものだ。

「髪をほどいて、お色気を出しましょう。今日は何としてもこの先生に私たちの顔を覚えてもらいますよ」

 井上看護師長の掛け声で三人が髪を解くと、見慣れた顔があるような気がする。思わず両目を大きく見開き、顔を近づけながら観察してしまう。いや待て、気のせいではない。私の記憶が徐々に蘇ってくる。

「ちょっと待って、君は…… 年を…… 大分取ったけど紅里か? ひばりの親友の?」

 半信半疑ながらも聞く。しかし、私の知っている吉川 紅里がこんな場所に現れるはずがない。ここは、病院でもスタッフしか入れない場所である。

「はぁ…… 相変わらず失礼ね。一言目が年を取ったって。やっと気が付いた? 本当に顔を覚えないのね」

 紅里はひどく失望の色が濃く混ざった感じのため息をついている。

「これで、分かるでしょう?」

 首に付けていたペンダントの装飾部位を、セーラー服の内側から取り出した。ひばりにプレゼントした小鳥の形をした水晶のペンダント。決して忘れることのないペンダントだ。よく見ると、十数年前より成熟しているが、確かに紅里の顔に見えてくる。高校時代と異なるのは、化粧をしていることくらいか。

「ひばりに贈ったペンダントを、何故持っている?」

「お葬式の後で、ひばりの両親から預かったの。入院中に私に渡すよう何回も言っていたらしいわ」

「ありがとう。もういいよ」

 谷川先生は私たちの会話を遮ると、紅里たちは立ち去っていく。ナースステーションの方からは、

「きゃ―― 可愛い」

 看護師同士の声が響き渡り、女子高生のごとく盛り上がっているようだ。井上看護師長は、着替え終わらせると早々に部屋に戻ってきている。

「さて、先生への診断は、軽度の相貌失認だ」

「でも、高校時代の同級生は分かりましたよ。相貌失認は詳しくありませんが、人の顔が全く認識できないはずです」

「だから、軽度の相貌失認だ。高校時代の制服で髪形も戻した吉川を認識できたのに、看護師の吉川は認識できていなかったのが、その証拠だ」

「しかし、彼女と病棟で会話したことはないですよ」

「今日、手術後の病状説明に両親が待っていると急かしたのが吉川だ」

 そう言われると、私は何も言い返せない。

「さて、今日の夜は、長くなるな。ゆっくりと語ろうか。ひばりさんのこと。彼女の親友の吉川も希望すれば連れてきて。私たちには必要があるようだ。全てを語る必要が」

「わかりました」

 紅里を呼びに井上看護師長は部屋を出ていった。


(光)


「お前、何やっているのだ?」

 ふと話しかけられたので声の主を探すと、担任の先生が仁王立ちしている。

「明日の道具の手入れですが? 何か?」

 夏休みの直前に学校行事として林間学校がある。今はバーベキューの後片付けも終わり、就寝までは自由時間を利用して、明日の登山の準備を念入りに行っていたところだ。拓かれた山道を登るため、成果はあまり期待できないが、私なら鉱物を一つや二つ発見できる自信はある。

「だから、手に持っている物は何だ?」

「ああ、これですか? ハンマーとタガネです。このハンマーは良い物なのですよ。柄から頭まで金属で一体となっているので、絶対に頭が抜けないのです」

「だ・か・ら! なぜそんな物が必要なのだ?」

 その声には何故か怒気が含まれている気がする。阿吽の呼吸のように、寸分の狂いもなく正確な返答を返したはずだ。そもそも必要性なんて聞かれていないと思う…… 

「明日の登山で、機会があれば鉱物を採るからです。安心してください。勝手に班から離れたりはしませんから」

「そんな危険な物は没収する」

 一方的にそう宣言し、担任が伸ばした手を遮る。

「持ち物リストになかったので、グレーかな? と思っていましたので没収は認めます。しかし、丁重に扱ってほしいのでタオルで巻いてからお渡ししますね」

「そんな危険な物、ブラックに決まっとるだろうが!」

 丁寧に対応したつもりだったが、何か癪に障ったのだろうか? 先生は叫んで、タオルにまかれたハンマーとタガネを掴み取ると持って行ってしまった。先生が立ち去った事を確認すると、同じ班の男子学生が近寄ってきた。

「岩石に興味があるの?」

「ああ、鉱物が好きでね。化石も少しだけやるよ」

 問いかけてきた男子学生は、全身が日焼けしている。運動系の部活だろうか? 体つきもがっしりとしている。

「俺の名前は知っている?」

「悪いが知らない」

 安心安全の定型文を返す。下手に知ったかぶりをすると、後々に大変な事になる。

「俺は大霜。俺も石が好きでね。鉱物から宝石まで一通り集めているよ」

 その刹那、私の右手は彼の手を握りしめる。

「同志よ。語り合おう。ロマンあふれる鉱物の世界を!」

 その夜は、大霜と語り合った、めくるめく鉱物の世界を……


 翌日の朝、出発の前に担任に呼ばれた。

「お前は、今日の登山は連れていけない」

「分かりました。その間、何をしていればいいですか?」

「いやっ、何としても連れて行って! とは言わないの?」

「鉱物採集ができない登山に価値はありません」

 鉱物を採るチャンスのない登山など体力の無駄である。私の揺らがない思いが理解できないのか担任は拍子抜けしているようだ。

「そうか……  松本も体調が良くないから登山はしない。お前ら仲がいいだろ。二人でその間、話しでもしていろ。校長先生も残るから困ったら相談するように」

 担任にそう言われると解放された。しかし、ひばりと話をしていろと言われても…… 大抵の場合、話しているのは私ではないので、どうすれば良いのか困ってしまう。しかし、残るのがひばりで良かったとも思うが、逃亡させないためにひばりを選んだのか? それはさすがに邪推だと即座に思い直した。


 出発時間になるとひばりと二人で登山に向かう学生たちを見送る。見送られる学生達の反応は様々だ。割合的には、嫌々出発する学生の方が多いようだ。進学校に運動嫌いの学生が多いのは不思議ではない。

 順番に出発する学生の中に大霜を見つけると、鉱物が見つかったら採取してきてくれ! と固い握手をしていると、

「いい加減にしろと!」

 先生に大霜と二人でゲンコツを喰らい、みんなの笑い物となってしまった。


 全ての班の出発を見送るとすることがない。辺りは山しかないのだ。林間学校なので本も持ってきていない。そんな私たちは校長先生に呼ばれた。

「居残り組さんは君たちだね。登山から帰ってくるのは五時間後。何もしないには長すぎる時間だ。毎年何名かは、体調不良などで居残るのでプリントが準備してあります」

 校長先生は、カバンの中から分厚いプリント集を出してくる。パラパラっと手に取って見ると、数学と物理のプリントばかりである。他にすることもないので、プリントに取り組むのも悪くないか。そう思いひばりの様子を確認すると、あからさまに嫌そうに沈んでいる。

「まさかの、プリント…… しかも、数学、物理…… 」

「そういえば、昨晩の一件は聞いているよ。実は私も石が好きでね。大学のころは、全国の山々に鉱物採取に出かけたものだよ」

 思いもよらないタイミングで目の前にぶら下げられたチャンスに私の目が輝く。全国の鉱物採取の場所やポイントなどを情報交換するには絶好の機会だ。そう考えると、急にプリントに取り組むのは億劫になってくる。

「そういえば、君たちは付き合っているらしいね。昨晩の会議でこの二人を残したら事故が起きるのではないかと話し合ったよ」

「事故なんか起きませんけどね」

 校長先生にサラリと答えている横で、明らかにひばりは不満そうな顔をしている。

「そこでだ。私と石のロマンを語るか? 二人で愛のメロディーを歌うか選びなさい」

「愛のメロディーを選びます」

 何の相談もなく、ひばりは勝手に答えてしまっている。愛のメロディーなどと訳も分からないものよりも、校長先生と鉱物について語りたい……

「それでは、約束は三つ。過ちを犯さないこと。四時間後には戻ってくること。半径百メートル以上離れないこと。あと、私のスマホを持って行ってね。昼ご飯の準備できたら電話するから」

 軽い。この校長先生軽い! 綿あめのようにふわふわと。そして甘い。いつもの威厳が消失し好きにしていいよ! と豹変した校長先生に付いていけない。

「分かりました。私が約束を守ります」

 驚きのあまり返事を考えているうちに、ひばりは校長先生に答えると一人で出て行ってしまった。

「君も早く行きなさい」

校長先生は優しく語り掛ける。先ほどまでの軽さはなく落ち着いた声色となっている。校長先生は、一体幾つの顔を持っているのだろう? と疑問に感じつつ、一礼をするとひばりの後を追いかけた。


 屋外に出ると、山々に照り付ける陽射しさが眩しい。雨の気配はなく遠くの山々まで見渡せる。景色が良い場所でも探そうかと散策に出ることにした。標高が高い分気温は市内より厳しくはないがそれでも暑い。立っているだけで汗がジトリと出てくる。汗を吸った服が肌にまとわり付き余計に暑さが増してくる。

 しゃべりながら散策をしていると、ひばりの顔からは笑顔が消えてきた。体調が良くなかったことを思い出す。

「どこか、日陰を探そうか」

「そうね。少し疲れたわ」

 昨日の自由時間に見つけてあった沢の方なら木陰があったのを思い出し方向を変えた。沢まではそんなに遠くはないはずだ。

 沢まで歩くと思ったより水の流れは細く、せせらぎと言った方が正しいのかもしれない。両側は斜面に挟まれ、谷間を縫うように蛇行をしながら流れている。さらさらと音を出しながらの流れる姿は、心なしか涼を与えていてくれる。せせらぎで熱気を洗い流されながら吹き抜ける風は、時折舞い落ちる木々の葉を巻き込みながら麓から山頂に駆け上がっていく。ひばりは、しゃがむと両手を伸ばし水に浸している。

「冷たくて、気持ちいい」

 私も水をすくうと、その冷たさが心地よく頭と顔にじゃばじゃばと水をかける。火照った体を冷やし潤してくれて気持ちいい。ハンカチを持って来なかったので、犬のようにブルブルと頭を振って水を切る。

「使って」

 横から、ひばりが貸してくれたハンドタオルで顔を拭く。

「やってみたら。気持ちいいよ」

 流石に私と違い、顔をジャブジャブと洗うのは気が引けるのか、ハンドタオルを濡らして首を冷やしている。

「気持ちいいね」

 少し奥の日陰には膝の高さ位の岩がある。二人で腰を掛けるには丁度いい大きさである。

「あそこに座ろうか」

「そうね」

 ひばりが答えると二人で岩へと歩く。登山用に持ってきた携帯用の虫よけのスイッチを入れると腰を掛けた。

「体調はどう?」

「大丈夫。少し休めば回復するわ」

「そう。それならば良かった」

「それよりも、散策していた時、会話より石探しに意識が行っていたでしょう」

 ひばりの言葉に、ドキッとする。バレていたのか…… 

「そんな事ないよ。それよりも、校長先生、軽かったね。でも、優しさがあった」

「なぜ、あんなに軽かったか分かる?」

 元々の性格なのだろうか? と思うが、そんなはずはない。

「それはね。私たち二人が、短いながらも学校生活の中で得た信頼。きっと、昨日の夜に担任の先生たちに、私たちの生活態度などを詳しく聞いていたはずよ。そして、校長先生が長い教員生活の中で培ってきた学生を信用できる強さだと思う。貴方は無条件に人を信じられる? 私には、まだ難しいわ」

「無理だな。一生できないかもしれない」

 人と関わらないように生きてきた私に、多くの人間を信頼する必要性なんて一度もなかった。

「そうね。でも、何時かそうなってほしいな」

「それよりね。あ・な・た。石のロマンを語るか? と言われた時、喰いついていたでしょう」

 笑ってはいるが、意地悪モードに変化してきている。そうか、ここで詰問するためにさっき話題を変えたことを何も言わなかったのか…… 言い訳は難しそうだ。

「それは…… はい」

 確かに校長先生の言葉に、簡単に喰らいついてしまった。朝日と共にお腹を空かせた魚が、いとも簡単にルアーに食らいつくように完全に針を飲み込もうとしていた。

「罰として名前で呼んで。さん付けや二人称は禁止」

 そう言うと人差し指で私の額をつつく。

「それって、論理展開に無理がない? 罰ではなくて、単なる希望だよね?」

「それがなにか?」

「はい。問題ありません」

 どうやら私には、抗議する余地はないようだ。世の中の男性はこうやって、尻に敷かれていくのかもしれない。

「大丈夫。クラスメイト全員の前で、言えたのだから」

 あの時は、追い詰められて思わず言ってしまったけど、それとこれは話が違う。少なくとも今は、あの時と同じ状況ではない。

「目を見て、大きな声で」

 ひばりは、私の恥ずかしさなど関係ないと言わんばかりに、迫ってくる。考えを改めよう。私は尻に敷かれていくのではない。既に敷かれているのだ。もう、どうにでもなれ! と私は腹をくくる。

「ひばりっ」

 声を振り絞る。

「嬉しい。あの時、初めて名前で呼ばれて嬉しかったの」

「……」

 ひばりは、私に抱きつき、爪先立ちで私の元に寄り掛かると、耳元で囁いた。私は、どうすれば良いのか分からず動けない。このような場合のマニュアルは、一生私には手に入らないかもしれない。

「おっと、私も校長先生との約束は守らなきゃ。不純異性交遊は禁止。でも…… あと、ちょっとだけ」

 ひばりに抱きつかれ、柔らかい肌の感触が伝わってくる。恥ずかしさと嬉しさが交差し複雑な思いだ。やはり、他人に興味ない私でも、男としての本能があるのであろうか。他の女性だったらどんな反応を示すのか? やはり、多少は嬉しく感じてしまうのか。それとも、拒絶してしまうのであろうか。

「おしまい」

 そんな事を考えていると、ひばりは私から離れてしまう。

「私ね、小学生の頃まで、名古屋に住んでいたの。お父さんは、岐阜市内の銀行に勤めていたから通勤しやすいようにと引っ越してきたの。名古屋から岐阜までに二十分で行けるのにね」

「そうだったんだ。知らなかったよ」

「小さい頃、病気になって手術したせいか、家の中で遊んでばかりいた」

 先ほどまでの意地悪モードから打って変わり、過去を語り始めたひばりは何を伝えようとしているのだろうか。小説では過去の吐露の後は必ずと言っていい程バッドイベントが到来する。このまま聞き続けて良いのか?

「小学生の私には、引っ越しがとても嫌だった。友達と別れ離れになることが嫌だった。今になって考えると、もっと外で遊んで元気になって欲しかったのだろうな。通勤に便利というのは、後付けの理由なのだろうなって、最近になって分かってきた」

「そうか。そんなに大変だったのか……」

「私なら…… 大丈夫。私たちなら…… 決めました。貴方との約束守ります」

 ひばりは、真っすぐな視線で私を見つめる。既に話題をすり替える事は不可能か……

「私の心臓は、あと一年持ちません」

「何を言っているのだ?」

「私の心臓は弱っています。移植待ちですが、多分ドナーは現れません。長くても一年。今この瞬間にも、心臓が止まることもあり得ます」

「ドナーが現れるまで、寿命を延ばせないの? 方法はないの?」

「無理よ。これは、神様が決めたこと」

 ひばりの宣告に、太い棍棒で殴られたかのような、体の芯まで届き渡る衝撃を受ける。予想通りの、いや予想を大幅に超えている。思考が混乱し、視界が真っ暗になる。まず何を聞けばいいのか?高校入学時には、ひばりを認識できなかったが、それでも、今の私にとっての高校生活の一部となってきている。だから、そんな事は認められない。ひばりが、突然消えるなんて考えた事もないし、想像もできない。どうしたらいいのだ?

 ひばりは、再び私を抱きしめ、耳元で囁いた。目の前が黒水晶のように暗く曇り、先が見えなくなってしまっている。

「だからね。毎日を大切に生きているの。せっかく生きているのだから、明るく、楽しく、心豊かに、充実した生活を送りたい。そして、死ぬときは、笑顔でこう言いたい。とても幸せだったと」

 ひばりは、私に語り続けているような口調で話すが、自分自身に語り掛けているようにも感じられる。いつの間にか、私の目からは涙が落ちている。最後に泣いたのはいつだろうか? 遥か遠い昔のことだ。

「でも、どうして? 神様は?」

「ごめんね。こんなことに貴方を巻き込むつもりはなかった。最近、調子が悪いなと思ってはいたけど、こんなに進んでいるとは思わなかった。先生から宣告されたのは、ほんの数日前。誰よりも傷つきやすい、貴方を傷つけてしまって本当にごめんなさい」

「ごめん。本当にどう表現すれば良いのか分からない」

「大丈夫。私は、貴方の気持ち全て分かっているから」

「でも……」

「大丈夫。分かっているから……」

 私もひばりの背中に手を回し抱きしめた。遠くから『ミーンミンミンミンミンミー』と鳴き声が聞こえる。長く暗い地中生活を終え、地上の楽園に歓喜し、吹きこぼれる生命を謳歌しているのとは対照的に、ひばりは胸を締め付けられるような声で泣いている。

 そして、自分の魂を絞り出すように、有無を言わせぬ冷めた声で私に言い渡した。

「だから、別れて」

「なぜ? そんなことを……」

 予想だにしない言葉に全てが凍り付く。何を言っているのであろうか? 病魔に侵されていると知ったら捨てるとでも思っているのであろうか。私は決して感情豊かではなく、情に厚い人間だとは決して言えない。だからと言って非情な人間ではないし、同情だけ寄り添うことは決してしない。それなのに何を言っているのか? その真意を測りかねる。ひばりは腕を解くと、再び見つめてきた。静かで優しく、悲し気な目の中にも確固たる信念を感じる。

「貴方の意思は強い。反面、人との関わり合いでは、誰よりも傷つきやすい。私には分かるの。私が死んだ後、貴方が傷つき、再び立ち直れなくなる姿が…… これ以上、傷を深くする必要はない。だから、別れてください」

「でも……それは……」

「これは、現実なの。現実は甘くはないの」

 言葉に含まれる意思の強さに狼狽してしまう。ひばりの言っていることは恐らく正解であろう。別れを経験したことのない私には未知なる領域であるし、悶え苦しんでいる時に寄り添ってくれる人などいないだろう。

 しかし、これでいいのか? 本当に正しいのか? いや、何が正しいとかではない。私にとって、そして二人にとってどうするべきなのか? 様々な思いが渦巻く。何かが噴き上げてくる。

「私には人を愛することが、どんなことが分からない。気持ちも表現できない」

 ひばりは、下を向き寂し気な笑顔を見せている。

「そう……」

「しかし、それは認めない」

 ひばりの両肩を掴むと驚きの表情を見せるが、すぐに寂し気な顔に戻ってしまう。

「貴方は、何も分かっていない。私の苦しみ、悲しみ、恐怖、怒り、そして、どんな思いで覚悟を決めたかを。貴方は、一人でいる強さを持っている。でも、人を失うことには耐えられない。私が死んだ後、貴方は休むこともなく再び立ち上がろうとして、磨り減っていく。そして潰れてしまう。私は大切な人を、これ以上傷つけない。絶対に壊さない。だから付き合えない」

「ひばりは、間違っている」

「いや、私は間違っていません。私は、大切な貴方の事だけを考えています。貴方を守るために……」

 寂し気な顔と苦悶しているひばりの表情からは、寂しさと苦しみが織り交ざり、交互に浮かんでは消えている。しかし、声は凛と張っており、意思の強さは失われていない。そっと優しく抱きしめると、ひばりは耐えきれなくなったのか全身を小刻みに震わせている。

「ひばりは、私を守るために決断した。その苦しみはよく分かる。でもね、忘れているよ。カラオケで最後に何を歌った?」

「たしか『永遠にともに』。でも、あの曲は、これからともに歩んで行く二人の歌。死に別れていく人の歌じゃない」

「そうだったね。だから、ともにどう歩むかを考えた?」

「私は…… 貴方の幸せを考えた……」

「私の気持ちは、ひばりと最後まで二人の幸せを探したい。二人の幸せは、探す物なのか、作り上げる物なのか分からない。でも、人生の幸せとは何なのか知りたい。私がそれを見つけられるとしたら、ひばりとしかその機会はないと思う」

 ひばりの両眼を真っすぐ見つめるが、心を読まれるのを拒むかのように視線を逸らしてしまう。

「貴方は、ズルい。気持ちを表現できない人が、何でこんな時だけできるの…… そんなの、とっくの昔に気が付いている。分かって言っているのに……」

「だから、二人の幸せを見つけるために、私と付き合ってください」

「貴方の言っていることは賭けです。私、勝てる見込みのない賭なんてしたくない。成功すれば二人とも幸せになれるかもしれない。でも、失敗すれば二人とも不幸になるわ。そしに仮に成功しても、今別れるより最後の悲しみは比較にならないほど大きくなるよ」

「だからと言って挑戦しなければ、もっと後悔すると思う」

「後悔するだけじゃすまないのよ。貴方は、傷ついた体で無理やりにでも立とうとする。転んでも何度も…… 何度も……」

「そうかもしれない」

 気のせいかもしれないが、ひばりの言葉からお告げのようなものを感じてしまうのは何故だろうか? 女性特有の感で、未来を予想しているのか? 

「何度も転んで、すり減って、それでも立とうとする。そんな繰り返しで貴方は潰れてしまう。今なら、私が助けてあげられる。だけど、私が死んだら一人で悲しむのだよ。苦しむのだよ。それでも、一人で立ち直るのだよ。貴方にそれができるの? 覚悟があるの?」

「そのつもりだ」

 ひばりは目を閉じ、口を固く結んでしまっている。

「分かったわ。その代わりに条件があります。私が死ぬまでに二人の幸せを見つけること。私が死んだ後、無理に立ち直ろうとせず休憩すること。それに、いつか恋をして結婚して幸せになること。約束守れる?」

「ああ。約束する」

「貴方は…… 卑怯。私の弱さを知っていて、こんなことをする。こんな時に初めて気持ちを表現する。私を必要としてくれる…… でも、ありがとう。本当は。別れたくなかった。ずっと一緒にいたかった。二人の幸せを探したかった。でも、難しいと分かった時、自分に嘘をついた。貴方のためだと。二人で相談すべきことなのに、一人だけで考えてごめんなさい。本当にありがとう」

 いつの間にか抱きしめあいながら二人で泣いていた。幸せと悲しみ、そして不安が複雑に絡まった糸のように入り混じっている。私たちは、今まで幸せや未来について考えることなど皆無であった。二人の列車の進行方向さえ気にすることもなく、これまでの日々をただ漠然として通り過ぎる車窓を眺めるかのように過ごしていた。

 私たちは、今日まで、何気なく乗っていた列車を飛び降り、発車を知らせるベルがけたたましく鳴り響く新たな列車に飛び込もうとしている。列車の行先を示す表示板を確認する間もなくだ。二人の旅は終着駅まで行きつけるのか? 今は、知る由もない。ただ駆け込まなければ、何故あの時になぜ行動しなかったのかと後悔の日々を送るに違いない。

「泣くのは終わり」

「そうだね」

「私たちの課題は、『二人の幸せ』を見つけることです。泣いていては、見つかるものも見つかりません」

 ひばりは、そっと離れる。目は腫れているが、いつもの優し気な雰囲気を漂わせた、いつもの様子に戻っている。

「酷い顔になっているね」

「も~~相変わらずデリカシーがないのだから。あの小川で顔を洗おうか」

「気持ちいいよ。貴方も顔を洗って、嫌な気分を洗い流しちゃおう」

 二人で小川の水をすくう。冷たくて清らかな水だ。気のせいか先ほどまでの悪夢が、洗い流されて澄んだ心になっていく。まるで、澄んだ水晶のようだ。

「いっぱい泣いたら、お腹すいたね」

 ひばりが、そう話すとプルルルルと携帯電話がなった。そういえば、校長先生の携帯電話を持ってきたのを思い出した。

「お昼にするから戻ってきてだって。行こっ」

「ああ、戻ろうか」

 私たちは何事もなかったかのように、ゆっくりと戻ることにした。

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