第12話 偽物の月

 いつの間にか太陽が赤くほっそりと西の空に沈もうとしていた。

 今日、結局、ホリデイはやってこなかった。

 コチはじっとしていたせいで固まっていた体をほぐしながらいつものようにジイさんに今日の出来事を聞いていた。ジイさんはゆっくりと風に揺れながら優しく話す。でもジイさんの言葉が入ってこない。なぜならコチの心がソワソワと騒がしいからだ。 太陽が世界からいなくなるとコチの心臓の鼓動はうるさいくらいにドンドンと鳴っている。いつもいるかいないかわからないのに肝心な時はやけにその存在を主張してくる。コチは心臓の鼓動を無視しなるべく自然に身支度を整える。そう。きっと頭の中を開けば頭の中はあの花でいっぱいだった。夜なら、姿を隠して、またあの花に会いに行ける。だからソワソワしている。でも、それを簡単に認めないのがコチだ。 

 コチはいつもと変わらないように夜の散歩に出かけるふりをする。月の光がコチの道標だ。街灯の光は中継地点。月が雲に隠れてサボったりしていると跳ぶ方も気が気じゃない。道に迷ってしまう事があるからだ。夜の散歩だって危険がいっぱいある。一番厄介なのは人間の住処に入ってしまう事。人間の住処に入ってしまって戻れなくなった奴はたくさんいるらしい。自動販売機の顔も知らない奴が語った事。だからあてになるかはわからないがそいつが人間の住処から戻ってきた話を聞いた事がある。もちろんそいつの実体験かは怪しいところだが、聞いた時は身震いした事を覚えている。はて、そいつはどうやって戻ってきたっけ?だから、夜の散歩だって真面目に取り組まないといけない。考え事なんてしていたら人間の住処の光に飲み込まれてしまう。コチは、大丈夫。いつもと変わらない。いや、平然を装っているだけだ。頭の中は、あの花の事でいっぱいだ。

 「ギャー」 

 闇をつんざくような悲鳴が聞こえると、コチは眩しい光に包まれた。強い光に視界がぼやけているコチは下で悲鳴を上げうごめく2体のボヤっとした大きな塊をなんとか捉えようとしていた。慌ただしい動きだ。徐々に視界が戻ってきて、コチは愕然とした。

 やってしまった。

 ボヤっとした大きな塊は徐々に輪郭を捉え人間を映し出した。どうやら、コチは人間の住処に入ってきてしまったらしい。

 悲鳴を上げた人間は、蛍光灯に止まるコチを憎々しく睨んでいた。そして、あたりを見回し雑誌を手にするとまだ読みかけだったのかその雑誌を再び机に戻し、新たな武器を探し回った。身の回りには、程度の良い武器は落ちておらず、叫び声を上げた高い声の人間は低い声の人間に怒りをぶつけながら武器を探すように促した。渋々、ソファから立ち上がる低い声の人間は別の部屋へと消えていく。相手が一人になるとコチは今だと羽を動かした。月を目指せ出口はそこだ。コチは必死に羽を動かした。とにかく早くここから出ないといけない。何度もコチは月に頭をぶつけた。何度頭をぶつけても人間の住処から出ることができない。コチ、それは私じゃなくて蛍光灯だ。窓の外で心配そうに月が覗くがコチはまだそれに気がつかない。コチが必死に羽を動かすたび高い声の人間は甲高い悲鳴を上げた。その奇声はコチにここにいてはいけないという思いを強くし焦らせた。何度も頭をぶつけるがコチは蛍光灯の存在に気づかない。そして、慌てた様子でもう一人の人間が武器を持ち戻ってきた。チラシの束を丸めた武器を誇らしげに掲げたが、声の高い人間の評価は低かった。声の高い人間の指示のもと低い声の人間はその武器をコチ目掛けて振り下ろす。及び腰で放った一発はコチを捉えることは出来なかった。高い声の罵声が轟く。コチはほっと肩を撫で下ろした。 

「お前。そこで何やっているんだよ?」

 コチは月に言った。お前だろ、と月は思ったに違いない。コチはやっと窓のカーテンの隙間からコチを見つめる月を見つけた。コチはすぐに窓を目指した。悲鳴が鳴り響く中、コチは飛び、カーテンの隙間を通り抜けて、そして再び頭をぶつけた。窓はすでに閉められていた。透明な窓ガラスを這ってみても、出口はなかった。そして、気づけばコチはいつの間にか人間の目線の高さにいた。「次は外すなよ!」と訴えかける高い声のプレッシャーを背中に浴びながら、大きな人間は武器を片手に振り上げ、コチにそーっと近づく。コチはカーテンの後ろに移動した。姿を隠したコチに向かって、逃がさぬように人間はカーテンの上から何度もチラシで作った武器を振り下ろした。

 バンバンバン!と部屋に鈍い音が響きわたる。窓の外から、月が心配そうに覗いている。 

 「カーテンが汚れるじゃない!」 

 きっとそんな事を言ったのだろう。冷静さを取り戻した人間は武器を捨て恐る恐るカーテンをめくった。コチの姿はなかった。何度も叩いたところを確認するも、潰れたコチの姿はなかった。 ガミガミと苦言をいう高い声を背に、低い声の人間はできる限りのことはやったと不貞腐れながらソファに座りリモコンを手に取り、テレビのチャンネルを変えた。殺伐とした空気をテレビの賑やかな音が濁らせた。


 コチは2人掛けソファの横にある小さな部屋にいた。部屋と言うよりは、格子状の柵で覆われた小さな檻だ。コチはそこから人間の行動を見守った。狂ったようにカーテンを叩き続けた人間。もちろんカーテンが憎かった訳ではないことくらいコチには分かった。怯えたようにカーテンを覗く人間。本当に怯えているのはコチの方だった。こんな小さなコチの存在も許してはくれない人間。何者の侵入もこの住処では許されないのであろう。とりあえず、今、目の前の危機は乗り越えたようだった。ぎくしゃくした二人の間の空気はまだ危機的な状況かもしれない。

 なんとか落ち着きを取り戻しコチが辺りを見回すと見たこともない生き物と目があった。今日は得体の知らない生き物とよく会う日だ。この檻はこいつの部屋なのか、そいつは、怯えたように檻のすみで震えながらコチを見ていた。だから、怯えたいのはコチの方だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る