第3話 居場所
木枯らし。
パタパタと不器用に動くその羽はまだ長い距離を飛ぶ事が出来なかった。コチの小さな羽ではこれが精一杯なのか、まだ練習をすればヒラヒラと蝶のように飛ぶ事が出来るのか。羽を翻す度に木枯らしと笑う声と草花の悲鳴が頭の奥からひょっこり現れた。希望はずいぶん遠くに行ってしまった。
それでもコチは寝床であるジイさんの周りだけで、飛ぶ練習をしていた。老木の幹から飛び立ち、ある程度の距離まで飛べたらまた老木の幹に戻る。その繰り返し。太陽の目を気にしてか、すぐに隠れられるようにコチはなるべく老木から距離を離れずにいた。
そんな中、一匹の蝶がヒラヒラとコチのこの小さな世界に入ってきた。そう、これが、ホリデイだった。
コチは見つからないように急いで老木の幹の日の当たらない陰に息を潜めた。
侵入者が現れると、コチはいつもこうして身を隠した。ここなら見つからない。コチの羽は老木の肌とよく馴染み、そこでは姿を消す事が出来た。
コチは、そこでいつものように侵入者が出て行くのを待っていた。でもホリデイはなかなか出て行かなかった。
ホリデイは、ヒラヒラ飛んでは、そこに咲く草花に次々と降り立ち何やら話をしている。
コチは近所に咲く草花と話をした事はない。そもそも目も合わせたりしない。姿を見られて叫ばれたりしたら大変だ。せっかく見つけた居場所。近所トラブルで追い出されたくはない。
ジイさんの立つ空き家の庭には、草は伸び放題。ホリデイが止まっていた場所にはよく見ると花が咲いていた。コチはホリデイを目で追いながら「あんな所にも花が咲いていたのか」とボソリと呟いた。
ホリデイは、一輪、一輪の花に陽気に声をかけていた。なかなか庭から出ていかないホリデイをコチは何かを思い出しているかのように黙って見つめていた。ホリデイが通り過ぎる度にそこの空気がキラリキラリと輝いた。少なくてもコチにはそう見えた。次第にホリデイから自然と目が離せなくなっていた。だからコチは自分の視線の先がどんどん自分に近くなっている事に気付かなかった。まずい。と思った時にはもう逃げる事ができない距離にホリデイがいた。
動いては見つかってしまう。見つかったらどうなる?また、あの日出会った蝶のようにコチを見たホリデイは「木枯らしだ」と騒ぎ立てるだろうか?そしたらここにも居られなくなる?
でも、それよりもコチは美しいホリデイと対峙する事が怖かった。惨めさで膨張した小さな羽はそのままコチの心と一緒に破裂して二度と飛ぶ事が出来なくなるようなそんな予感がした。
ホリデイは老木のキラキラ揺れる葉に夢中だった。老木の広げる若葉を見上げるホリデイは「うわぁ」と声を漏らしながらコチに近づいてくる。もうかなりの近さだ。ホリデイがコチの真横にすっと止まった。ここから見た老木の葉は格別に美しかったからだ。再び世界が輝くかのように。
もうホリデイはコチの小さな羽でも伸ばせば触れそうな距離だ。コチの息はさっきからずっと止まっている。「消えろ、消えろ。」と頭の中で何度も叫んだ。
ホリデイは光を閉じ込めるように大きな羽をゆっくり閉じる。その光景に思わず息を飲んだ。がその瞬間、呼吸を止めることの限界がやってきた。コチは目を閉じ頭の中で懇願した。「頼むから早くここから出て行って〜」
「おはよう。今日は風が気持ちいいね。」
ホリデイは老木に言う。風のようにふわりと優しい声だった。ジイさんも風に葉を揺らしてそれに答えた。ホリデイは、隣で窒息しそうなコチには全く気付いていなかった。それほどコチは老木の肌と同化していた。このまま気づかずどこかに飛んで行ってくれる事をただ祈るだけ。でも、コチの祈りはすぐに遠くに逃げていった。ホリデイの驚いた声が、コチに届いた。
「ん?・・うわッ。びっくりした。なんだよ。いたのかよ?」
コチは、ドキッと体はそのままに、心臓だけが飛び跳ねた。それでも、まさか、自分に声を掛けている?そんな訳ない。隠れる事には自信があった。声のする方に、ゆっくりと静かに顔を動かした。目が合う。その瞬間、コチの息がバァーっと吹き出した。その蝶は確かにコチを見つめている。
見つかっている。
コチは、再び息を吸い込んで、すぐに視線を反らした。宙を向き、黙ったまま動かないでいると、ホリデイは羽を翻し、コチの見上げる宙に現れた。
「おい。今、目が合ったよな?なんで無視すんだよ。」
ダメだ。完全にバレている。ホリデイは大きな羽を優雅に羽ばたかせながら、見上げるコチの顔を覗いた。陽気に話すホリデイに対して、コチの顔は、強張り、怒りに満ちた表情に変わった。
「ここから出ていけ。ここは、僕の場所だ。」
コチは力一杯、目の前の美しい蝶に向かって叫んだ。ホリデイも、いきなり「出て行け」なんて言われたものだから、黙っていない。
「なんだ。ちゃんと口があるじゃないか。でもすげぇバカな口だな。ここは俺の場所だ。見上げてみろよ。空があるだろ?なら、ここは俺の場所なんだ。」
コチはホリデイのいう言葉に顔をしかめた。コチの防衛本能は少し違う方向に高まった。
「うるせー。いいから出て行け。」
「嫌ならお前がどっかに行けばいい。」
コチが怒りに任せて怒鳴るのに対し、ホリデイもムキになって答える。
お互いが、この場所を譲らなかった。場所というのなら、ここは老木の幹の上。文句一つ言わず老木は、黙って2匹のやりとりを見守っている。
2匹の言い争いは、お互いが「出て行け」の一点張り。2匹とも譲らない。でも、長期戦にはならなかった。口の悪いホリデイの何気ない一言で簡単に終わった。
「だったら、どっちにここにいてほしいか。この木に聞いてみようぜ。きっとこの木は俺を選ぶに決まっている。だって見てみろ。お前の不細工な面。きっと、この木は、お前がここにいて迷惑なはずさ。」
ホリデイは、そう言うと噴出すように笑い出したが、すぐに笑い声は気不味そうに外に出る事を拒んだ。それを聞いたコチが、突然、俯き黙ってしまったからだ。
「ジイさんは、選んだりなんかしないよ。」
コチは、そのまま小さな羽を広げ、老木から飛び立った。
「え?行くの?おい。終わりかよ?」
ホリデイは、不器用に羽を動かし飛ぶコチの後ろ姿を目で追った。ホリデイは一匹、老木にぽつんと残された。老木の葉が風に揺れる。
「なんだよ。あいつ。冗談もわからないのか?つまらない奴だよ。なあ?」
ホリデイは、不貞腐れたように老木に呟いた。
それに答えるように、風で葉が揺れる。
「クソつまらないのはこっちか。」
ホリデイは、居心地が悪そうに頭をぽりぽりと掻きながらジイさんの葉で作られた影を見つめた。
「あんた。ジイさんって言うんだな。」
出て行ったあいつが呼んでいた名前。ホリデイの知らなかった名。
「ジイさん。行っちゃったね、あいつ。まあ、俺が追い出したのか。」
若葉が風に揺られてチカチカとホリデイの羽を照らす。
「分かったよ。あいつをここに連れて帰るから許してくれよ。ジイさん。」
ホリデイは面倒くさそうに羽を広げた。
「教えてよ。あいつの名前は?」
葉が優しく風に揺れる。
「そっか。」
ホリデイは、飛び立ち、コチの後を追った。
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