第2話 ホリデイ

★コチは小さな蛾。


 あだ名は『木枯らし』


 空に太陽がいた。


 コチはいつもの寝床にいた。


 コチの寝床は、老木だ。


 誰もいなくなった民家の脇にひっそりと立つこの老木はもう長い間ここにいる。


 民家の屋根に老木が落とした葉が散らばり風に身を任せ飛んでいく。雨樋には置いてきぼりの葉が枯葉に変わり重なり山となる。老木は積もる枯葉を数え、過ぎた年月を思い出し風に揺れる。


 青々とした木の葉が風に吹かれサラサラと音を出す。


 コチは、この老木の優しい声が好きだった。


 コチはこの寝床である老木を「ジイさん」と呼ぶ。ジイさんはいつもコチを優しく迎えた。


        ✳︎


 出会った頃のジイさんは枯れ木であった。 


 太陽の視線から逃げるようにやってきたコチは同じ色をした枯れ木のジイさんの体にしがみつき隠れた。


 ジイさんは何も言わない。


 目を伏せるようにジイさんの体にうずくまるコチ。


 その時、声がした。


 風かな?


 顔をあげるとジイさんの枝先から産まれたての小さな緑がキラリと陽光に反射した。その葉にコチは、ため息しかでなかった。「ここから出ていけ」と緑が睨んでいるような気がした。


 「また引越しだ。」


コチが何度目かの身支度を整えていると再び声がする。


 いらっしゃい。コチ。


         ✳︎


 忌々しい太陽が空にいる間、コチはいつもジイさんといた。ジイさんの葉が作る影の下に隠れ、太陽がいなくなるまで、時間が過ぎるのを待っていた。ジイさんはコチの話す言葉にそっと耳を傾け風にのせて頷いた。


 あいつがいなくなってから、また、ジイさんと過ごす時間が長くなった。


 「なあ。ジイさん。今日もホリデイは来ないのかな?」


 揺れる葉の隙間から光がチラチラとコチを覗いた。


 朝の汚れない光の中から、ホリデイの声が聞こえる。それは、いなくなってしまった朝の記憶だ。



 「おはよう。コチ。今日も太陽はちゃんとお目覚めだ。」


 ホリデイはジイさんのいる庭にやって来るとすぐにコチを呼んだ。


 でもコチはそれに返事をしない。それは、もう寝ているというアピールだ。それでも、ホリデイは、庭から老木の枝で寝ているふりするコチに向かって気にせず大声で話しかける。


 「コチ。公園にまた、シワ帽子が現れたぞ。しかも、自転車のカゴにお弁当まである。きっと遠出だな。そんな所で寝たふりなんかしていないで出かけようぜ。」


 ホリデイは、ジイさんの庭をヒラヒラと飛び回っている。


 そう。ホリデイは蝶なんだ。


 コチの小さな羽とは違い、ホリデイの羽は大きい。ホリデイの透き通るような大きな羽は、朝の光がそこに閉じこもっていたかのように、羽を翻す度にキラキラとその場所に輝きを与えた。ホリデイは、ヒラヒラと廃屋の庭に無雑作に生える草花に出会う度に調子よく声をかける。草花は、どこか、嬉しそうに、朝の光に向かって大きなあくびして、1日の始まりを迎える。


 コチは、なかなかこっちにやって来ないホリデイにイライラしながら、眠い目をこする。本当に眠った所で、ホリデイに起こされるに決まっている。


 「おはよう。ジイさん。今日もいい風が吹いているよ。なんか素敵な便りがあるかい?」


 この老木をジイさんと呼ぶのは、コチとホリデイだけだ。


 庭を一回りしてホリデイがようやくコチの隣にやってきた。陽光に美しく煌めく大きな羽がコチの隣で惜しまれつつゆっくりと閉じる。


 ホリデイと出会って、まだ間もない頃、コチはホリデイの美しい姿に恥じらい、傍にいるだけで小さいコチが、さらにミジンコのようにもっと小さく縮こまるようだった。 でも、それもいつの間にかなくなっていた。気づいた時には、ホリデイに対して恥じらいを持たなくなっていた。しつこく毎日やってくるホリデイに馴れてしまった事もあるだろうが、ホリデイが呆れるほどに能天気であったからだろう。


 やっとコチの隣に来たホリデイはさらにうるさかった。


 「おーい。コチ。起きろよ。そんなふざけた寝顔しやがって。俺を笑わせる気だな?そうはいかないぞ。コチ。」


 もちろんそんなつもりはない。コチはその言葉を無視した。しばらくホリデイの視線を感じながらコチは寝たふりを続けていると、すぐにホリデイは吹き出し笑った。


 「ダメだ。ずるいぞコチ。ふざけすぎだよその顔!」


 独りで笑い転げている。ホリデイの声は大きかった。


 「おーい。コーチ!コチ?コーチィ!起きろよ!」


 コチには上空で「チュンチュン」と不気味に鳴く鳥の声がずっと聞こえていた。ホリデイの騒ぐ声に気づき、餌になるのはごめんだ。限界だ。


 「しー。ホリデイ。静かにしろ。上の奴らに聞こえるだろ!」


 コチの焦る顔を見てホリデイは、いたずらな笑みを浮かべた。


 「なんだ。やっぱり起きてるじゃないか。」


 「うるせー。誰の顔がふざけてるんだよ。いつもふざけた面しているのはお前だろ?」


 いつもホリデイは、無邪気に笑う。


 「おはよう。コチ。」


 朝の光がそうさせるのか。ホリデイの汚れない笑い声がそうさせるのか。怒ることさえ、馬鹿馬鹿しく思えてしまう。


 「『おはよう』じゃないんだよ、ホリデイ。何度言ば分かるんだ?こっちは今から寝るところだ。」


 「おいおい。こんな太陽がご機嫌な日に眠るような奴がいるのか?そいつは一体どんな間抜け面をしている?」


 そう言うとホリデイはコチの顔を覗き込んで言った。


 「こいつはすごい!」


 ホリデイがまた笑う。


 ホリデイのバカでかい笑い声を聞くたびに、コチには「チュンチュン」と不気味な声が近づいてくる気がした。


 「早く行こうぜ。コチ。日が暮れちゃうよ。」


 「だからそれを待っているの。チカチカと鬱陶しい太陽とホリデイがいなくなるまで僕はここにいるんだよ」


 沈黙。


 言いすぎたかな?いや、そんなはずはない。とホリデイの顔を伺うとホリデイは上を見上げていた。


 「コチ。やばい。鳥がこっちに来るぞ。逃げろ!」


 「だから言ったじゃないかよ」


 これがコチとホリデイの朝のお決まりの時間。いつからこんなやりとりが始まったのか。この2匹が初めて顔を合わせたのもジイさんの木の上だった。



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